貴乃花 光司(たかのはな こうじ、1972年8月12日 - )は、東京都杉並区出身の元大相撲力士、第65代横綱。所属した相撲部屋は藤島部屋後に二子山部屋。現在は一代年寄・貴乃花で貴乃花部屋の師匠。日本相撲協会理事で相撲教習所所長、審判部長、地方場所部長(大阪)、総合企画部長、巡業部長を歴任。他にスポーツニッポン評論家(大相撲担当)。本名、花田 光司(はなだ こうじ)。愛称は「コウジ」。1972年(昭和47年)、東京都杉並区に生まれ、同中野区で育つ。現役時代、取組前の場内アナウンスでは中野区を出身地としていた。父は元大関の貴ノ花利彰、母は女優の藤田紀子。兄は元大相撲力士でタレントの花田虎上(第66代横綱・三代目若乃花)。妻は元フジテレビアナウンサーでタレントの河野景子で、1男2女の父親。長男の優一は靴職人。初代若乃花(第45代横綱)は伯父(父の兄)。二代目若乃花(第56代横綱)はかつて義理のいとこ(伯父の娘婿)だった。血液型はO型。元々は右利きだったが、長年の相撲の影響で右手に痺れが残ってしまい、今は左手で箸やペンを持つようになっている。現在は大型自動二輪免許を取得し、ハーレーダビッドソンに乗っていることを明かしている。元NMB48の高野祐衣のファンであることを明かしている。当人や周囲の回想によれば相撲に身を入れ始めたのは父の現役引退が契機だったといい、その頃から「自分が将来、相撲の世界に入って、父が果たせなかった夢を実現させるんだ」という思いで稽古に打ち込んだ。父を慕って部屋によく遊びにきていた鎌苅忠茂少年(のち入門して四股名を貴闘力)には、兄の勝ともどもかわいがられ、部屋の稽古場で相撲を取ることもあった。小学5年生の時、わんぱく相撲の全国大会に優勝、わんぱく横綱として土俵入りを行っている。これを入れるならば、蔵前国技館と新両国国技館の両方で横綱土俵入りを行ったひとりということになる。明大中野中に進学。同相撲部で武井美男監督から受けた廻しの切り方などの技術面の指導は、のちの躍進に大きく寄与したとされている。入門当時からその優れた素質が話題となり、前評判に違わず数々の最年少記録を打ち立てた。新弟子検査時には「これは新弟子の体じゃない、今すぐ幕下でも通用する」と、新弟子検査担当の親方たちから驚嘆されるほど既に体作りの基礎ができていた。中には親方の息子である自身をやっかむ者がいたが、それに対して貴花田はトイレにダンベルを持ち込んで黙々と鍛えた。1989年11月場所、17歳2か月で新十両に昇進した当時も、出世に髪の伸びる早さが追いつかず大銀杏が結えず、ちょんまげ姿で土俵に上がった。名大関貴ノ花の息子として兄とともに入門したことは、マスメディアを通じて国民に広く報じられ、入幕前から相撲ファンの枠を超えた注目を集めていた。1990年5月場所、17歳8か月で新入幕。場所直前に足の親指の靭帯を切る負傷をしていたことから4勝11敗と大きく負け越し、十両に落ちたが、11月場所で幕内に復帰した。その後二場所は小幅の勝ち越し、負け越しが続きやや勢いが減速したものの、東前頭13枚目に下がった1991年3月場所では27年ぶりとなる平幕での11連勝を記録。その後大関・小錦、横綱・旭富士らに敗れ、幕内優勝はならずも12勝3敗の好成績を挙げ、敢闘賞、技能賞をダブル受賞した。西前頭筆頭まで番付を上げた1991年5月場所、かつて実父・貴ノ花とも対戦した昭和の大横綱・千代の富士といきなり初日に取組が組まれた。結果貴花田が寄り切りで完勝し、18歳9か月で大相撲史上最年少の金星を獲得。千代の富士は同場所の3日目、奇しくも貴花田の兄弟子・貴闘力にとったりで敗れた相撲を最後に現役引退。結果的に同場所初日の貴花田が千代の富士を下したのを機に引導を渡したことで、次代の第一人者候補としての評価を固めていく。弟にわずかに遅れて入幕した兄若花田とともに「若貴フィーバー」と呼ばれ、平成初期の一大相撲ブームの担い手となり、一日20番の申し合いをこなす、下ろしたばかりのまわしがその当日の稽古が終わるころには汗が染み込むなどの猛稽古ぶり、勝負に負けて土俵に落ちる際には顔から落ちるなどの勝負師ぶりを見せ、その後も順調に成長していった。翌1992年1月場所は14勝1敗の成績で19歳5か月での幕内初優勝を果たした。同年9月場所で14勝1敗の成績で2回目の幕内優勝、同年は60勝30敗と6場所制定着後最少勝ち星ではあったものの史上最年少の年間最多勝を受賞した。さらに翌1993年1月場所では11勝4敗の成績で20歳5か月の若さで大関まで上り詰め(同時にライバルの大関曙も横綱昇進決定)、父と同じ貴ノ花に改名する。次の5月場所では14勝1敗の成績で3回目の優勝を果たし、翌7月場所で初の綱獲りとなったが、千秋楽に13勝2敗で曙(第64代横綱、現プロレスラー・タレント)・兄若ノ花らとの優勝決定戦に進出したが、曙に敗れて優勝同点留まりに。その後日本相撲協会から横綱審議委員会への諮問が無かった為、横綱昇進はならなかった。続いて9月場所は初の全勝優勝を狙った曙を千秋楽で下して阻止、曙に次ぐ12勝3敗の優勝次点で綱獲りを再び繋いだが、翌11月場所は体調不良により7勝8敗と負け越して綱獲りは完全に消滅。1994年1月場所では21歳5か月での大関角番も史上最年少の記録となった。初の角番だった1月場所では14勝1敗で4回目の幕内最高優勝で復活。同年の3月場所で綱獲りを再び期待されるが、11勝4敗で優勝を逃し綱獲りは失敗。5月場所では14勝1敗の成績で5回目の幕内最高優勝を果たすが翌7月場所では11勝4敗に終わり、またしても綱獲りは失敗に終わった。次の9月場所では初の全勝優勝(史上最年少の全勝優勝記録)、同9月場所後に相撲協会は横審委員会に貴乃花の横綱昇進の打診をしたものの、「『大関で2場所連続優勝』の内規を満たしていない」との理由から見送りに。それでも、貴ノ花から「貴乃花」と改名して迎えた翌11月場所でも他を全く寄せ付けず、双葉山以来の「大関で2場所連続全勝優勝」を果たし(千秋楽で曙に土俵際の上手投げで勝利)、先場所からの30連勝も達成、ようやく横綱昇進を確実とした。1994年(平成6年)11月場所後ついに横綱昇進が決定した。11月23日に行われた昇進伝達式で「謹んでお受け(致)します。今後も『不撓不屈』(自身大関昇進の伝達式でも用いた)の精神で、力士として相撲道に『不惜身命』を貫く所存でございます」と使者に答えた。尚横綱土俵入りは「雲龍型」を選択、当時二子山部屋と同じ二所ノ関一門の横綱だった間垣親方(元二代若乃花)と鳴戸親方(元隆の里)の二人が主に指導した。新横綱で迎えた1995年1月場所は初日に武双山に敗れ、1994年9月場所初日から続いた連勝は30でストップした。8日目に魁皇にも敗れたが、14日目に1敗の武蔵丸を破り、千秋楽は13勝2敗で並んだ武蔵丸との優勝決定戦を制し、自身初の3連覇を達成。新横綱の優勝は15日制になってからは、大鵬・隆の里以来史上3人目。3月場所は曙との13勝1敗同士の相星決戦となり、惜しくも敗れて4連覇は逃したが、翌5月場所でも2場所連続で曙との相星決戦となり、雪辱を果たして14勝1敗で優勝した。7月場所では14日目に優勝を決めたが、千秋楽に曙に敗れ、13勝2敗で終えた。翌9月場所でも14日目に優勝を決め、千秋楽は曙を押し出しで破り、自身2度目の3連覇を全勝優勝で飾った。11月場所は初日に琴稲妻、7日目に土佐ノ海に取りこぼして早くも2敗。中日以降は順調に白星を重ね、14日目まで12勝2敗で兄の若乃花と共に優勝争いのトップに立った。千秋楽では若乃花が敗れたが、自身も武蔵丸の注文相撲に屈したため12勝3敗同士の史上初の兄弟優勝決定戦が実現。若乃花の右四つからの下手投げで敗れ、4連覇を逃した。この年1995年(23歳)、プライベートでは8歳年上のフジテレビアナウンサー・河野景子(元ミス上智大学)と妊娠6ヶ月でデキチャッタ婚約(のち結婚)をし、世間を驚かせた。1996年は年明けから3場所連続で14勝1敗の成績を残した(1月場所は同部屋の大関・貴ノ浪と優勝決定戦に進出したが、河津掛けで敗れた)。3月場所から9月場所では自身初の4連覇達成。9月場所は4度目の全勝優勝(これ以降、日本人力士の全勝優勝は2016年9月場所の大関豪栄道まで丸20年途絶えた)。さらに同9月場所で幕内連続12勝以上勝利が、北の湖の12場所を超える、13場所目の新記録(当時)を達成した(現在は白鵬に次ぎ歴代2位)。当時まだ24歳という年齢で、幕内優勝15回という実績や、ほとんど隙のない当時の取り口から考えると、大鵬や千代の富士の優勝回数の突破は、時間の問題とさえ言われていた。しかし、1996年(平成8年)9月場所後の巡業中、背筋の肉離れを起こすケガにより緊急帰京。肉離れが完治しない中、同年11月場所を一旦強行出場することを表明したが、場所初日の前日に急性腸炎による発熱で入院、結局11月場所は自身初土俵以来初めて本場所を全休することとなる。この休場をきっかけに、貴乃花の相撲に陰りが見え始め、また休場中の間に上体だけが肥えてしまい、1997年(平成9年)以降は体をのしかけて潰す相撲に変貌してしまう。更に強引にねじ伏せたり浴びせ倒したりするなど、明らかに相撲の質が落ち、好角家からも批判されるようになった。大型力士に対抗するために自らの判断で体重を増やしたが、あまり上手くいかなかった。それまではかなり熱心で体の毛も生えない程だった稽古も、準備運動は入念にするものの実戦的な稽古量が激減するという事態に陥ってしまった。1997年(平成9年)は過去の稽古の貯金もあって3度優勝、通算5回目の年間最多勝(同1997年が自身最後の年間最多勝)も受賞して横綱の面目を十分に保てたが、1998年(平成10年)以降はその貯金も底を突いた状態となった。1998年(平成10年)1月場所終盤、急性上気道炎による高熱と、顔面に現れた原因不明の発疹による体調不良で、勝ち越しながらも途中休場(これにより同年2月に開催された長野オリンピック開会式及び横綱土俵入りも欠席した。横綱土俵入りの代役は曙が務めた)。翌場所も序盤から崩れて、肝機能障害によりまたも途中休場に追い込まれた。7月場所と9月場所は連覇して優勝回数を20回の大台に乗せたが、その後は怪我や病気に苦しみ、2年以上優勝から遠ざかることになった。この1998年の秋場所直前に、師匠である父・二子山親方(元・貴ノ花)が、兄・花田勝(のち花田虎上)(元・若乃花)を拒絶するようになった貴乃花に対して、「貴乃花は懇意にしている整体師から洗脳されている」と発言し、「貴乃花洗脳騒動」が起きた。1999年(平成11年)は年明けから大崩れ。1月場所は序盤から崩れて盛り返すことなく8勝7敗に終わった。3月場所は10日目の闘牙戦で勝ち越しを決めたものの、左肩を骨折して途中休場。5月場所は全休、復帰した7月場所は8日目まで1敗だったものの、9日目の出島戦で左手薬指を脱臼し、その影響で12日目から4連敗と大きく崩れ、9勝6敗に終わった。9月場所は怪我が治らないのに何故か出場して一つも勝てずに3日目から休場。再起を賭けた11月場所も初日に玉春日に敗れ(この敗戦で不戦敗を含まず7連敗となり平成以降の横綱では最多記録となってしまった)、最後を思わせるほどになってしまった。しかしこの場所は中盤から持ち直して、11勝4敗で千秋楽まで優勝争いをして望みを繋いだ。また、この頃から稽古量が上向きになり、2000年(平成12年)1月場所は12勝3敗(優勝次点)、3月場所は11勝4敗、5月場所は13勝2敗(優勝次点)と復活間近を思わせた。だが7月場所は、5日目の土佐ノ海戦で勝ちながらも左手の上腕二頭筋を断裂する怪我を追い、2日後の7日目・魁皇戦で切り返しで敗れた際、その左腕のケガが悪化した為又もや途中休場、翌9月場所は全休。休場明けの11月場所は14場所ぶりに中日勝ち越しを決め、12日目には、この場所1横綱3大関を破り、三賞を総ナメにした新鋭の琴光喜の挑戦を小手投げで退け、横綱の意地を見せた。13日目の武蔵丸、14日目の曙と連敗したものの、千秋楽は3連敗中だった魁皇を寄り切りで破り、11勝4敗で繋いで不振脱出の兆しを見せた。2001年(平成13年)1月場所は初日から14連勝したが、千秋楽で横綱・武蔵丸に敗れて14勝1敗に終わる。武蔵丸と同点となり優勝決定戦にもつれ込むも、その一番では武蔵丸に勝利を果たし、14場所ぶり21度目の復活優勝を遂げた。一度変貌した相撲内容は更に変貌し、嘗ての自在の内容に代わり、完全に腰を固め、充分に捕まえて逡巡せず勝負に出るようになって新生貴乃花を印象付けた。安定感はやや低下したものの、力強さは逆に最盛期以上とも思える相撲振りを印象付けた。3月場所は3日目に栃乃洋に敗れ1敗。13日目には武双山にも敗れ2敗に後退。14日目に1敗の魁皇を上手出し投げで破り、優勝への望みを繋いだが、千秋楽に魁皇が武双山との2敗同士の対決を制し、自身が結びの一番で武蔵丸に敗れたため、優勝は魁皇にさらわれた。そして5月場所は初日から13連勝して完全無敵の強さだった。しかし14日目の武双山戦で土俵際で巻き落としを喰らって右膝半月板を損傷する大けがを負った。もはや立つことも困難なほどの重傷であり、本来休場するべきところであった。二子山親方ら関係者も休場するよう貴乃花に勧めたが、幕内優勝が掛かっていたため、周囲の休場勧告を振り切り、翌日の千秋楽は無理矢理強行出場した。しかし本割りの仕切り最中にすら右膝を引き摺るような仕草があり、勝負にならないことは明らかであった。予想通り千秋楽結びの一番の武蔵丸戦では、武蔵丸の立ち合いの変化に全くついて行けず一瞬で勝負がつく様な敗退で武蔵丸と相星となった。続く優勝決定戦は誰もが武蔵丸の勝利を確信せざるを得なかったが、大方の予想を覆し、武蔵丸を豪快な上手投げで破った。勝利を決めた直後の鬼の形相と奇跡的な優勝に当時の小泉純一郎首相は表彰式で「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!!おめでとう!!!」と貴乃花を賞賛した。後世相撲史に語り継がれる大一番となった。相撲史に残る大一番を制した貴乃花であったが、間もなくその代償は予想以上に大きい事が判明し、逆に大きな禍根を残すことにもなった。全休となった2001年(平成13年)7月場所後、大けがをした右膝の半月板を除去する手術をフランスで受けて再起を目指した。しかし貴乃花は2001年7月場所から2002年(平成14年)7月場所まで、1年以上も全ての場所で休場となってしまう(なお7場所連続全休は大相撲史上ワースト1位である)。世間も最初は「休場してゆっくり治せば良い」と温かい目で見ていたが、休場が1年近くになった頃から、貴乃花に対する風当たりは強くなり、一部の横綱審議委員も苦言を呈するようになった。2002年(平成14年)9月場所、横審委員会からの勧告もあって、遂に8場所ぶりの出場に踏み切った。注目された初日の高見盛戦では勝利したものの、序盤の2日目・旭天鵬戦と5日目・琴龍戦でそれぞれ金星を献上してしまい、この場所途中での引退さえ囁かれた。しかしその後中盤の6日日から終盤14日目にかけて星を伸ばして12勝2敗、千秋楽に武蔵丸と横綱同士の相星決戦にまで持ち込み、敗れはしたものの12勝3敗の準優勝を果たした。他の幕内力士との実力の違いを見せつけたが、場所終盤には再び右膝の怪我の状態が悪化したため、翌11月場所はまたも初日から全休することとなる。そして、貴乃花自身最後の場所となった2003年(平成15年)1月場所、右膝の状態が万全ではなかったものの出場を決意。初日の若の里には土俵際の小手投げで辛うじて勝ったが、翌2日目の雅山戦では二丁投げを喰らって左肩を負傷してしまう。明らかに不利な体勢であったが、審判委員から物言いがつき「両者同体」と判定された。その取り直しの一番は雅山に左からの上手投げで勝利したものの、左肩の怪我により翌3日日の旭天鵬戦は不戦敗、4日目まで途中休場する羽目となる。だが、5日目から横綱では異例と言える場所途中からの再出場(1954年1月場所の東富士以来49年ぶり)を決断する。5日目・闘牙と6日目・土佐ノ海に連勝はしたものの、貴乃花らしい相撲は全く見られず、7日目の出島には一気に押し出され、8日目には初対戦の安美錦にも送り出しでそれぞれ敗れてしまった。この同1月場所8日目の安美錦との一番を最後にその翌9日目でついに現役引退を表明(取組予定だった琴ノ若戦はこの場所2度目の不戦勝に)した。当時まだ30歳(5か月)で、実父・二子山親方とほぼ同年齢での引退でもあった。引退会見で連発した「非常にすがすがしい気持ち」、「心の底から納得しております」は、一時流行語にもなった。なお、貴乃花の引退によりこれ以降番付から日本で生まれ育った横綱が姿を消してしまい、さらに2016年(平成28年)現在も日本出身の横綱が一人も誕生しない状態が続いている。貴乃花の引退相撲と断髪式は2003年(平成15年)5月場所後に行われ、当時の横綱・武蔵丸、大関・魁皇、実兄の花田虎上、さらに長男などに鋏を入れられ、留めバサミは父親で師匠の二子山親方が入れた。断髪式後には貴乃花の長男が土俵に上がっての作文朗読があり、この時に長男は涙をこぼしていた。引退後は父親の代から引き継いだ二子山部屋を改め、貴乃花部屋の親方になった。2005年(平成17年)5月30日に父・ 二子山親方(元・貴ノ花)が死去すると兄・花田勝(花田虎上)(元・若乃花)との遺産相続をめぐる確執が噴出し、マスコミを介して大騒動に発展した。貴乃花親方は連日のように多くのテレビ番組に出演して自らの正当性を主張。これに対して兄・花田勝は「弟は頭がおかしくなった」と発言。母・藤田紀子や花田家の親族たちも、兄・花田勝を支持した。亡くなった二子山親方には2年前から一緒に暮らして親方の看病を献身的に行った40代前半の事実婚の妻がいて、この女性は花田家の親族からも妻として認められていたが、貴乃花親方はこの女性からの「せめて親方との思い出のある車だけでも相続させてほしい」という懇願を拒絶。さらに兄・花田勝が遺産の相続を放棄したため、二子山親方が遺したの約5億円の遺産を独り占めにした。また、二子山親方が死去した頃、日本相撲協会の体質を批判したため、同年7月場所中に相撲協会から厳重注意を受けている。なお父から相続した「二子山」の親方株は雅山の引退に際して譲渡している。現役引退後には葉巻を吸い始めたが、1日も早く関取誕生を願うという意味で、2006年(平成18年)4月から止めているという。また引退直後から膝への負担を減らすため、体重を90kgと大幅に減量している(本人談によると一時期80kgまで落としたと言うが、自分にとってはベストではなかったと言い、90kgまでまた増やしたとのこと)。最近は夫婦でバラエティ番組に出演する機会が増えているが、出演すると大抵の場合最初に体重のことに触れられている。稀に「天然キャラ」も発揮する。現役時代は何を訊いてもほとんど答えないという相撲記者泣かせであったが、最近は番組内でよく喋る姿が映し出され、現役時代とは反対にメディアとのコミュニケーションは取れている。『就職場所』と言われるほど新弟子採用の多い3月場所であるにもかかわらず、2006年(平成18年)3月場所においては貴乃花部屋への入門者が0人という事態が発生した。また、年を追うごとに在籍力士数も減少し、2008年(平成20年)ごろには関取はおろか幕下力士さえ一人もいない状態になった。ただ、このような危機的状況の背景には若い世代の相撲離れがあり、多かれ少なかれどの部屋も抱えている問題でもある。現役中から児童向けの相撲道場を主宰するなど、かつての自分がそうだった様な根っからの相撲っ子を育てることを心懸けており、その中から力士を育成していきたいという広大な長期的展望の持ち主でもある。ただ、こういう理想論に傾き過ぎる部屋の運営方針に、伝統を重んじる相撲界や旧二子山部屋時代からの後援会などと軋轢を起こすことも多々ある。部屋の運営方針を巡っては、かつての兄弟子であり部屋付きの師匠となっていた安芸乃島と激しい対立をし、遂には安芸乃島を高田川部屋に追放するに至っている。2008年(平成20年)2月4日、日本相撲協会の役員人事で35歳の若さで審判部副部長に抜擢され、将来の理事長候補として新たな一歩を踏み出すこととなった。同時に役員待遇に昇格している。2005年(平成17年)7月場所以来、貴乃花部屋には入門者がいない状態が続いていたが、2008年(平成20年)2月20日、4年ぶりに新弟子(貴天秀、元時津風部屋力士の息子)が入門。同年3月場所に初土俵を踏み、新序三番出世披露を果たした。さらに2009年にはモンゴル人力士(貴ノ岩)や高校総体優勝者(貴月芳・貴斗志兄弟)の入門で、三段目上位や幕下にも部屋の力士が名を連ね、2012年(平成24年)5月場所後には貴ノ岩が新十両に昇進し、五剣山以来の関取となった。同年7月場所には学生相撲出身の渡辺が三段目優勝するなど、理想とは異なる形ながら着実に後進を育てつつある。2010年1月場所後に行われる理事選に立候補することを表明し、2010年2月の相撲協会理事選挙は10人の改選で5つある一門ごとに理事候補を調整して無投票で決定することが慣例となっており、二所ノ関一門は既に現職理事の放駒と二所ノ関のほか、新人の鳴戸が立候補を予定しているが、これに貴乃花親方が加わって4人の投票になるところであった。2009年12月から一門で候補者選定会議が行われ、4人の中で最年少であった貴乃花親方に対して立候補を断念させる方針に傾き、貴乃花親方は2010年1月8日に一門を離脱し単独で理事選に出馬することを正式に表明した。一部マスコミでは「貴の乱」と称した。2010年1月17日の1月場所8日目、6年半振りに大相撲中継で正面解説を務め、テレビの前で所信表明。同年1月19日には二所ノ関一門は緊急会合を開き、貴乃花を支持する間垣、阿武松、大嶽、二子山、音羽山、常盤山の親方6人および間垣部屋、阿武松部屋、大嶽部屋の3部屋は事実上破門された。既に一門からの離脱を明らかにしていた貴乃花親方と貴乃花部屋に対しても、同様の措置が執られた。同時に二所ノ関一門からは現職の放駒と二所ノ関のみが立候補することになり、鳴戸は事実上立候補を断念せざるを得なくなった。4期(8年)ぶりに評議員の投票で11人が10人の理事を争う形になった。武蔵川理事長はこの騒動に対し厳しく批判するなど話題になった。固めている票は上記7親方の票だけで当選ラインの10票まで届いていないために苦戦が予想され、他一門からの票の上乗せを目指すことになった。2月1日の理事選の投開票では落選という予想に反し、上記7親方の票以外にも3票の上積みがあり、結果10票を得て当選した(落選は大島親方)。新理事会の結果、理事長は武蔵川親方の続投となった。なお貴乃花親方のことを、一部のマスメディアは「相撲協会の革命児」と報道しているところもある。貴乃花とその支持派閥は暫く、マスメディアで「貴乃花派」「貴乃花グループ」と呼ばれる派閥を形成し、合同で稽古を行うなど一門に準じた形態で行動していたが、2014年度より他の一門と同じく協会から助成金を支給される待遇を得たことを契機として同年5月23日から「貴乃花一門」に改称となり、これにより5つあった一門が1つ増えた格好になった。2010年7月4日に行われた臨時理事会で大関・琴光喜が野球賭博に関与して解雇処分になったことを不服として、貴乃花親方は処分軽減ならびに現役続行を強く訴えたが、外部理事からの反発により却下された。また、理事選にて自身を支持した阿武松の弟子と床山、それに大嶽が野球賭博に関与して処分の対象となったことも背景にあり、貴乃花親方は退職願を提出した。これは保留扱いとなり、受理されなかった。その後、貴乃花親方は朝稽古を見た後に退職を撤回した。武蔵川前理事長の辞任に伴う理事長選挙では北の湖親方を推薦し、「貴の乱再び」とまで言われた(結果は落選)。その理事長が放駒親方に代わってから初めて行われた8月20日の理事会にて、審判部長に就任した。38歳での審判部長就任は、35歳で就任した元佐田の山の出羽海親方(当時)に次ぐ、2番目の若さであった。2012年1月場所後の1月30日に行われた理事選にも立候補し、再選。大阪場所担当部長に就任した。2013年11月場所の途中より、病気休場した伊勢ヶ濱審判部長に代わって勝負審判(審判長)を務めている。2014年4月以降も引き続き理事を務めることになり、協会常勤の執行部・総合企画部長など部長職5つを任される厚遇に与った。2014年3月場所後、鶴竜が第71代横綱に昇進した。鶴竜は時津風一門の井筒部屋所属だが、当時時津風一門に元横綱の親方が不在のため、代役として無所属の貴乃花親方が鶴竜に対し、雲龍型の横綱土俵入りを指導した。2014年6月には両耳の手術を受けた。関係者は「小学校からの相撲の稽古で両方の耳たぶが腫れて血が固まって硬くなってしまい、人の話など聞きづらく、眼鏡などをすると擦れて激痛が走る状態」と説明。2014年7月場所は手術した両耳が完治しておらず、北の湖理事長と相談の上体調不良による検査入院のため大事を取って全休。同場所後の7月28日、両国国技館での横綱審議委員会より公務に復帰した。2016年1月29日の理事選挙では4選、3月28日に行われた理事長改選では現職の八角と共に次期候補となるが、多数決の結果6対2で八角に敗れた。理事長選に際して頭を丸刈りにしたことが話題になった。続く3月30日の職務分掌では執行部から巡業部長へ異動となった。優勝22回は歴代6位の記録であり、「平成の大横綱」と称されている。身長185cm、体重160kg(いずれも全盛時)。少年期から中学生時分にはいわゆる肥満児だったが、入門後一度ガリガリにやせた後で、その上に徐々に肉がついていくという、相撲取りとして理想的とされる成長の仕方をした。この太り方は学研の学習雑誌小学生の学習・科学にも写真が掲載され紹介された。特に初優勝から大関へ駆け上がる時期の変貌ぶりは鮮やかで、それゆえにドーピング疑惑まで取りざたされたほどだった。肩幅広く、鳩胸で太鼓腹、あと胴長短足なら力士の理想像そのものとまで言われたが、最後の点だけは当人もどうしようもなかった。又、横綱正装姿はとても絵になったが、いざ土俵入りとなると四股は美しかったが、肝心のせり上がりが低く、構え過ぎであると酷評され、あまりの酷さに当時の境川理事長が激怒した事もあった。この点、四股に注文がつけられたものの、せり上がりが評価されるようになった曙と好対照をなしている。特に曙とは数々の名勝負を演じた。幕内での対戦成績は21勝21敗、優勝決定戦まで含めた本場所中の対戦成績は25勝25敗と、全くの五分であり、当時の大相撲界を「曙貴(あけたか)時代」とも呼ばれた。特に曙との千秋楽結びの一番での対戦回数は、27回を数え史上1位である(2位は輪島-北の湖の22回、3位は柏戸-大鵬の21回)。また、相星決戦となった千秋楽結びの対戦は5回を数え、これも史上1位である。貴乃花と曙の千秋楽結びの一番の対戦では、両者優勝圏内の対戦は5度の相星決戦を含め10度も実現した。下記の対戦結果は以下の通り。東京場所で強かったが特に9月場所(秋場所)とは相性が良く、通算で6回優勝、1994年から1998年まで5連覇、3年連続全勝、48連勝などを記録した。現役中、右四つ、寄りを得意としていたが、左四つでも遜色なく取ることができ、時に見せる突き押しにも威力があり、取り口は多彩。投げの力が非常に強く、あまり良くないとされている深い位置の上手廻しからでも強烈な上手投げがよく決まった。四つ相撲では自分十分、相手十分の体勢からでも、肘を張って廻しを切る技術が巧みで、強い引き付けと上体の強さを生かした寄り身で優位に運ぶことが出来た。安定感のある下半身で、200キロを超える力士ですら正面受け止める、いわゆる「横綱相撲」なのであるが、細かい技を組み合わせて相撲を取っているために見た目決めてかかる技がない事や、当時は千代の富士の先に勝負を仕掛ける攻撃相撲のために既に横綱像も本質的に変化していた事などが相まって、存在感はあってもずば抜けた力強さや威圧感はないと評された事もあった。場所の序盤から中盤で優勝争いのトップに立てば独走する一方、千秋楽までもつれたときや優勝決定戦での敗退の多さが、「ここ一番での勝負弱さ」を印象付けることにもなった。このため「並の名横綱」との評価もある。22回もの優勝を果たしながら期待ほどの優勝回数ではなかったとも評されるのは、若手の頃の期待感の大きさを表すものでもある。しかし、全盛時の相手に得意の技を全く出させず着実な寄り身で完封してしまう取り口は、まさに貴乃花の相撲の真骨頂であった。貴乃花の取り口は、横綱昇進後も小さな変化を重ねている。横綱昇進後は、前廻しを狙って頭から出る立ち合いが主流で、当時の幕内の中では平均的な体格であったため、頭を付けたりもろ差しを狙う相撲も多かった。スケールの大きさと言う点では物足りなさが残ったが、当時の状況に合わせた取り口で、崩れない足腰と廻しを掴んでからの自在の攻めで全盛を謳歌した。しかし、1996年11月場所に初めて休場して以降、肥え過ぎと内臓器官や上体に怪我が重なると成績は急降下。特に1998年1月・3月場所は2場所連続で途中休場、さらに1998年11月場所からは13場所の間一度も優勝を果たせない大スランプに陥った。この頃の相撲は、立ち合いの踏み込みが悪く力任せで上体の強さに頼ったものであった。腰高と足腰の崩れが顕著で、粘りがなく全盛期ではありえないような負け方が多くなっていた。しかし、2000年頃から復活の兆しが見え、右四つに特化して相手を捕まえての早い攻めに活路を見出した。自在性はないものの、力強さと攻めの速さは全盛期以上でより大きな相撲を取って、2001年1月場所でようやく復活優勝を果たすに至った。何かと記憶に残る取り組みも多く、10代で横綱千代の富士を破り引導を渡したことや、ライバル曙との名勝負、兄若乃花との兄弟での優勝決定戦、右膝半月板を損傷しながら土壇場で優勝するなど、優勝回数や記録だけでははかりえない横綱であったといえる。同時代のライバル曙と比べ豪快さに欠けるとの評を気にして、伯父の初代若乃花の必殺技だった「呼び戻し」を試みるなど、完成間近だった相撲を自らおかしくしてしまう時期もあった。また、若貴ブームの雑音の異常な大きさは本人たちにとっては時に耐え難いものであったかもしれないが、他者の評価に真摯な性格が相撲の取り口に悪く反映してしまい、みすみす負けを呼んでしまっているように見える場合も多々あった。千代の富士を倒した場所でその後なかなか白星を上げられなかったり、婚約場所になった1992年11月場所で序盤に4連敗してしまった例などは、雑音に負けてしまった例と言えよう。一時期、マスコミ人を一様に無視する態度から相撲記者やカメラマンとの間で深刻な対立を招いたこともあった。師匠二子山や兄弟子の安芸乃島らの仲裁・助言もあって、こうした面は徐々に緩和された。 (太字は2015年現在、現役力士) ┌○─○┬ 武ノ里
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。