伊庭 孝(いば たかし、1887年12月1日 - 1937年2月25日)は、日本の俳優、演出家、作詞家、音楽評論家である。佐々紅華、田谷力三、藤原義江らとともに「浅草オペラ」を築き上げたことで知られる。1887年(明治20年)12月1日、東京市に生まれる。伊庭想太郎の養子で、幕末の幕臣伊庭八郎の甥にあたる。東京府立一中時代には谷崎潤一郎らと同期だった。のち天王寺中学に転じて同志社神学校(現 同志社大学)に入学するも、高畠素之、遠藤友四郎らとともに学内で社会主義を唱え、1年半ほどで中退する。1912年(大正元年)10月、24歳のとき、上山草人らと「近代劇協会」を設立、有楽座での旗揚げ公演はイプセン作の『ヘッダ・ガブラー』、翌1913年(大正2年)3月、帝国劇場でグノー作のオペラ『ファウスト』を上演、オーケストラの指揮は竹内平吉が執った。1915年(大正4年)4月4日、ピアニスト沢田柳吉の紹介でダンサー高木徳子と出会う。翌1916年(大正5年)9月、28歳のとき、高木とともに「歌舞劇協会」を設立、川上貞奴の一座との合同公演を甲府、暮れには赤坂区溜池(現在の港区赤坂1-2丁目あたり)で行う。このときのメンバーに岸田辰彌、沢モリノがいた。明けて1917年(大正6年)1月22日、浅草公園六区の根岸興行部「常磐座」でオペラ『女軍出征』を上演、大ヒットする。ここから「浅草オペラの時代」が始まるとされる。1918年(大正7年)9月、有楽座でビゼー作の『カルメン』、伊庭作・竹内作曲の新作オペラ『沈鐘』を上演する。高木、岸田らのほか、石井漠が加わっていた。1919年(大正8年)には高木は松竹の専属になり、伊庭は松竹傘下で「新星歌舞劇団」を結成。岸田辰彌、高田雅夫、高田せい子、戸山英二郎(藤原義江)らローヤル出身者がそのメンバーで、小杉義男は伊庭の門下生となった。同年5月に「夷谷座」で伊庭の新作『無頼漢、戦争の始終』を公演、翌6月には岸田は退団して宝塚歌劇団入り、同年10月、高木が27歳で死去、翌1920年(大正9年)3月、藤原がイタリアへ留学へ立つ。そこで、同1920年8月、根岸興行部の「金龍館」館主・根岸吉之助が、伊庭、高田夫妻、清水金太郎・清水静子の夫妻、田谷力三、堀田金星といった「新星歌舞劇団」幹部を松竹から引き抜き、根岸専属とし、「根岸大歌劇団」を結成、同年10月11日に伊庭作詞、竹内平吉作曲、高田雅夫コレオグラフによる新作オペラ『釈迦』を公演、『嫁の取引』公演では高田の弟子として同劇団に参加した二村定一(当時「二村貞一」)が初舞台を踏んでいる。1921年(大正10年)8月10日、佐々紅華(東京蓄音器社員)とともに退団、奈良県生駒山に「生駒歌劇団」を結成する。山頂で8月に竹内作曲の『入鹿物語』、9月に『嘘の皮』などを上演したが、10月には解散し、伊庭は引退を表明する。その後、伊庭はオペラの出演や作演出からは離れ、音楽評論に没頭する。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災による「浅草オペラ」の崩壊とも無縁の状態となっていた。それでも、1927年(昭和2年)2月20日には、伊庭の訳したマスカーニ作の『カヴァレリア・スチカーナ』が、田谷力三、佐藤美子、松平里子、内田栄一の出演と近衛秀麿の指揮、JOAKオーケストラの演奏により、「ラヂオ歌劇第一回」として生放送されている。第2回は3月27日放送のベートーヴェン作の『フィデリオ』、第4回は5月19日放送のモーツァルト作の『フィガロの結婚』、第5回は6月16日放送のグノー作の『ファウスト』、第7回は7月19日放送のサリヴァン作の『軍艦ピナフォア』、と、このまま1936年(昭和11年)まで、根気よくこの新しいメディアでのオペラにつきあっている。音楽理論についての書物を著し、また、雑誌『音楽世界』(音楽世界社)に執筆、ジャズの訳詞などを手がけた。1930年(昭和5年)には、のちのタップダンサーの草分けとなる、まだ14歳の中川三郎に楽劇理論を教えている。1937年(昭和12年)2月25日に死去。49歳没。友人たちによって行なわれた音楽葬が、日本での「音楽葬」の始まりとなった。雑誌『レコード音楽』の11巻4号は伊庭の追悼号となった。
出典:wikipedia
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