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HOUND DOG

HOUND DOG(ハウンド・ドッグ)は、1976年(昭和51年)に結成された日本のロックバンドである。代表曲に「ff(フォルティシモ)」(1985)、「ONLY LOVE」(1988)、「BRIDGE〜あの橋をわたるとき〜」(1992)など。1980年代後半に絶大なライブ動員力を誇り、一時はBOØWYと人気を二分するほどの存在であった。1990年代後半以後は低迷し、2005年(平成17年)以降はボーカル・大友康平の事務所独立と他メンバー切り捨てが訴訟に発展するなど混乱状況が続いている。2016年現在、所属メンバーは大友ただ1人のみ。1976年(昭和51年)、東北学院大学在学時に、初代ギターの高橋良秀が大友康平に「一緒にやろう」と声を掛けた事がきっかけで結成。バンド名は、大友が敬愛するエルヴィス・プレスリーのヒット曲から採用した。1980年、シングル『嵐の金曜日』でデビューを果たす(メンバーは、大友康平・高橋良秀・八島順一・蓑輪単志・海藤節生・藤村一清)。以後、1984年のメンバーチェンジなど紆余曲折を経ながらも、日本のロックシーンで息の長い活動を続けてきた。その活動は、ライブに主眼を置くとされる。ヒット曲が全くない中で1万人を集めた日本武道館初公演、足掛け3年間のライブツアー、チケットを買ったにも関わらず学校の指導で行けなくなったある地方の学生のために、卒業証書がチケット(無料)で、安全を求めライブ終了時間を早め、危険性の無い定められた場所で、音楽は素晴らしいものなんだよと、もう一度その地でライブを行うなど、過去に無い実績を残している。1990年には、日本武道館史上最多の15日連続ものライブを決行。この記録は、2014年現在も破られていない。1980年代の同時期には、BOØWYや、ARB、THE ALFEEなど、大規模な活動・演出を行うミュージシャンもあったが、HOUND DOGとTHE ALFEEは、メジャーになっても地方をおろそかにしないライブ活動を続け、同時にラジオやテレビへの出演も行った。そのため、この2組はライバル同士だった。1981年からはロックンロールオリンピックを仙台市近郊で開催し、日本の野外ロック・フェスティバルの先駆けの1つとなり、また、広島の『ピース・コンサート』、『夢の島ライブ』など募金やチャリティー・ライブの活動を通しての社会参加活動も行っている。大友が最も影響を受けているのがロッド・スチュワートであり、マイクスタンド捌きなどにそれがうかがえる。他方、HOUND DOGにはかつてはコピーバンドも多く存在した。初期のHOUND DOGは、仙台市にある音楽事務所「フライングハウス」に所属して活動していたが、東京の事務所に移籍しプロ活動を本格化させたい大友と、それまで通り仙台中心に活動したい他メンバーの間で意見の違いが鮮明となった。結局1983年(昭和58年)に「マザーエンタープライズ」に移籍し、初の日本武道館ライブを成功させるが、大友は一部メンバーの演奏能力とプロ意識の欠如に不満を抱く。メンバー間の人間関係が悪化する中、海藤がレコーディング中に自らバンドを脱退。ツアー終了後、大友は藤村・高橋を除いて活動することを決断した。しかし大友はその事をなかなか本人達に伝えられず、結局は八島が2人に伝えた。八島・蓑輪の証言によると、その頃の大友は、酒を飲んで暴れたり、何日も行方を眩ましたりしていたとの事。その後のHOUND DOGは、サポートメンバーとして海藤の穴を埋めていた元ツイストの鮫島秀樹と、オーディションで選出された橋本章司・西山毅を加えた6名で約20年活動を続けた。1985年(昭和60年)8月10日、「TYPHOON PARTY TOUR 1985」の一つとして西武球場でライブが開催された。メンバーチェンジを乗り越え、再出発を祈願するライブであったが、台風の接近により大雨が降る中での開催になってしまった。客入りは1万数千ほど、終始楽器やPAは不具合を起こしたが、それでも彼らは果敢に演奏を続けた。トラブルに見舞われながらもなんとか無事にライブが終わろうとしていた終盤、「ラスト・ヒーロー」を演奏中に演出用の特効花火が突如暴発し、その炎を浴びた大友がステージ上で倒れた。スタッフにより大友が舞台袖に抱えて運ばれると客席は騒然となり、ステージ上のメンバーも動揺した。しかし演奏は止まらず、鮫島が客席に背を向け、メンバーと顔を合わせて最後まで演奏し、パニックに陥るのを防いだ。大友は舞台裏で応急手当を受け、すぐにステージに復帰し、ライブを終わらせた。大雨にも、音のトラブルにも、ステージ上でのアクシデントにも、ヒット曲もない(彼らの代表曲の「フォルティシモ」のシングル発売はこの日の2週間後)状態にも負けず、ライブは大成功に終わった。そのアンコールの際、感極まった大友が「来年もここでやるぞ!」と発言したことから、1986年(昭和61年)8月10日「誓いの日」として同じく西武球場でライブを行った。このときは快晴で、前年と違い満員の観客が球場を埋め尽くした。1990年(平成2年)から1999年(平成11年)まで行った夏の野外ライブ。第1回夢の島は、1990年(平成2年)8月25日に、NO OBJECTION TOURの中の一公演として東京夢の島公園にて行われた。タイトルは「でっかい太陽 8/25夢の島 勝手に決めた!ILY(国際識字年)チャリティイベント ハウンドドッグ夏の日、いよっ!日本一!! Jump Jump Jump!めざせ西暦2001年」。第2回目以降の概要は以下の通り。1991年(平成3年)、『第42回NHK紅白歌合戦』の出場歌手に選ばれたが、この年のHOUND DOGは特にヒット曲がない状況であった。NHKは『ff(フォルティシモ)』を選曲したが、メンバーは「古い曲だから歌いたくない」とし、翌年リリースの新曲『BRIDGE〜あの橋をわたるとき〜』の演奏を希望。しかしNHKはその申し入れを拒否し、結局出場を辞退することとなった(代わりにバブルガム・ブラザーズが出場した。大友とバブルガムは親友同士であり、バブルガムは紅白のステージ上で、HOUND DOGにメッセージを送った)。その後現在までNHK紅白歌合戦への出場経験はない。東京ドームなど大きな会場で公演を成功させる一方で、地方をおろそかにしない地道な活動もしていたため、常に各地方都市の駅や公共施設に彼らの公演を伝えるポスターが多く掲示されていた。取材旅行で地方を旅することの多い、映画監督の山田洋次が、どこへ旅行しても目にする彼らのポスターに興味を持ち、「男はつらいよ」で渡世人の寅さんとドサ回りするハウンドドックを共演させる企画も暖めていたが、渥美清の体調不良、急逝などもあり、実現することは無かった。「メンバーは大変残念がっていた」と、鮫島が音楽誌の「ルーディーズクラブ」の連載コラムに寄稿している。デビュー25周年目となる2005年(平成17年)、大友と所属事務所マザーエンタープライズとの間で意見対立が発生した(大友が事務所を通さず営業の仕事を受けたのが原因)。その結果大友は個人事務所(イエホック、iehok)を設立し、4月に独立した。これを受けてマザー側は、7月の日本武道館公演をもってHOUND DOGに関する一切の業務を終了する事を発表した。また6月に発売されたアルバム「OMEGA」についても、マザーは「事実上、現メンバーによる最後のオリジナル・アルバムになる可能性がある」とし、ジャケットや曲のタイトルが解散を示唆する内容となっていた。しかし大友は事務所に反発し、解散はしないことを武道館のステージで明言した。この間、メンバー間で話し合いが続けられていたが、蓑輪・鮫島の2人はイエホック移籍に難色を示し、交渉がまとまらなかった。8月、大友はイエホック公式サイトにて、「バンド内に将来に対する考え方の違いが生まれた」として蓑輪・鮫島を除いた4名(大友・八島・橋本・西山)で活動を続けることを表明した。マスコミには蓑輪・鮫島が「脱退」したと報じられたが、当人たちは「脱退はしていない」とコメント。また、蓑輪・鮫島両名から「ハウンドドッグ」の商標登録が出願されていることも明らかとなった。鮫島はその後も折りにつけ脱退否定発言を繰り返したが、大晦日のカウントダウン・ライブや2006年(平成18年)2月からのツアーは、両者を除いた4名にサポートメンバーを加えるかたちで開催された。その後、大友が活発にバラエティ番組に出演する一方で、大友のラジオ番組から八島が降板したり、夏のライブ情報が橋本の個人サイトに掲載されなかったり、橋本がサイトのBBSで「信じていた人から裏切られた」と発言するなど、不可解な動きがあった。そして2006年(平成18年)6月3日、「HANBUN DOG(6-3)」と題した、橋本・八島・西山によるパーティーの開催が橋本のサイトにて発表された。6月18日、大友は「ハウンドドッグを守るため」自分ひとりで活動を続けるとイエホック公式サイトにて表明。イエホックの代表者(楠山寸賀子)は「ハウンドドッグを操ろうという動き」という表現で前事務所の干渉を示唆し、橋本らのパーティー開催をそれに飲み込まれたものであるとみなして、バンドが大友ひとりになる理由とした。これに対して橋本のサイトには、橋本・八島・西山の反論コメントが掲載。橋本は「私たち三人は脱退したのではありません」とした。その後、橋本のサイトやパーティーで3名が語ったところによれば、イエホックは当初から、3名を大友のバックミュージシャン扱いしていた。新曲の権利をすべて無償でイエホックに譲り渡すことを要求してきた。橋本が株売却のために旧事務所とコンタクトをとったことを口実に解雇し、新メンバーをオーディションで加えようとした。反発した3名は大友との話し合いを求めたが、大友は携帯の番号を変えて連絡がとれない状況であった。3名が事務所に不満を募らせていたところ、代理人弁護士から携帯メールで一方的に解雇を告げられた。「HANBUN DOG(6-3)」は元の6人でもう一度やり直したいという意味を込めたものであり、前事務所の干渉や、一部で噂された宗教団体の関与などは全くない、というものであった。7月22日、大友以外すべてサポートメンバーで、HOUND DOG名義のライブが大阪野音で開催された。八島・橋本・西山が自腹でチケットを購入して現れ、会場は騒然となる。しかし、大友は例年通り昔の曲(そのほとんどは蓑輪と八島が作曲したものである)を歌い、MCでは一連の騒動について明確な説明をしなかった。昔の6人に戻ることを求める署名活動を行うファンの姿も見られた。9月2日には、同じサポートメンバーを従えて「HOUND DOGとして50回目」と称した日本武道館公演が行われた。ここでも大友は明確な説明をしなかったが、「後悔はない。1歩ずつ前を向かって歩いていく」と話し、旧メンバーとやり直す気がないことを暗示した。ようやく10月31日、大友はインターネットマガジン「Manyo」連載のエッセーにおいて、一連の経緯に関するファンへのメッセージを発表。自らの決意が変わらないことを強調し、「いずれ時間と良識と世論が本当の答えを出して理解してくれるはずだ」と結んだ。一方、八島・橋本・西山の3人は「新生ハウンドドッグ」として、八島が書き下ろした「We are the Hound Dog」のレコーディングを9月14日に行った。ボーカルは、緊急募集された199名のファンである(当初、199名の中には冗談半分で応募した大槻ケンヂが含まれていたが、結局辞退している。)。八島いわく「大友康平に歌ってほしいと思って作ったが、今のところ実現は困難なのでこの曲は、みんなに歌ってほしい。7人目のメンバーと一緒に歌いたい」「200人目は大友に」とのことであった。その後3人は「We are the Hound Dog」発売を記念したライブも行っている。2006年(平成18年)9月現在、明らかになっている訴訟は以下の通り。イエホック側の発表と旧メンバー側の言い分が食い違い、また大友がほとんどファン向けの説明をしなかった。2006年(平成18年)7月の大阪野音公演と9月の日本武道館公演では、元の6人での活動を求める署名活動が会場外で行われた(この署名は、大友のもとに届けられたといわれる)。また、一部有志は同年9月1日付日刊スポーツに意見広告を掲載し、同じく6人での活動再開を求めた。プロデビュー以降のみを以下に記す。(5枚組・DVD付…《ROLLOVER TOUR TOKYO & SP》)

出典:wikipedia

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