遂寧市(すいねい-し)は、中華人民共和国四川省に属する地級市。遂寧市は四川盆地の中部に位置し、涪江の中流にあたる。東経105°03′26″から106°59′49″、北緯30°10′50″から31°10′50″の間に広がる。東西は90.3km、南北は108.9km、面積5,300平方km。四川盆地の重要都市である成都市および重慶市とは等距離にある。遂寧は古くからの文化の蓄積、人を迷わせる幽玄な山水、発達した農工商業などから、川中(四川省中部)地区の政治、経済、文化の中心であり、紡織や食品工業が盛んで沱牌グループなどの企業が所在し、「東川巨邑」、「川中重鎮」、「小成都」などの異名がある。四川盆地の中部にあり、涪江(ふうこう)の中流部が貫く。東は南充市と広安市、西は徳陽市、南は重慶市と資陽市、北は綿陽市に接する。遂寧周辺には石器時代より人類が住んでいたとみられ、射洪県仁和鎮の馬鞍山からは紀元前1万年ころの人類の頭蓋骨が出土している。記録では夏王朝や殷王朝の時期には梁州に属したとされる。春秋時代初期には四川盆地に巴国、蜀国という国家が成立したが、遂寧付近は蜀の領域であり、秦による中国統一後は蜀郡となった。後漢末期の220年(延康元年)、現在の市街地に徳陽県の県治が設置された。330年(咸和5年)、晋末の混乱に乗じ李雄により成漢が立てられ、徳陽郡の郡治がこの地におかれた。「遂寧」の地名の由来は東晋と十六国が並存した時期にさかのぼる。遂寧は十六国の中の成漢に属したが、各国間の争いや後継者争いで成漢は疲弊した。347年(嘉寧2年)、東晋の桓温将軍が蜀征伐に着手し成漢を滅ぼし、四川で50年以上続いた混乱に終止符を打った。桓温は凱旋の途中、急にこの地の風や太陽の美しさに打たれ、歌や踊りの声がどこかから聞こえてくることに平和さを感じた。長年戦場にいた桓温に平和を渇望する思いが生まれ、この地に郡を置き、「戦乱の終息と安寧に到達する」ことを願って「遂寧」と命名したとされる。以後、この地には遂寧の名で郡、府、州、県などが置かれ、一帯の中心地として繁栄した。南北朝から宋元代まで、市域には石山郡、小渓県、方義県、遂州、遂州総管府、遂州総督府、武信軍節度使などがありその管轄下には35の県があった。遂寧城の管轄地域が最大に達したのは唐の末期で、遂州に設置された武信軍節度使は遂(遂寧)、昌(隆昌)、合(合川)、渝(重慶)、瀘(瀘州)の5州を管轄した。明代以後、遂寧は州から県に降格し、潼川府(現在の三台県)、嘉陵道(現在の南充市)などの管轄下となった。1935年(民国24年)、中華民国により四川省に18行政督察区を設置した際、遂寧には第12行政督察区が置かれ遂寧、安岳、中江、三台、射洪、塩亭、蓬渓、潼南、楽至の9県を管轄した。中華人民共和国成立後は川北行政区遂寧分区が置かれ、1952年に遂寧専区と改められ上記の9県を管轄したが、1958年には遂寧専区が撤廃され、遂寧は隣接する綿陽専区に編入された。1985年2月、国務院により遂寧県は廃止され省轄市となり、市中区(もとの遂寧県)、蓬渓県、射洪県を管轄することとなった。1997年10月には国務院により、蓬渓県の涪江以西の地域に大英県が新設された。2003年12月には国務院により市中区が分割され、船山区と安居区が設置され、遂寧市は2区3県の構成となった。下部に2市轄区・3県を管轄する。石油、天然ガス、塩などを産出する。陳子昂 - 唐代の詩人。梓州射洪(現在の射洪県)出身。
出典:wikipedia
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