董 憲(とう けん、? - 30年)は、中国の新代から後漢時代にかけての武将。徐州東海郡の人。東海郡を根拠地とした新末後漢初の群雄の1人で、後に、梁で天子を自称した劉永、そしてその子劉紆に仕えた。初めは赤眉軍の別部校尉(別働隊隊長)で、数万人の軍勢を率いて梁郡で活動していた。地皇3年(22年)冬、赤眉軍を討伐に来た新の更始将軍・平均公廉丹、太師王匡の軍勢と成昌(東平郡?)で戦い、これを撃破して、廉丹を討ち取っている。その後、樊崇率いる赤眉軍本隊からは離脱した模様で、東海郡で群雄の1人として割拠している。そして、梁を支配していた劉永の統治を受け入れ、翼漢大将軍に任命された。これ以降は、梁の将軍として活躍する。建武3年(27年)2月には、梁で天子となった劉永から海西王に封じられている。同年秋、漢軍との戦いで劉永が戦死すると、その子の梁王劉紆の陣営でも、董憲は梁軍の重鎮と目される。翌建武4年(28年)7月、董憲の部将賁休が、蘭陵(東海郡)を漢軍に献上して降伏したが、董憲は素早く蘭陵の奪回に動き、城を包囲する。漢軍は、虎牙大将軍蓋延と平狄将軍龐萌の軍を賁休の援軍に送り込んだが、董憲はこれを撃退し、ついに蘭陵を陥落させた。翌建武5年(29年)3月には、龐萌が漢に反逆して董憲に帰順している。ここに至り、光武帝は親征により董憲ら梁軍を討伐した。同年6月、桃城(東平郡)を包囲していた蘇茂、龐萌を撃破した光武帝は、翌7月、昌慮(東海郡)まで進軍し、董憲はこれを迎撃したが大敗した。さらに8月には、漢の大司馬呉漢の猛攻を受けて敗退し、劉紆を守って郯(東海郡)へ逃げ込む。しかし城は陥落させられて劉紆も殺され、董憲は龐萌と共に(東海郡)に追い込まれてしまう。建武6年(30年)、董憲と龐萌は密かにを脱出して、贛楡(東海郡)を奪取したが、これを察知した琅邪太守陳俊に攻撃され、沢中へ逃れている。同年2月、は呉漢により陥落させられ、董憲の妻子は捕縛された。これを知った董憲は涙ながらに部下に謝罪し、龐萌と共に漢に降伏しようとしたが、追撃してきた呉漢配下の校尉韓湛に斬られている。董憲と龐萌の首級は、洛陽に送られた。
出典:wikipedia
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