『国民歌謡』(こくみんかよう)は、戦前の1936年から1941年の期間、月曜から土曜の午後0時35分から5分間、新しく作った曲を1週間連続して流した、日本のラジオ番組である。1941年2月12日から同年12月8日の期間は名前が「われらのうた」と変わり、さらにその後の、1945年8月15日までは、「国民合唱」となり、戦後は「ラジオ歌謡」となった。1936年4月29日の午後2時15分から50分までの35分間、JOBK(大阪放送局)は「新歌謡曲」という番組を、桃谷演奏所から全国放送した。この番組の発案者は、当時JOBKの文芸課長だった奥屋熊郎で、その主旨は、「家庭で歌える流行歌を独自に作ろう」というものであった。放送した曲目は、「夜明けの唄」、「防人のうた」、「早春の物語」、「乙女の唄」、「心のふるさと」、「野薔薇の歌」、「希望の船」、「旅から旅へ」、「日本よい国」の9曲。初めの3曲を奥田良三、後の4曲を関種子が歌ったが、後の曲は時間がなく放送できなかった。この曲は、このために作られた新しい曲であった。第2回は、同年5月17日午後8時15分から20分間全国放送された。曲目は、「祖国の愛」、「ヨットの唄」、「若き妻」、「娘田草船」、「若葉のハイキングに」と前回放送できなかった「日本よい国」であった。唄は、内本実、四家文子が歌った。ところがこの時も時間の都合で、「日本よい国」が放送できなかった。当時は、まだ支那事変(日中戦争)前で、戦時歌謡を押し付けられることはなく、今でも歌えるような格調高い曲が多かった。前述した、「新歌謡曲」の放送が成功したので、JOBKはこの番組を定期放送することになった。その際、「新歌謡曲」に代わる良い名称はないかと考えたが、あまり良い案が出ず、「国民歌謡」ということに落ち着いた。初回の放送はJOBK大阪放送局から、1936年6月1日の午後0時35分から始まった。月曜から土曜の5分番組としてのスタートであった。この時になってようやく、「日本よい国」(作詞・今中楓渓、作曲・服部良一)が放送された。定期放送第一週「日本よい国」の後、6月8日からの第二週は、詩吟の放送だったが、6月15日からの第三週は、島崎藤村作詞の「朝」だった。定期放送になって初めて、JOAK(東京中央放送局)が制作した曲で、歌は、テノール歌手永田絃次郎が行った。これが、国民歌謡のヒット曲第一号になった。それからも定期的に「朝」を放送し、普及に努めた。国民歌謡は同じ曲を何度も取り上げるのが特徴で、1940年までに、国民歌謡で放送された同曲を歌ったのは、永田絃次郎、オリオンコール、青山薫、日置静、奥山良三、阿部幸次、鈴木秀雄、吉村寿、藤山一郎、大阪放送合唱団、嘉納愛子、ルナ・オリオンコール、ブリランテ混声合唱団、ユーフォニック、柴田睦陸、日本放送合唱団、蒋玉柞ら17組に及んだ。「朝」に続くJOAKが作ったヒット曲は、同じ島崎藤村作詞の「椰子の実」で、7月13日から放送された。最初に歌ったのが、東海林太郎で、今までクラシック系の歌手を使っていた国民歌謡だったが、初めて流行歌歌手の起用だった。この曲も、たくさんの歌手に歌われ、二葉あき子、関種子、松田トシら数十名の歌手に及んだ。1936年10月20日付けで、「国民歌謡選曲集」という楽譜が発売された。「心のふるさと」、「祖国の柱」という曲を収録している。第二集から「国民歌謡」と改題され、二曲収録の物が月に一冊から三冊のペースで発行された。1937年になると、JOBKも新しい曲をヒットさせた。新年早々に出した「月の出島」が好評で、これは佐藤惣之助の詩に内田元が曲を付けたものである。内田は続いて、「春の唄」を作曲した。3月1日から月村光子の歌で放送され、喜志邦三の詩もよかったので、多くの人々に愛唱されヒットした。JOAKでは、「牡蠣の殻」が評判がよかったが、やはり、「新鉄道唱歌」(土岐善麿作詞、堀内敬三作曲)が一番だった。鉄道唱歌といえば、明治に作られた「汽笛一声新橋を・・」を思い浮かべるが、いつまでも明治ではと、現代のモダンな鉄道を歌おうと作られたものである。5月3日から、加藤梅子(由利あけみ)と中野忠晴の歌で放送された。最初は、「新鉄道唱歌」として放送されたのだが、好評なので、続編を数々作った。曲は同じで詞が違うというものである。西條八十作詞の「東海道編」、佐佐木信綱作詞の「伊勢路」、「尾張、美濃、近江路」、与謝野晶子作詞の「近畿」、翌年には、杉山長谷夫が新しく曲を付け、「上野-仙台」、土井晩翠が「高崎-直江津」、相馬御風が「直江津-金沢」を作詞している。1937年7月7日に盧溝橋事件が起こると、歌の世界にもだんだん戦時色が濃くなって来た。そして、国民歌謡の本来の主旨とは違った方向へ曲げられつつあった。それは、国民歌謡が誕生してわずか1年のことであった。8月23日から放送した「千人針」もこうした一つである。この千人針は、作詞のサトウハチローがポリドール専属、作曲の乗松昭博がビクター専属と会社が違うためレコードは出来なかった。そこでポリドールは、長津義司が似たような曲を付け、関種子の歌でレコード発売した。ビクターは、佐伯孝夫が別の詩を付け、「街の千人針」と題し、江戸川蘭子の歌でレコード発売されている。同年、12月27日からは「愛国行進曲」が放送された。この曲は、JOBK、JOAKが作った曲ではなく、内閣情報部が選定し、放送されたものである。この曲は、各レコード会社から発売されている。戦時中とあれ、戦時歌謡ばかりという訳ではなく、10月18日からJOBKで放送した「愛国の花」(作詞福田正夫、作曲古関裕而)のように、渡辺はま子の歌で広く愛唱された曲もある。この年の国民歌謡は、午後0時23分から7分間に2曲聞かせる形の放送に変更していた。この時に放送されたのが、「海ゆかば」であった。1938年になると、国民歌謡は、昼の番組から夜の番組に変わった。番組としては、昇格という形であった。1月5日の午後7時30分から、「国民唱歌」という番組が放送された。東京シンフォニック・オーケストラの歌で、「金塊集より」、「子等を思う歌」、「戦勝の春」、「愛国行進曲」の4曲が登場した。そして10日から同じ時間帯10分間、「国民唱歌」の題で、「愛国行進曲」の指導が始まった。まるで、「国民歌謡」が「国民唱歌」という題に変わったようであるが、31日からまた「国民歌謡」に戻った。この番組は2月7日に終了した。しかし、2月11日、20日にはまた「国民唱歌」が放送されている。そして、22日から、国民歌謡のレギュラーが再開した。。1939年には、夜番組になって聴取率が上がった弊害が出た。緊急番組のためしばしば放送が中止になってしまったのである。割り込んでくる番組は、軍人や役人の講演が多かった。そこで考えられたのが、第二放送を行うということである。これは、1月6日から実行された。第二放送の併用は国民歌謡が終了するまで続けられた。1940年にもなると、もう国民歌謡の当初の主旨はどこかへ行ってしまい、戦争遂行のための新体制を称えるものや、国民を陽動させるような歌ばかりになっていた。その中でもそうでないのが、「隣組」というユニークな曲がある。新体制によって。隣組が組織され、その宣伝のために作られたような歌であるが、「トントントンカラリと隣組」という岡本一平の詩がコミカルで、飯田信夫の曲も明るく、歌唱した徳山璉の。国民歌謡からの久々のヒットであった。1941年1月27日からは、「めんこい仔馬」が放送された。東宝映画「馬」の挿入歌として作られたものであるが、映画では使われず、国民歌謡として、松原操が歌い、レコードは二葉あき子、高橋祐子が歌ってヒットした。しかし、国民歌謡の新曲はこの「めんこい仔馬」が最後であった。放送は、2月7日の「歩くうた」を最後に、国民歌謡は5年足らずで幕を閉じた。その後は、「われらのうた」として復活するが、これはもう、国民歌謡の枠を超越したものであった。
出典:wikipedia
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