LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

女真

女真(女眞、じょしん、満州語: 転写:jušen)は、女直(じょちょく)ともいい、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していた満州民族。民族の聖地を長白山とする。10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。「女直」は遼興宗の諱(耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた(避諱)ため用いられるようになった。金朝を滅ぼしたモンゴル帝国および元朝時代の漢文資料では「女直」の表記が多く見受けられ、同じくモンゴル帝国時代に編纂されたペルシア語の歴史書『集史』などでも金朝や女真人について言及される場合、「女直」の音写である جورچه jūrcha で呼ばれている。女真は満洲に居住していた黒水靺鞨と呼ばれた集団の、彼等自身の自称を当て字したものとされる。主に農耕・漁労・牧畜・狩猟に従事し、中国との間で朝鮮人参・毛皮を貿易していた。黒水部・粟末部など様々な部族が在り、長く統一される事がなかった。また10世紀後半から11世紀に掛けて頻発した高麗軍の入寇のうち、1019年の刀伊の入寇において対馬、九州の大宰府を襲った「刀伊」(朝鮮語で外様を意味する)という海賊集団は、女真系の一部族が主体だったと考えられている。刀伊の構成員については高麗人や契丹人なども混じっていたと言われるが詳細は不明である。歴史に現れて以来、遼(契丹)に従っており、中国化の度合いによって熟女真と生女真の2大集団に分かれていた。12世紀はじめに完顔部の阿骨打が出て女真の統一を進め、1115年に遼から自立して金を建国した。金は、遼、北宋を滅ぼし中国の北半分を支配した。金の時代に、漢字や契丹文字の影響で女真文字をつくったが、元・明の間に忘れ去られた。やがて、金がモンゴル帝国に滅亡させられた際には、故地を既にモンゴル軍に奪われて中原に取り残された大勢の女真がモンゴル人と漢人双方からの攻撃を受けて大半が死滅し、中原から女真の集団は消滅した。一方、故地に残って集団を保っていた女真は、モンゴル、元に服属することになった。元代の女真は満洲から朝鮮半島北部にかけて居住して元の支配を受けており、元の日本侵攻(元寇)にも女真兵が加わっている。元の滅亡後、女真はモンゴルから離れ、小集団ごとに明に服属した。また、朝鮮半島では高麗に変わって登場した李氏朝鮮が世宗の時代に朝鮮半島北部の女真居住地域を征伐し、平安道、咸鏡道に組み込まれ、半島北部からは女真人の姿は失われていった。15世紀から16世紀にかけて、満洲最南部の朝鮮に接する鴨緑江や豆満江流域の女真人たちは、たびたび李氏朝鮮に反撃を仕掛け、豆満江南岸地域の争奪を繰り返した。明は女真を部族ごとに衛所制によって編成し、部族長に官職と朝貢の権利を与えて間接統治を行った。明代後半には、女真は大きく2つのまとまった集団である建州女直(自称は「マンジュ」(満洲))5部・海西女直(自称は「フルン」)4部と、それより東方に住んでまとまりの弱い野人女直(この当時の野人女直は女真族の集団の中では最も勇猛だった)と呼ばれる4部からなっていた。16世紀末に建州女直から出たヌルハチはこれら13部族を統一して、1616年に後金を建てた。1635年にホンタイジがモンゴルのチャハル部を下して元の玉璽を入手すると、漢字としては蔑称のニュアンスを含む上に、モンゴル高原の契丹に従属していた当時の女真の民族名を嫌い、1635年11月22日(天聡9年十月庚寅)に民族名を満洲族(満洲民族の項参照)に改めさせた。また、それまでは女真族王朝である金の後裔として「後金」と名乗っていたが、民族名の変更に伴って翌1636年に国号も「清」に改めた。白頭山周辺は、もともと濊・貊・粛慎が居住しており、彼らの聖地だった。その後この地における濊貊の勢いが衰え、粛慎の流れを汲む女真がこの山を聖地とした。金は、1172年には山に住む神に「興国靈応王」の称号を贈り、1193年には「開天宏聖帝」と改めている。。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。