海上護衛隊(かいじょうごえいたい)は、旧日本海軍の部隊編制の一つである。太平洋戦争序盤に南方資源地帯占領に成功したため、占領地の資源を輸送するシーレーン防衛を目的とした船団護衛部隊として発足した。しかし老朽艦艇や特設艦艇が主力で対潜・対空装備が充実した専用艦艇が配備されず、兵力も少なかったため、連合軍による通商破壊が本格化すると対応できず、輸送船団に甚大な被害が続出した。その後、海防艦の大量建造がすすむと各海上護衛隊に配備されたほか、航空部隊も編入されるなど戦力の増強が図られた。本稿では、4個の海上護衛隊とともに、第一海上護衛隊を発展解消した第一護衛艦隊を合わせて述べる。1942年4月10日、攻略が完了した東南アジアと日本本土を結ぶシーレーンの船団護衛を実施するため、南西方面艦隊直率部隊として編成された。大規模な部隊であるため、「艦隊」ではないにもかかわらず参謀部があり、参謀長が在籍する。守備範囲は、西航路・東航路・横断航路の3航路とされた。各航路は日本本土-上海・台湾航路までを共有し、そこからマニラ・ミンダナオ島を経てボルネオ島経由でジャワ島を終点とする東航路と、香港・海南島・サイゴンを経由してシンガポールを終点とする西航路、サイゴンとマニラを直結する横断航路に分かれていた。南シナ海は1943年頃までは散発的な潜水艦攻撃を受ける程度であり、もともとの所属艦艇のうち老朽艦の割合が高かったこともあって、新鋭海防艦への更新はなかなか進捗しなかった。1943年11月15日に海上護衛総司令部が設置されると、その主力部隊に迎えられた。1944年に入ると、南シナ海航路でも通商破壊が本格化し、それに対応すべく編制・制度が頻繁に変化した。ヒ船団やミ船団などの重要な資源船団の護衛を担当することになった。同年10月にフィリピンの地上戦が始まると東航路は途絶。西航路の死守を目的に「第一護衛艦隊」へと改編された。1944年12月10日、第一海上護衛隊を発展解消した組織で、当初はヒ船団に代表されるシンガポールを終点とする南方航路の死守を目指した。しかし、1945年1月12日にアメリカ機動部隊が仏印沿岸に進出し、第101戦隊で護衛中のヒ86船団が壊滅させられた。その後、南号作戦が発動されて第一護衛艦隊は主力として参加したが、3月下旬に海上護衛総司令部は南シナ海航路を断念した。代わって、台湾・上海を終点とする東シナ海航路の死守を画策したが、これも、沖縄戦に備えたアメリカ機動部隊の事前空襲のために不可能となった。以後は東シナ海横断航路ではなく、上海-青島-木浦・馬山・済州島-下関の迂回ルートを取らざるを得なくなった。1945年4月からはB-29による日本本土港湾への機雷投下(飢餓作戦)が始まり、下関港をはじめ全国の港湾が封鎖された。4月14日には第一護衛艦隊主力が駐留する済州島泊地への潜水艦攻撃が実施され、第一海防戦隊が壊滅している。6月末から日号作戦に従事し、最終的には、舞鶴・新潟・酒田・秋田・函館・小樽を結ぶ日本海沿岸航路と、舞鶴・新潟-元山・羅津・雄基(現先鋒)間を結ぶ日本海横断航路を確保しつつ終戦を迎えた。なお、ソ連対日参戦に際し、隷下海防艦の一部が終戦による停戦命令に反して朝鮮・樺太に入港し、邦人救出を敢行している。1942年4月10日に、横須賀-トラック環礁・パラオ諸島間の東西2航路の防衛を任務として第四艦隊隷下に編成された。担当する航路は小笠原諸島を経由してマリアナ諸島で東西に分岐し、東航路はトラックを終点とし、西航路はパラオを終点としていた。なお東航路の延長線にはカロリン諸島・マーシャル諸島・ギルバート諸島・ビスマーク諸島・ソロモン諸島があり、西航路の延長線上には西ニューギニア・スンダ列島・ミンダナオ島が存在し、それぞれ特務艦艇・特設艦艇による輸送が行われていた。分岐があり、長大なシーレーンを担当するにもかかわらず、当初は特設艦艇3隻からなる1個戦隊しか充当されなかった。しかも創設からわずか1週間後の4月17日、トラック入港目前の特設巡洋艦金城山丸が撃沈され、さっそく護衛隊は破局の危機に直面した。そこで7月10日、内南洋平定を終えて遊兵化していた第六水雷戦隊を併合し、ようやく対潜能力を備えた船団護衛部隊として一応完成した。ソロモン諸島の消耗戦が長期化して前線の駆逐艦が不足すると、第二護衛隊所属の老朽駆逐艦もソロモンに引き抜かれ、順次、水雷艇や海防艦に置き換えられた。1944年2月17日にトラック環礁は大空襲を受けて基地機能が失われたため、航路の終点はサイパン島まで後退した。サイパン島航路は絶対国防圏強化のための重要航路とされ、第二護衛隊だけではなく連合艦隊の増援を得て松輸送の名の下で護衛が行われたが、アメリカ潜水艦の徹底的な攻撃により、輸送船団の損害を食い止めることはできなかった。6月にはサイパン島上陸に向けたアメリカ機動部隊による航空攻撃も加わり、担当航路は途絶した。司令官の辻村武久少将はサイパン島の地上戦で戦死し、同島が陥落した7月18日付で第二海上護衛隊も解散された。1944年5月20日、東京湾-大阪湾航路の船団護衛を担当するために、海上護衛総司令部直率の部隊として編成された。海上輸送の大動脈であり、大戦序盤の頃から散発的に潜水艦被害が出ていた航路で、従来は横須賀鎮守府と大阪警備府が管轄していたが、相互連絡の不備などの不都合が続出した。これを解消するために海上護衛隊が設置された。しかし護衛艦艇が極端に少なく、串本海軍航空隊の編入も見送られたため航空支援も得られなかった。大規模に対潜機雷が敷設されていた三陸沖航路のような厳重な防御も困難であった。満足な成果のないまま、本土決戦に向けて伊勢湾の水際防御を担当する第四特攻戦隊に改編された。1944年4月10日、佐世保・鹿児島-沖縄間航路の船団護衛を担当する目的で、海上護衛総司令部隷下の部隊として編成された。当時、沖縄が戦場となる恐れが極めて高まってきていたが、既存の第二海上護衛隊が担当する南方航路は沖縄を通らず台湾を経由していたため、沖縄への新たな輸送ルートを設置する必要があったためである。第四海上護衛隊の司令部は、沖縄を防衛する「沖縄方面根拠地隊」司令部が兼任し、沖縄への物資輸送と住民の本土疎開を推進した。戦力は微々たるもので、対馬丸をはじめとする商船の喪失は防げなかった。1945年2月に、沖縄方面根拠地隊を地上戦に専念させるために司令部の兼任は解除され、海上護衛総司令部の直率部隊に変更された。連合軍が、沖縄上陸に向けて3月下旬から九州地区へ空襲を開始すると、沖縄航路も途絶した。このため船団護衛が不可能となった第四海上護衛隊は、本土決戦に備えて南九州防衛を任務とする第五特攻戦隊へ編入されることになり、5月10日付で改編消滅した。しかし、すでに所属艦艇の大半が失われており、特攻戦隊に委譲できたのは駆潜艇2隻に過ぎなかった。
出典:wikipedia
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