本項では、レーダーの歴史について述べる。1887年、ドイツの物理学者であるハインリヒ・ヘルツが電磁波の人工的な発生と検出に関する実験を行った。電磁波の存在はイギリスの物理学者であるジェームズ・クラーク・マクスウェルによって理論的に予言されていたが、ヘルツの実験によってはじめて立証された。1904年、ドイツの発明家クリスティアン・ヒュルスマイヤー()はドイツとオランダで電磁波の反射で船を検出して衝突を避ける実演を行った。火花送信機とコヒーラー受信機、ダイポールアンテナにより距離5kmの船舶の探知を実用化し、英国において"Telemobiloscope"の名で特許を取得したが、海軍には採用されず、生産されなかった。後に彼は電波測距儀の特許を取得している。 ドイツでは1933年から、海軍の通信手段試験場(NVA)にて博士の研究班が実用的なレーダーの開発に着手した。1934年にはの技術者、とともに試作品の実験が行われ、12kmの距離から目標となった艦を探知している。またこの時、試験場から700m離れた位置を飛行していた航空機、の探知にも成功した。一方、米国と英国では1930年頃から、電離層の観測目的で電波の利用が行われていた。その後、航空機の通過で観測が妨害される現象を逆に使用して、航空機を発見するためのラジオ・ロケーターと呼ばれるレーダーの開発が始められた。イギリスはこの電磁波を兵器(殺人光線)に利用できないかロバート・ワトソン=ワットに打診し、殺人光線としては利用できないが、航空機の早期発見には役立てることができるだろうとの見通しを得た。英国が最初に航空機の探知に成功したのは1935年のことである。1930年代に、ドイツでは、ヴィルスンとアーブスローが海軍司令官エーリヒ・レーダーの指示のもとで、イギリスでは、ロバート・ワトソン=ワットらにより航空省が援助して開発が進められ実用化され、1940年にイギリスはマグネトロン、翌1941年にはこれを用いたマイクロ波レーダーの開発に成功、ドイツ空軍の空襲に対する迎撃戦闘で大々的に使用し、ドイツのイギリス侵攻の阻止に大いに役立った。1942年には世界初の(PPIスコープ)を採用したH2S_(レーダー)の開発にも成功する。ドイツ空軍の空襲に対してイギリス空軍はレーダーを使った防空システムの整備により有効に対処することができ、この戦いは戦局の分水嶺となった。また、イギリス空軍は、ドイツ空軍による夜間爆撃に対抗するため、機上レーダーを搭載した夜間戦闘機を1941年に世界に先駆けて実用化し、ドイツ空軍の夜間爆撃を封殺した。海上戦闘でも、サボ島沖海戦やビラ・スタンモーア夜戦で、アメリカ海軍がイギリスからの技術供与で実用化したマイクロ波レーダーを活用して日本海軍を相手に勝利をおさめた。補給路を脅かす潜水艦に対してもレーダーは有効に働き、連合軍の海上輸送路の防衛に大きな役割を果たした。こうして、レーダーは戦術、戦略上でも重要な兵器であることを実証した。ドイツ本土防空戦においては、イギリス空軍が夜間爆撃機の航法のためにマッピング・レーダーを搭載した。一方でドイツ空軍は夜間爆撃機に対して、夜間戦闘機にリヒテンシュタイン・レーダーなどを搭載して対抗したが、イギリス空軍も夜間戦闘機を護衛につけるなど対抗策を取ったため、イギリス空軍の夜間爆撃機が大打撃を被ることは少なかった。日本でも、本土防空用にレーダーを組み込んだ早期警戒システムを整備したり、レーダー搭載の夜間戦闘機を開発したが、情報を管理するシステムに問題があり、戦闘機の数自体も不足していたため、有効に機能することはなかった。1925年(大正14年)日本人の発明した八木・宇田アンテナ(以降、「八木アンテナ」)は、既存の技術に比べると非常に容易に指向性を得ることができる、実に画期的な技術だった。しかし、日本では全く反響が無く学会から無視された。一方欧米では大々的な評判を呼び、各国で軍事面での技術開発が急速に進んだ。英国ではバトル・オブ・ブリテンの時点では無指向性アンテナを複数使用し各アンテナが受信した電波の位相差から方位を測定する短波帯の「CHレーダー」により目標位置を特定していたが、直ぐに八木アンテナを使用したVHFレーダーを実用化した。なお、八木アンテナはその後、主に家庭のテレビアンテナなどとして広く使用されるが、21世紀の現在でも当初の頃からほとんど変わっていない。それだけ完成度の高い技術だったことになる。マグネトロンそのものは1921年、により発明されたが、当初は効率が悪い上に性能が不安定であったために顧みられず、送信機の発信機としては三極管やクライストロンが用いられていた。その後、1927年に日本の岡部金治郎が分割陽極型マグネトロンを、1940年にイギリスのジョン・ランドールとが空洞マグネトロンを発明したことで、レーダーの波長は、メートル波から一気にセンチメートル波へと進んだ。分解能が向上したことで、より小さい物体をも検出できるようになった。イギリスはマグネトロンを早くからレーダーに応用し、バトル・オブ・ブリテンの前にはセンチメートル波レーダーを実用化、ドイツ空軍の迎撃で効果を発揮した。この成果をアメリカ合衆国にもたらしたのがである。。イギリス軍は1942年には(PPIスコープ)の開発に成功し、レーダー観測員の負担を大幅に減少、最終的にパラボラアンテナを用いたレドームの開発にも成功し、大戦後期には航空機へのレーダー搭載も幅広く行われる事になった。電波兵器たる「レーダー」の日本語訳としては、帝国陸軍の造語である「電波探知機」の名称・呼称があり、これは「電探(でんたん)」の略称とともに一般化している。この総称「電波探知機(電探)」をさらに陸軍では、電波の照射の跳ね返りにより目標の位置を探る警戒・索敵レーダーに対し「電波警戒機(警戒機)」(および「超短波警戒機」)、高射砲などが使用する射撃レーダーに対し「電波標定機(標定機)」と二種類に区分している。この「電波探知機」の名称・呼称は陸軍の開発指揮者である佐竹金次少佐(当時)が、ある会議で「"電波航空機探知機"」と述べたのが簡略化(「電波探知機」)されて普及したものである。しかしながら帝国海軍においては、警戒・索敵レーダーに対し「電波探信儀」の名称・呼称を使用していた。さらに、目標の電波探信儀が発した電波を傍受する一種の方向探知機に対しては、(陸軍の造語で狭義のレーダーを意味する)「電波探知機」(および「超短波受信機」。略称として「逆探」とも)称を充てており、「(陸軍称および一般称たる)電波探知機」と混乱が生じている。なお、戦後は「(陸軍称および一般称たる)電波探知機」が広く世間に定着したため、「(海軍称たる)電波探信儀」は廃れてしまっている。なお旧日本軍(陸海軍)のレーダー開発史においては、防空を主として重んじることから陸軍が先進的な存在であり、かつ陸軍上層部自体の理解も当初から高いもので、陸軍科学研究所において電波を通信以外の用途に利用する研究を開始したのは1932年(昭和7年)、航空機探知を目的とする狭義のレーダー研究を促進し始めたのは1938年(昭和13年)春、レーダー受信実験の成功は1939年(昭和14年)2月である。陸軍側の開発指揮者は佐竹金次大佐を中核に、ほか畑尾正央大佐・新妻清一中佐(各最終階級)等。1943年後半のビルマ戦線(ビルマ航空戦)を例に、飛行第64戦隊の一式戦「隼」などからなる日本陸軍航空部隊(第3航空軍)の戦闘隊は、無線傍受解析(シギント)・電波警戒機(レーダー)・対空監視哨を主軸に前線で以下の早期警戒体制を構築していた。1943年11月27日ビルマ戦線、来襲したアメリカ陸軍戦闘機・爆撃機連合84機を第64戦隊第3中隊の僅か9機の戦闘機(一式戦8機・二式戦「鍾馗」1機)が邀撃、2機の喪失と引き換えに戦闘機6機・爆撃機3機を確実撃墜する大戦果を挙げているが(米側被撃墜9機は裏付の取れている確実な記録)、この空戦にて第64戦隊機は電波警戒機が探知した米機位置情報を無線電話によって空中受信、地上誘導を受け有利な位置で攻撃を行っている(特に黒江保彦大尉機はミンガラドン基地と無線電話で頻繁に通信し次々に電波警戒機による敵機情報を受信)。さらに特筆に価する点として、ビルマ航空戦において大戦後期たる1943年7月2日から1944年7月30日の期間、日本陸軍の一式戦は空戦で83機の喪失と引き換えにスピットファイア18機・P-51A 15機・B-24 21機を含む連合軍機135機の確実撃墜を記録している(機種内訳は戦闘機70機・爆撃機等32機・輸送機等33機)。単純に撃墜戦果の比較で日本軍劣勢の1944年半ばにおいても日本陸軍航空部隊は連合軍空軍と互角ないしそれ以上の勝負を行っていた。レーダー開発・運用に柔軟で先進的であった陸軍と異なり、上層部の理解が低かった海軍では(陸軍が既にレーダーを研究中である)1936年に海軍技術研究所の谷恵吉郎中佐がレーダー研究の旨を上に進言するも、「闇夜の提灯」と一蹴され、同研究所の伊藤庸二中佐の下でマイクロ波パルスを利用した「暗中測距儀」の実験を独自に行っていたにすぎなかった。これは1940年10月、大観艦式のため東京湾鶴見沖に停泊中の空母「赤城」に海岸から10cm波を発射した結果、その反射波を捕らえることに成功したが、あくまで「レーダーらしき装置」にすぎないものであった。1940年12月出発の陸軍に続き、1941年3月に海軍遣独視察団(団長は野村直邦中将)に参加した伊藤中佐らも随員として参加。伊藤はドイツの先進的なパルスレーダーを調査し本国に報告、また同時期にはロンドン駐在の濱崎諒中佐もバトル・オブ・ブリテンにおけるイギリス軍のレーダー部隊の実戦投入と活躍を報告しその有効性を主張。これらの情報により同年5月に海軍はようやく本格的な対空警戒・索敵用レーダーの研究を開始した。1941年9月初旬、試作機をもって横須賀市野比海岸で対航空機実験が行われ、中型攻撃機を距離約100kmで探知することに成功。なお、この開発には陸軍と共にパルスレーダー(のちの「超短波警戒機乙」)を研究・開発していた日本電気の技術陣が協力している。開戦後の1942年5月、実験的に戦艦「伊勢」に対空警戒レーダー「二式二号電波探信儀一型」が搭載され、航空機単機を55km・僚艦の戦艦「日向」を20kmで探知、これは合格・採用となった。これと同時の実験として、マイクロ波を用いる対水上警戒レーダーである「仮称二号電波探信儀二型」が戦艦「日向」に搭載され、僚艦「伊勢」を35kmで探知したがこちらは不採用であり、長期にわたり手直しが続けられた結果1944年7月にようやく合格となった。各艦への配備は「二式二号電波探信儀一型」は1942年6月以降、「仮称二号電波探信儀二型」は1944年7月以降となる。初期のレーダーは雨が降ると反射されほとんど役に立たなかったうえ指向性も不十分だったが、改良を続けることにより光学測距と遜色ない精度がでるようになり、事例は少ないが海軍においてもレーダー射撃による対艦攻撃が実践されている。「仮称二号電波探信儀二型」は1,000台以上が量産され、戦争末期に主力艦から駆逐艦まで多くの艦艇に装備されたが信頼性に欠ける代物でしかなかった。海軍でも機上レーダーは幾つか開発され、対水上レーダーである「三式空六号無線電信機」(1942年8月完成)は相当数が量産され実戦に投入されたものの敗戦まで手直しは続いており、「月光」が搭載した対空レーダーも信頼性が低くこれは戦果に繋がることはなかった。さらに搭乗員・整備員が扱いに不慣れであったこともあり、「アテにできぬ」と飛行性能向上のために取り外されたこともあった。1943年には海軍も陸軍と同様にドイツから「ウルツブルク・レーダー」の技術指導を受け、1944年にデッドコピーを行い試作品を開発している。当時の日本製電子兵器の弱点は、優良な銅素材の不足による真空管の耐久性の低さにあった。これにより、レーダーの高出力化、システムの小型化など全ての面で連合国に後れを取る事になった。耐震性の高い真空管を製造できなかった事から、基礎理論は単純なレーダー技術である近接信管の実用化も行えなかった。
出典:wikipedia
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