山岡 景友(やまおか かげとも)は、戦国時代から江戸時代前期の武将、大名。常陸古渡藩主。天文9年(1540年)、守護六角氏家臣の山岡景之の四男として生まれる。はじめは領内にあった三井寺光浄院の住持となり、暹慶(せんけい)と号した。室町幕府の奉公衆と親しく、政所代の蜷川親長とも親交があった。第15代将軍・足利義昭により幕臣に取り立てられ、『耶蘇会士日本通信』では「将軍の寵臣」との扱いであった。その下で元亀2年(1571年)には三淵藤英とともに松永久秀に攻められた大和国の筒井順慶の救援に赴いている。元亀3年(1572年)、義昭の命で還俗し山岡景友と名乗り、幕府より山城半国の守護に任じられた(ただし、翌年には義昭と織田信長の関係が決裂したため、どの程度の実質的な権限を伴っていたかは不明)。信長包囲網が敷かれ信長と義昭の戦いが始まると、他の兄弟が織田氏方に付くなか、景友は義昭に従い近江石山城に立て籠もって抗戦した。しかし、元亀4年(1573年)2月26日に織田家臣の柴田勝家に攻められ、織田方に付いた兄・景隆の説得を受けて降伏・開城した。織田家へ仕官後は兄らとともに佐久間信盛の与力となったと考えられており、信盛追放後に高野山へ信盛を訪ねている記録が残る。天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が横死すると、兄と共に明智光秀軍の近江進撃を妨害した。その後、兄たちが勝家に与し羽柴秀吉により改易されたため、景友が山岡氏惣領となり甲賀における権利の一部を継承した。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、佐久間信栄に従って伊勢国峰城を攻めたが、程なく天下人に台頭した秀吉の家臣となり、領地を安堵され、後に御伽衆にも加えられた。なお、領地の関係で大津城主の京極高次と親しかった。その後、再び剃髪して道阿弥と号した。天正20年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋城に在陣した。秀吉死後は黒田長政らを通じて徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に属して伊勢長島城の守備や伊勢桑名城・近江水口城の攻略に功績を挙げ、戦後高野山に籠った高次の説得にも尽力した。これにより近江国内で9,000石と甲賀組を与えられた。またその後、石高を加増されて常陸古渡1万石の大名となる。慶長8年(1603年)に死去。享年64。跡を甥(景隆の七男)の景以が継いだ。
出典:wikipedia
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