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来歙

来 歙(らい きゅう、? - 35年)は、中国の新代から後漢時代初期の武将。後漢草創期の功臣である。字は君叔。荊州南陽郡新野県(河南省新野県)の人。武帝時代に光禄大夫を務めた来漢の6世の子孫。父は、哀帝時代に諫大夫を務めた来仲。また、来仲の妻は、光武帝(劉秀)の祖父の姉妹である。妹の夫は劉嘉。弟は来由。子は来褒。劉秀からは、若年時代から親しく敬重されていて、2人で何度も長安と南陽の間を往来したことがあった。劉秀が挙兵すると、来歙は劉氏と姻戚関係にあったことから、王莽の命令で収監されたものの、賓客たちに救出された。劉玄が更始帝として即位すると、来歙は小役人として登用され、長安まで随従している。しかし、提案が全く採用されないことから、病気を口実に辞去した。ただ、この間にも、来歙は同じく更始帝配下であった隗囂と面識を得ている。その後、妹の夫である漢中王劉嘉から招聘されて、その陣営に加わる。建武2年(26年)、来歙は劉嘉に光武帝への臣従を進言し、劉嘉と共に洛陽の光武帝に拝謁した。光武帝は来歙との対面を大いに喜び、自身の衣服を来歙に着せるほどまでに歓迎して、太中大夫に任命している。隴右の隗囂、蜀(成家)の公孫述への対処を光武帝から問われた来歙は、隗囂を説得して味方につけるよう進言した。そして、来歙は建武3年(27年)より、隗囂への使者の任務を務めるようになる。建武5年(29年)には、馬援と共に隗囂に入朝を勧め、隗囂は子の隗恂を人質として光武帝の下に送った。この功績により、来歙は中郎将に任命されている。建武6年(30年)、光武帝は隗囂に蜀進攻を迫るため、来歙に符節を持たせ、使者として派遣する。しかし、隗囂は腹心王元などの勧めもあって、すでに公孫述への傾斜を強めていた。言を左右する隗囂に激怒した来歙は、遂に憤って隗囂を問い詰め、前に出て刺そうとするが、隗囂は兵を呼び集め、来歙は節杖を地に突いて退出した。隗囂は、王元の進言に従い、来歙を追って殺害しようと図ったが、来歙は王遵を始めとする多くの隗囂配下から尊敬されており、彼らの取りなしのおかげで無事光武帝の下へ帰還した。建武7年(31年)、隗囂は公孫述に帰順し、朔寧王と為される。隗囂は三輔を攻めるが馮異・祭遵に阻まれる。対して光武帝は来歙をして書を送りて、隗囂から王遵を引き抜かせた。建武8年(32年)春、来歙は征虜将軍祭遵と共に(ただし、途中で祭遵は病のため離脱)、隗囂領の略陽(天水郡)を急襲し、守将金梁を討ち取って占領している。その速攻に驚き慌てた隗囂は、精鋭部隊を率いて略陽を包囲攻撃したものの、来歙は堅く守り抜き、同年秋になっても落城しなかった。やがて光武帝が親征し、隗囂軍は潰走している。光武帝は、来歙に大いなる賞賛と褒賞を与えた。その後、来歙は、長安の守備と各将の督察を任されている。建武9年(33年)8月、来歙は、征西大将軍馮異ら5人の将軍を率い、天水に篭る隗囂の遺児隗純、公孫述の部将田弇、趙匡を討伐した。翌建武10年(34年)8月、馮異が趙匡を討ち取り、同年10月、来歙は落門聚(天水郡冀県)で隗純を撃破してこれを降伏させ、ついに隴右を平定した。冬には、かつて隗囂に従属していた先零羌などの北方民族が、金城郡・隴西郡に攻め込んできたが、来歙はこれも撃破した。そして、戦乱のために困窮していた隴右の民衆のために、来歙は公庫を開いて糧食を提供し、救済している。建武11年(35年)6月、来歙は、下弁(武都郡)で公孫述の部将王元、環安を撃破したが、環安が放った刺客により暗殺されてしまった。その死の直前、来歙は今後の方針や戒め等を託すため、蓋延を呼びつけたが、蓋延は悲しみの余り涙にくれ、来歙はこれを一喝したとの逸話が残る。来歙の死を伝えられた光武帝も涙し、その功績を讃えるため、当郷県(汝南郡)を征羌国と改めた。子の来褒が後継した他、建武13年(37年)、来歙の忠節を嘉し、光武帝は来歙の弟来由を宜西侯としている。他方、嫡流である来稜(来褒の子)は明帝の公主を妻に迎え、その子の来歴(字は伯珍)は順帝の永建年間(126-132年)に車騎将軍、大鴻臚にまで昇った。以後も来氏は後漢末まで何度か顕官を輩出している。

出典:wikipedia

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