ラウル・アルバン・ルイ・サラン(Raoul Albin Louis Salan、1899年6月10日 - 1984年7月3日)は、フランス、タルヌ県生まれのフランス陸軍軍人。後にOASの指導者となる。サランの軍人生活は、フランス植民地帝国の衰亡そのものであった。1924年及び1937年の間、インドシナ各地を巡った後、植民地省情報局長となる。1942年から1943年の間、特にアフリカ植民地において、ヴィシー政権側にありながら自由フランスに協力していた。その後、自由フランス軍に参加、トゥーロンの解放戦及びアルザスの戦いに参加する。1948年以降はインドシナ駐留軍勤務で、元帥の死去後、1952年1月のインドシナ極東遠征軍団司令官となる。1956年12月1日に、アルジェリア駐留軍(第10軍)司令官となりFLNを一時壊滅させた。1917年8月21日、サン・シール陸軍士官学校に入学する。しかし、下級将校の不足に伴い1918年7月25日に、リヨン駐屯の第5植民地歩兵連隊に配属された。第11中隊の小隊長としてヴェルダンの戦いに参加、各地を転戦する。1919年5月までドイツ占領軍に勤務し、5月7日にサン・シール陸軍士官学校に復学する。9月21日、正式に少尉に任官、12月3日にモロッコ植民地歩兵連隊(現在の海兵歩兵戦車連隊)に配属される。その後レバント地方のトルコ・シリア国境地帯駐留の第17セネガル前哨兵歩兵連隊に勤務、1921年9月11日、大尉に昇任する。そして、同年10月24日に"Accham"の戦いで重傷を負う。1922年1月25日、サランは衛生上の本国送還の対象者であったため、トゥーロンのサン=アン病院に入院することとなった。1924年1月2日にインドシナへの勤務の求めに対して、サランは回復後に23eRICで勤務することを志願した。1924年4月15日、グエン=ビン(トンキン)駐屯の第3トンキン前哨兵歩兵連隊に勤務となる。12月14日、メコン川行政区長の下で行政官を委任される。当該地域は中国、ビルマ及びシャムと接する政治的に微妙な地域であった(1925年4月15日から1928年5月26日まで)。1928年7月6日のハノイへ復帰の後、臨時メコン川行政区委員に任命される。1930年3月25日、大尉に昇任する。1933年12月1日、インドシナ駐留軍の命令を受け、1934年春まで帰国。1934年10月6日に再びインドシナやってきて、トンキン地方にあるディン=ラプの管理代表を務めながら、第19植民地混成歩兵連隊第6中隊長となる。1937年4月8日、本国に戻りそこで将来妻となる女性と知り合う。9月1日、植民地省第2部(情報)部長代理となり、1938年3月22日に少佐に昇任、植民地間情報交換部長になって、ジョルジュ・マンデル(1938年4月から植民地大臣)との日々の関係にあって親交を深める。ドイツによる宣戦布告まで、カイロ及びハルツームにあるイタリア軍によるエチオピアの占領に対するアビシニア人抵抗グループへの援助を実行する為の秘密事務所に勤務する。1939年11月19日にパリに戻り、1940年1月に、第44歩兵連隊セネガル大隊長に就任、ダンケルクの戦いにより主力が壊滅、6月5日大隊は第一線に立つこととなった。大隊はロワール川及びセーヌ川において遅滞行動をとり、残余部隊の後退に尽力する。7月12日1300時及び1940時、連隊命令により武装解除が下達された。7月16日、ヴィシー政権下の植民地省から分離された植民地軍総司令部に勤務。8月21日、少佐に昇任。翌1941年6月25日、中佐に昇任。1941年9月24日、フランス領西アフリカ(AOF)に勤務者の候補にあがる。1942年3月8日、ダカールにある西アフリカ駐留軍第2部(情報)員として、本部付きのバロー将軍やアルジェ市長との面識をもつこととなる。ここで形成された人脈が後のサランにとって役立つこととなる。第2部付き中隊は、セネガル、仏領スーダン及びギニア遠征を実施、地誌資料収集や情報網構築に寄与した。その後第3部に勤務。1943年6月25日、大佐に昇任。北アフリカへの転出が決まり1943年8月31日にアルジェに到着する。北アフリカ駐留軍第2部長に就任。情報提供協力者との接触が行われる。1944年5月30日、コルシカ駐屯の、第6セネガル前哨兵歩兵連隊(6eRTS)長になる。6月16日、6eRTSの閲兵の為に来隊したタシニー将軍と謁見する。これがサランとタシニーとの初会合であった。8月19日、サランは連隊とともに連合軍に投降。そのまま8月26日にトゥーロンの戦いに参加、6日間の間に587名の戦死者を出す。トゥーロン戦後の、9月9日に連隊は自由フランス陸軍に正式に編入される手続きを終え、10月13日に6eRTSは、第6植民地歩兵連隊(RIC)に改名された。11月14日、6eRICは、"Doubs"包囲戦でドイツ軍を撃滅粉砕する。11月23日、連隊は高地ライン川地方南部オー=ラン県にあり、ドイツ軍と橋梁をめぐる激戦が繰り広げられていた。12月25日、少将に昇任し、合わせて第9植民地歩兵師団長に就任。45歳のクリスマスプレゼントであった。翌1945年1月末、コルマール包囲戦に参加を命ぜられ、2月の初めに到着する。2月10日、ドゴール将軍がサランに勲章を授与する為に師団を訪問、これがサランとド・ゴールとの初会同であった。2月20日、連戦続きで消耗の激しい歩兵連隊の回復を目的として、9eDICの再編成のため、サランは第14歩兵師団への異動の命令を受け、同師団はアルザス・ロレーヌ地方へ向かう。ドナウエッシンゲン近郊にてヨーロッパでの終戦を迎える。1952年1月11日、インドシナ駐留軍司令官元帥の死去にともない、後任として司令官に着任する、ベトミンによるトンキン地方への攻勢を撃退したのち、ベトミン軍の行動に対応してラオス地方へ作戦を指向し、12月にはナサンの戦いに勝利する。ベトミン側はヴォー・グエン・ザップ将軍指導の下、ラオス戦に挑んだ。1953年5月28日、大きな戦果を挙げることなく戦局拡大の責任を取る形での離任となり、フランスへ帰還した。1956年12月24日、アルジェリア駐留第10軍司令官に就任。当初は、インドシナ戦争「敗戦司令官」であるサランに対してコロンたちは裏切り者・売国奴と見る向きがあった。翌1957年1月16日には、第10軍本部庁舎にあるサランの執務室に向かってバズーカが撃ち込まれる事件が発生、ロディエ大佐が死亡した。実行犯は、コロン過激派であるフィリップ・カストリとミシェル・フェショであった。そしてその後援者には、ルネ・コヴァック(「フランスのアルジェリア」運動に身を投じている医者)とサランの代理を務めようとしたルネ・コニー将軍がいることが判明。しかし、コヴァックらが関与のした証拠は不十分であった。"詳細はバズーカ事件を参照"。9月30日、相次ぐコロンとFLNの間の爆弾テロ合戦はエスカレートするばかりであった。12月28日にはアメデ・フロジェアルジェ市長が拳銃で暗殺されるにいたり、翌1957年1月7日ラコスト総督の要請に基づき、スエズ帰りのジャック・マシュウ将軍率いる第10落下傘師団に出動を命じた。これがアルジェの戦いの始まりである。苛烈な掃討戦が終わる頃にはFLNは壊滅的打撃を受け、特にアルジェでは活動できなくなり地方でのゲリラ戦に移行した。FLNの聖域と化していたチュニジアとの国境線付近にモーリス線を設置。物資の供給を遮断した。この頃にはFLNのもとに東側諸国からの援助物資が届くようになっていた。地方においてもアルジェと同じく民間人、なかんずくアルジェリア人が多く犠牲となる悲惨な戦いが続くこととなった。1958年5月の危機(アルジェ動乱)で、アルジェからド・ゴール支持を訴えた。しかし、第五共和制初代大統領に就任した当のド・ゴールはサラン他アルジェリア駐留軍の態度を良しとせず、12月12日に実質的に名誉職となっていたパリ軍事総督に着任すること命じられた。1960年6月10日、退役。1959年9月16日、ド・ゴールはテレビ・ラジオを通じてFLNとの停戦、民族自決政策の支持を発表した。翌1960年、(自身の舌禍が原因ではあるが)マシュ将軍の落下傘師団長解任事件とそしてバリケードの1週間の失敗と、コロンたちを色めき立たせる事案が立て続けに起きた。サランはフランス官憲の監視を振り切ってスペインに亡命、そこからアルジェへの帰還を図っていた。サランはマドリードにおいて記者会見を行って、「フランスのアルジェリア」運動の長となることを宣言し、準備を開始した。OASの民間人創始者たちを意識的に忌避しつつ、アルジェリアやフランス本国の支持者達と連絡を取り合っていた。4月22日、遂にアルジェに到着した。しかし、すでに反乱の足並みは乱れ始めており、4月26日に逃亡する事態となった。反乱の失敗後、逃亡先にてOASと合流を果たす。そしてかつての落下傘連隊の指揮官達に指名され、エドモン・ジュオーを副官としOASの指導者となる。FLNやド・ゴール派の要人に対するテロがフランス本土全域にまで広がる事態となった。エビアン会談そしてエビアン協定を阻止すべくド・ゴール本人だけでなくアルジェリアの一般市民まで犠牲になるようになっていた。サランはこのような行為に対し激怒し、末端部隊の暴走を止めようとするが、既に組織は分裂状態にあった。状況は救いようの無いところにまで悪化しておりポルトガルへの亡命を勧められたがこれを固辞。1962年3月25日、ジュオーが逮捕される。4月20日、遂にサランも逮捕される。1962年5月23日、高等軍事裁判所においてジュオーと共に死刑が言い渡されるも、5月27日にドゴールによって法廷の解散を伴う評決が出た為無期刑扱いとなった、12月8日サランとジュオーは他の反乱参加者達とは別にされチュール刑務所へ収監されることとなる。これは、同じ監獄に収容した場合、「フランスのアルジェリア」運動を再開させかねない懸念があったためである。1968年6月15日、恩赦となり、チュール刑務所の受刑者の中で最後に出所した。1970年から1974年にかけて1918年〜1960年のサランが軍務に服していた期間について著述し、翌年1975年に「帝国の終わり」と題して発表。1982年、議会によって恩赦特別法が可決され恩赦となり、名誉回復がなされる。1984年5月10日、病気のため陸軍病院に入院、7月3日に亡くなった。
出典:wikipedia
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