小池 正直(こいけ まさなお、1854年12月23日(嘉永7年11月4日) - 1914年1月1日)は、日本の陸軍軍人。貴族院議員。陸軍軍医総監・正四位・勲一等・功二級・医学博士・男爵。山形県鶴岡市出身。鶴岡藩医・小池正敏の長男として生れる。大学東校に入り、陸軍軍医生徒となり、1881年3月、東京大学医学部を卒業。同期は三浦守治、高橋順太郎、中濱東一郎、森林太郎、佐藤佐、賀古鶴所であった。同年6月、陸軍軍医副に任官し、東京陸軍病院に配属。大阪陸軍病院、軍医本部付(釜山駐在)、近衛付、軍医学舎教官、兼陸軍省医務局副課員、医務局第1課長心得などをへて、1888年3月からドイツに留学した。帰国後、陸軍軍医学校教官、医務局第1課長などを歴任。日清戦争に第1軍兵站軍医部長として出征し、戦後、占領地総督部軍医部長となった。1898年8月、軍医監(少将相当)に昇進し、陸軍軍医の人事権をにぎるトップの陸軍省医務局長に就任した。1901年3月9日、軍医学校長事務取扱。日露戦争では、医務局長として大本営陸軍部の野戦衛生長官、さらに1904年2月10日には、満州軍兵站総軍医部長となった。しかし国内で、脚気患者の大量発生と軍医不足という悲惨な状況が知られはじめると、衛生の総責任者である小池に対する批判が高まり、戦後も小池が医務局長を辞任するまで『医海時報』に陸軍批判の投稿がつづいた(詳細は、日露戦争での陸軍脚気惨害を参照のこと)。1905年6月に陸軍軍医総監(中将相当)に昇進、1907年11月に休職、1910年6月29日に予備役編入。1899年3月、医学博士号取得。1907年9月、日清戦争・日露戦争の功にて、男爵の爵位を授爵し華族となり、1911年7月から1913年1月まで貴族院議員在任。1914年1月1日、死去。(「官報」以外の文献では、死亡日を1913年12月31日とすものもある。)
出典:wikipedia
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