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源義清 (矢田判官代)

源 義清(みなもと の よしきよ)は、平安時代末期の武将。足利氏の祖である源(足利)義康の庶長子。同母弟に義長(義良)、異母弟に義兼・義房がある。通称を矢田判官代(やたのはんがんだい)といい、矢田義清、足利義清とも記される。仁木氏、細川氏、戸賀崎氏の祖。本拠の下野国足利荘は嫡子である異母弟義兼が継ぎ、義清は庶長子であるため伯父であり岳父でもある源(新田)義重の猶子となり、上野国八幡荘の矢田郷を獲得したという。京において上西門院に仕え、治承4年(1180年)の以仁王の挙兵に際しては源頼政と行動をともにし、頼政の敗死後は源(木曽)義仲の麾下に走った。寿永2年(1183年)、義仲軍の上洛の際に源行家や源(多田)行綱と共に京都を包囲し、丹波路から大江山に布陣して京の西方から平氏を追いつめ、7月に義仲と共に入京した。10月、都を落ちて西海にあった平氏を追討するべく、義仲の代官(総大将)として海野幸広とともに一軍を率いて京を出発。閏10月1日、備中国水島(現在の岡山県倉敷市玉島付近)において、大手(正面)の平知盛・重衡、搦手の通盛・教経ら率いる平氏軍と激突した。総大将の義清は船戦に慣れた平氏軍に大敗を喫し、海野幸広や同母弟義長らとともに矢の雨を浴びせられて壮絶な戦死を遂げた(水島の戦い)。義清の戦死により、その子らは源頼朝の信任篤い義兼の家来同様の地位に下がって発展できなかったが、義兼が三河守護に補任されて以後、義清の子孫も三河に進出し、仁木氏・細川氏などが出て南北朝時代に大きく飛躍した。ただ、義清を庶流と見るのは誤りと思われる。祖父源義国以来の根本所領である下野国梁田御厨(やなだのみくりや)を管理し所領としていたことや、討死後に異母弟義兼の配慮で母が所領を与えられて老後を過ごしており庶流の生母にしては厚く遇されていることなどから、元々は家督継承者であったのが木曽義仲に与して戦死したため、頼朝に近い間柄の義兼がその命で相続したものと思われる。また、上野国八幡荘矢田郷(矢田荘、矢田御厨などとも呼称)の所領は新田義重との猶子関係・婚姻関係によって獲得したもので元々足利氏の所領ではなかったと言われており、矢田判官代の通称は誤りで、根本所領の梁田御厨に基づき「梁田判官代」とするのが正しいと思われる。さらに、足利氏の根本所領とされる足利荘(梁田御厨に隣接)も源義家─源為義─源義朝─源頼朝と河内源氏惣領の所領として伝わったもので、その重代の家人で藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏が下司職として知行していたものだったが、これが治承・寿永の乱(源平の戦い)で没落した後に源姓足利氏(義兼)が初めて地頭職を獲得したといい、源義康─源義清の時期の本領はまだ梁田御厨であったが、義清が木曽義仲に与して戦死したために子孫に伝わらず、頼朝近親の義兼が新たに足利荘を獲得するとともに梁田御厨も(さらには新田義重から伝領した矢田郷も)継承したとする研究もある。ただし、義清の妻の兄弟であり娘婿でもある山名義範の名字の地とされる上野国多胡郡(八幡荘)山名郷の隣に矢田郷が存在すること、足利荘や梁田御厨の周辺に義清の子孫が定着しなかったことから、義清は早い時期から足利荘・梁田御厨を離れて矢田郷に拠点を移し、その地域的つながりから新田・山名氏との縁戚関係や東信濃の滋野氏及び彼らが擁する木曽義仲との軍事的連携が成立したとする説もある。

出典:wikipedia

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