サンティ・カソルラ (Santi Cazorla)ことサンティアゴ・カソルラ・ゴンサレス(Santiago Cazorla Gonzalez, 1984年12月13日 - )は、スペイン・アストゥリアス州出身のサッカー選手。プレミアリーグ・アーセナルFC所属。スペイン代表である。ポジションはMF(サイドハーフ、トップ下、センターハーフ)。地元のレアル・オビエドの下部組織でプレーしていたが、17歳の時にビジャレアルCFの下部組織に移り、2003年11月30日のデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦でトップチームデビューした。2004-05シーズンはトップチームの中での立ち位置を確立してUEFAカップで4得点を挙げ、2005-06シーズンはUEFAチャンピオンズリーグで2試合に出場した。2006年7月7日、120万ユーロを支払えばビジャレアルが買い戻すことができるという条項が付けられ、移籍金60万ユーロの4年契約でレクレアティーボ・ウェルバに完全移籍した。8月27日のRCDマジョルカ戦でデビューし、初得点も決めた。2007年4月22日のラシン・サンタンデール戦で決めた得点は亡くなったばかりの父親に捧げた。セグンダ・ディビシオン(2部)からプリメーラ・ディビシオン(1部)に昇格したばかりのチームの8位躍進に貢献し、ドン・バロン紙によってリーガ・エスパニョーラのスペイン人最優秀選手賞に選出された。マヌエル・ペジェグリーニ監督に活躍が認められ、2007年夏にビジャレアルCFに買い戻され、フアン・ロマン・リケルメが着けていた背番号8を与えられた。ニハト・カフヴェジやジュゼッペ・ロッシらの得点をアシストしつつ自身も5得点を決め、チームは過去最高の2位に躍進した。2008年8月26日にはレアル・マドリードがカソルラ獲得に興味を抱いていると報道されたが、その直後にビジャレアルとの3年間の契約延長に応じた。2009年4月初旬のUDアルメリア戦で右足の腓骨を負傷し、リーグ最終節のRCDマジョルカ戦までの数試合を欠場したが、自己最多のリーグ戦8得点を記録した。2009年10月30日、椎間板ヘルニアのために戦線離脱を余儀なくされた。2011年7月26日、大型補強を敢行するマラガCFに移籍。移籍金は2000万ユーロ前後とされている。これにより、ビジャレアル時代の恩師ペジェグリーニの下で再びプレーすることになった。2011-12シーズンは全試合に出場し、クラブも4位と躍進したが、財政難のためアーセナルFCに移籍。アーセナルでは中心選手として、移籍初年度は攻撃的ポジションで自己最多のリーグ戦12ゴールを挙げるなど活躍、メスト・エジルの加入後はポジションをやや下げて中盤のリンクマンとしてプレーするなど欠かせない選手となった。2015年7月31日、アーセナルとの契約延長を発表したが、11月29日のノリッジ戦で膝の靭帯断裂の重傷を負い、持病のアキレス腱痛の影響もあって2015-16シーズンの後半戦は欠場した。世代別のスペイン代表にはイニャキ・サエス監督が率いていたU-21代表で初招集された。2004年にはアテネオリンピック出場プレーオフ・U-23イタリア代表戦に招集され、ファーストレグの77分からハビエル・アリスメンディに代わって途中出場したが、2試合合計の結果でイタリアに及ばず、本大会出場はならなかった。2008年5月17日、ルイス・アラゴネス監督が発表したUEFA EURO 2008出場メンバーの中にカソルラが含まれていたことは大きな驚きであった。その他には代表0キャップのFWセルヒオ・ガルシアも選出され、MFホアキン・サンチェスやMFアルベルト・リエラが落選した。5月31日、ペルーとの親善試合でスペイン代表デビューした。UEFA EURO 2008本選グループリーグのロシア戦、スウェーデン戦、ギリシャ戦に途中出場した。準々決勝のイタリア戦にも途中出場し、PK戦の末に勝利して準決勝進出を決めた。カソルラはPK戦の2番手としてPKを成功させている。決勝のドイツ戦ではダビド・シルバとの途中交代で試合の残り25分間に出場し、1-0で勝利して44年ぶりのヨーロッパ制覇を果たした。2008年11月19日、ビジャレアルのエスタディオ・エル・マドリガルで行われたチリとの親善試合で代表初得点を挙げた。2009年6月にはコンフェデレーションズカップに出場し、グループリーグ3試合に出場した。2010年5月、南アフリカワールドカップのスペイン代表候補30人に選出されたが、本大会に出場する23人からは外れた。2011年6月4日のアメリカとの親善試合で自身初の1試合2得点を挙げた。
出典:wikipedia
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