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源師頼

源 師頼(みなもと の もろより、治暦4年(1068年) - 保延5年12月4日(1139年12月26日))は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏、左大臣・源俊房の嫡男。修理大夫・橘俊綱の養子。官位は正二位・大納言。小野宮大納言と号す。左近衛少将・左右中弁などを歴任し、寛治8年(1094年)6月蔵人頭に任ぜられる。承徳2年(1098年)参議として公卿に列し、康和元年(1099年)従三位に叙せられる。嘉承元年の年末(1107年1月)、自分より後に参議になった藤原宗忠・源基綱が先に権中納言に昇進したことをきっかけに、師頼は朝廷への出仕を取りやめてしまう。加えて、天仁元年(1108年)には3年間出仕しなかったことにより殿上籍を削られたが、このことにより却って師頼は隠遁の意思を強くしてしまい、父・俊房の没後の大治年間に入るまで20年以上も出仕しなかった。また、師頼の籠居は父の俊房を深く悩ませたという。大治5年(1130年)権中納言、同6年(1131年)従二位権大納言、長承2年(1133年)正二位、保延2年(1136年)大納言に昇進。議政官として右兵衛督・近江権守・備前権守・太皇太后宮大夫(令子内親王)・春宮大夫(体仁親王、後の近衛天皇)などを兼帯した。保延5年(1139年)12月薨去。72歳だった。和歌に秀で、『金葉和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に23首入集する。漢詩文を広く学び、各種の作文会で漢詩を作ったとされており、現存する作品は『中右記部類紙背佚名漢詩集』に僅かに残されている。学才も高く、漢学では大江匡房に師事、藤原頼長に『漢書』を伝授し、頼長自身も日記『台記』において師頼を「先師」と呼んでいる。有職故実にも優れ、除目作法の儀式書などを編んでいたが現存せず、わずかに『魚魯愚抄』などに逸文が見出されるのみとなっている。これらは中世に重んじられた村上源氏の公卿学に連なるものである。また、大変な蔵書家であり、師頼が大江匡房を自邸に迎えた日の夜に自邸が火災に見舞われ、数千冊の書物が灰になったという。和歌の速詠に優れていたとされ、以下の逸話がある。長い間参議のまま(権中納言に)昇進できなかったことについては、実際は師頼が出仕しなかった事が原因であるが、以下の逸話も残っている。

出典:wikipedia

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