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ロック・オペラ

ロック・オペラ(Rock operas)とは、ロック版オペラのことである。それまでのロック・アルバムでは、収録されている曲はそれぞれが独立した曲で、相互の関連性もなかったところに、一貫したストーリーラインを持たせたのが、ロック・オペラでありコンセプト・アルバムなどであった。ロック・オペラのスタイルは、時々コンセプト・アルバムと重なることがある。近年は、メタル・オペラ、ラップ・オペラ(ヒップ=ホペラ)、パンク・ロック・オペラと呼ばれるものも出てきている。どういう作品がロック・オペラに該当するかは、ある程度は、作り手の意図と自己定義にかかっている。慣習的に、コンセプト・アルバムは雰囲気の統一とテーマの継続があれば成り立つが、ロック・オペラは一貫した(時には要点のみの)ストーリーを持ち、歌詞はキャラクターの一人称形式をとる場合が多い。もっとも、ロック・オペラのアルバムの中には、他の複数のジャンルと特徴を共有しているものもある。ロック・オペラの代表作である『トミー』ですら、ロック・ミュージカルとされてきた。音楽・演劇の専門書の中で、「ロック・オペラ」という言葉は誤りである、と指摘されることがしばしばある。しかし間違いなのは、この言葉を別のジャンルの作品に対して用いる時に限られる。オペラを「役を演じる歌手たちによって展開されるドラマ」と定義するならば、ロック・オペラはまさにその通りのものである。逆に、歌手が役を演じるのでなく、物語の内容を歌うだけならば、それはロック・オペラではない。もしそれが他に該当するものがないと言うのなら、ロック・オペラにカテゴライズするのではなく、新しいジャンルを作るべきだろう。「ロック・オペラ」という言葉は、1966年、ザ・フーのギタリスト、ピート・タウンゼントと仲間たちが、非公式の集まりで使ったのが最初だと言われている。そこでタウンゼントは、ザ・フーのマネージャーののために冗談で作った『Gratis Amatis』というテープを流した。仲間たちは大笑いし、その中の一人が言った。「その変な歌はまるで"ロック・オペラ"だな」。それを聞いたランバートも「そいつはいい!」と言った。同じ頃、カナダでも、ロック・オペラという言葉が、トロントの雑誌「RPMマガジン」1966年7月4日号に載った。「ブルース・コバーンと(ウィリアム・)ホーキンス氏がロック・オペラの準備中」云々。しかし、他のロックのジャンルと区別される「ロック・オペラ」の原型を最初に作ったのは、やはりピート・タウンゼントだった。それは、ザ・フーのセカンド・アルバム『ア・クイック・ワン』(1966年)に収録されている『A Quick One While He's Away』という曲で、9分という長さの中に、アイヴァーという名前の機関士(歌うのはジョン・エントウィッスル)が若いガイドの娘(歌タウンゼント)を誘惑するというオペラ的なストーリーが語られていた。一方、1967年5月には、イタリア、ローマのパイパー・クラブで、テノール歌手ティート・スキーパの息子で作曲家兼演出家のティート・スキーパ・ジュニアが、ビート・オペラなる『Then an Alley』を企画・上演した。バックにボブ・ディランの曲18曲を流したこの作品は、イタリア国内を騒然とさせたが、それ以外の国で話題になることはなかった。スキーパ・ジュニアはさらにローマのシスティナ劇場で『Orfeo 9』という舞台作品を書いた。これが最初に世に出たイタリア語のロック・オペラで、初演は1970年1月だった。『Orfeo 9』は2枚組アルバムと、テレビ映画になった。ちなみにテレビ映画の音楽監督は、後のアカデミー賞受賞者ビル・コンティだった。1968年、イギリスのロックバンド、ザ・プリティ・シングスが『S.F. Sorrow』というアルバムをリリースした。このアルバムで何よりの価値があったのは、一つの物語体のコンセプトを持っていたことで、ロック・バンドによる最初の試みであった。あらすじは、セバスチャン・F・ソローという人物が主人公の成年向けの話だが、後のロック・オペラほど筋は通っていなかった。そして1969年、ザ・フーが『トミー』をリリース。『トミー』こそ本格的なロック・オペラの第1号で、広告にもはっきりと「ロック・オペラ」と謳っていた(ただし、いくつかの広告には「トミー(1914-1984)」と書かれてあった)。曲の大部分はタウンゼントが作曲している。ベースのジョン・エントウィッスルが2曲、ドラムスのキース・ムーンが1曲、作曲したことになっているが、実際にはタウンゼントが書いていたようだ。その中の『光を与えて(The Hawker)』には、ブルース歌手サニー・ボーイ・ウィリアムソンIIの初期の曲『Eyesight to the Blind』が組み入れられている。『トミー』は今も変わらずロック・オペラの代表作で、コンサート、映画、バレエ、舞台化されている。ザ・フーはさらに『四重人格』(1973年)も発表し、これも映画されている。2006年発表のアルバム『Endless Wire』に収録されているタウンゼンド作曲のミニ・ロック・オペラ『Wire & Glass』は、より大きなコンセプトを持つロック・オペラ『The Boy Who Heard Music』の一部に使われた。タウンゼントのロック・オペラは、多くのミュージシャンに影響を与えた。作曲家のアンドルー・ロイド・ウェバーもその一人で、作詞家のティム・ライスと組んで、『ジーザス・クライスト・スーパースター』を作曲。1970年、コンセプト・アルバムとして録音・リリース。アルバムのヒットで得た資金で、1971年には舞台化した。この展開は、ロイド・ウェバーとライスの独創的なヴィジョンであった。『ジーザス・クライスト・スーパースター』も広告で「ロック・オペラ」と謳っていたが、ブロードウェイ・ミュージカルとして有名になると、ロック・ミュージカルと呼ばれるようになり、2つの言葉の意味が曖昧になってきた。ロイド・ウェバーとライスの本格的なコラボレーションは『エビータ』が最後だが、『エビータ』もまた、ブロードウェイ・ミュージカルのスタイルではあるものの、ロック・オペラと見なされている。『エヴィータ』はトニー賞でベスト・ミュージカル賞を含む7つの賞を受賞した。ピーター・ガブリエルが中心だった頃のジェネシス (バンド)も『眩惑のブロードウェイ(ザ・ラム・ライズ・ダウン・オン・ブロードウェイ)』という大作を発表した。ニューヨークに住むラエルという非行少年が地底世界に迷い込み、失っていた自分の一部を探すという内容で、欲望、奇怪なクリーチャー、狂気、救いとストーリーは転がってゆく。ピンク・フロイドのロック・オペラ『ザ・ウォール』は1,900万を売り上げた。曲を書いたのは主にロジャー・ウォーターズである。『トミー』と同じく、『サ・ウォール』も大がかりなセットを使ったパフォーマンスが行われた(1980年と1981年にピンク・フロイドによって、1991年にウォーターズによってベルリンの壁で)。また、そのプロットを使って長編映画『ピンク・フロイド ザ・ウォール』が作られた。ウォーターズはさらにブロードウェイ・スタイルのものにも潤色している。他には、1996年、ジョン・マイナーがロック・オペラ『Heavens Cafe』をラスベガスのフラミンゴ劇場で上演。2004年にはロサンゼルスで再演された。いくつかのヘヴィメタル・バンド(多くは、プログレッシブ・メタル・バンド)が、ロック・オペラにインスパイアされたアルバムをリリースしている。中には、かなりメタル・コンセプト・アルバムのフォーマットと重なっているものもある。たとえば、クイーンズライクの『Operation: Mindcrime』。W.A.S.P.の『The Crimson Idol』、『The Neon God: Part 1 - The Rise』、『The Neon God, Part 2 - The Demise』。他にも、サヴァタージ、ドリーム・シアター、Ayreon、アヴァンタジア、キャメロット、ペイン・オヴ・サルヴェイション、キング・ダイアモンドらがメタル・オペラの例である。パンク・ロック・オペラという言葉は、パンク・ロック・バンド、グリーン・デイが、2004年のアルバム『アメリカン・イディオット』を説明するために作った新造語である。ロック・オペラはさまざまな言語で作られてきた。たとえば、スペインのロック・グループ、マゴ・デ・オズの『Gaia II - La Voz Dormida』(2005年)などである。2005年9月22日、ロック・バンドのLudoがリリースしたロック・オペラ『Broken Bride』は、The Travelerと呼ばれる男が愛する人を亡くして数年後タイム・マシーンで彼女を救いに時間を遡るというストーリーである。しかし、不幸なことに彼は時間を戻りすぎ、先史時代に到着。そこから、このシングル・アルバムはスタートし、彼の旅が年代記的に語られていく。2006年にニュー・ジャージーの4人組ロックバンド、マイ・ケミカル・ロマンスは、癌を患った男を主人公としたオルタナティブ・ロック・オペラ『ザ・ブラック・パレード』を発表した。

出典:wikipedia

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