八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月19日)は、日本の工学者(電気工学)、実業家、政治家。一般的に八木アンテナとして知られる八木・宇田アンテナの発明家として知られる。東京工業大学学長、千葉工業大学顧問、内閣技術院総裁、大阪帝国大学総長、八木アンテナ株式会社社長、参議院議員、武蔵工業大学学長などを歴任した。陸軍における階級は工兵軍曹。日本学士院会員。勲一等瑞宝章受章、文化勲章受章、贈勲一等旭日大綬章(没時陞勲)。電気工学を専門とする工学者であり、宇田新太郎と共に開発した「八木・宇田アンテナ」の共同発明者として知られている。この発明を基に八木アンテナ株式会社を創業し、その初代社長に就いた。東北帝国大学や大阪帝国大学では教鞭を執り、東京工業大学、武蔵工業大学などでは学長として奉職するなど、長年にわたり教育者として活躍したほか、1942年(昭和17年)には現在の千葉工業大学(旧制・興亜工業大学)の創設にあたり創設メンバーとして同大学の創立に尽力している。太平洋戦争中は内閣技術院総裁、戦後は右派社会党や日本社会党に所属し参議院議員を務め国政にも参画した。大阪府大阪市東区北浜4丁目の八木忠兵衛、みちの三男として生まれる。父は両替商であった。大阪市愛日尋常小学校、第四高等小学校、大阪府第一中学校(北野中学に改称)に入学。1903年同中学を首席で卒業。すでに父が亡くなっていたが、19歳上の長兄は株屋に就職し、八木は経済的援助を受けた。なお、当時の株屋は世間の評判が低く、分家して八木家を継承した。1903年第三高等学校理科に入学。中学、高校時代には俳句など文学にも興味があった。1906年東京帝国大学工科大学電気工学科に入学した。無線に興味をもった。卒業時の33名中5番であった。電気科教授の世話で直ちに仙台高等工業学校の講師となった。八木は東北帝国大学理科大学の本多光太郎の知遇を得、のちに長岡半太郎に伝え、長岡の推薦で海外留学が八木に命じられた。1913年からドレスデン工科大学のバルクハウゼン教授の下で研究した。1914年は第一次大戦勃発でスイスにいたが、イギリスのフレミング教授の教室に移った。1915年は渡米しハーバード大学の教授の下で研究した。八木の関心は次第に無線の方に移っていった。当時の電気工学の主たる関心がいわゆる強電と言われる電力工学にあったところをいち早く弱電分野の研究に取り組み、八木・宇田アンテナ、分割陽極型マグネトロン等の成果を生み出す。財団法人斎藤報恩会から「電気を利用する通信法の研究」(八木秀次、抜山平一、千葉茂太郎)で1934年(昭和9年)度までに合計22万5000円の補助金を受けた。八木が物理学科、金研で行われていた論文の輪読会に出席しあまりに鋭い指摘をするために、会の開催日を八木の属する電気工学科のゼミのある日と同じにして出席できないようにしようとする動きが出るほどだったという逸話がある。学内に電気通信研究所の設立を構想するが、実現は八木が大阪帝大に異動した後の1935年(昭和10年)になる。大阪帝国大学の初代総長であった長岡半太郎の要請により大阪帝国大学に移籍。大阪帝国大学の理学部物理学科の初代主任教授となる。菊池正士の原子核物理研究を主任教授として予算的にも人的にも支援した。講師として在職していた湯川秀樹教授を叱咤激励し、それが後にノーベル物理学賞を受賞する中間子論に関する論文につながったといわれている。八木は講義の際、学生に「本質的な発明ができるようになるためには心眼(科学者としての勘)で電波が見えるようにならなければならない」と教えていた。八木はレーダー開発など立ち遅れていた日本の科学兵器開発を指導するため、海軍の永野修身軍令部総長の推薦を受けて技術院総裁に就任した。内閣技術院の総裁である八木自身も熱線誘導兵器の研究を推進していた。因みに同研究は技術者の井深大と海軍技術将校の盛田昭夫が出会い、戦後ソニーを創業するきっかけとなった。敗色濃厚となった1945年(昭和20年)には衆議院予算委員会で質問に応え、「技術当局は『必死でない必中兵器』を生み出す責任があるが、その完成を待たずに『必死必中』の特攻隊の出動を必要とする戦局となり慙愧に耐えない」との大意の答弁を行っている。これを聞いて委員会出席者中には涙する者もあったとの当時の報道がある。精神主義、特攻隊賛美ばかりが横溢する戦時下にあって、科学技術者としての勇気を示した発言として名高い。大阪帝大総長を公職追放で追われてからしばらくは生活に困窮した時期があった。この時、大正末に取得された八木・宇田アンテナの特許はすでに期限が切れていた。かつての弟子達が電気工学関係の教科書を分担して執筆し、八木に印税を寄付して支援した。八木はドイツ・イギリス留学時代から労働運動や社会主義に関心があり、日本フェビアン協会の会員でもあった。戦後も政治に関わり、ジョージ・バーナード・ショーなどを読んでいたという。直接の弟子でなく面識もない江崎玲於奈、西澤潤一を学士院賞に推薦した。晩年に至るまで学術の情報収集を欠かさず、人材の発掘・育成に尽くした。北野中学、三高を経て、
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