石島(ソクト)は、大韓帝国「勅令第四十一号」に記載されている鬱陵島付近の島。1900年10月25日に大韓帝国「勅令第四十一号」で、鬱陵島などとともに江原道の鬱島郡に管轄させた。現在のどの島を指すのか確実に特定できる文献資料がなく、日本の研究者は韓国の鬱陵島の北東近傍にある小島の観音島とし、韓国側は現在日本と領有権争いをしている竹島(韓国名:独島)であるとしている。なお、韓国の慶尚北道は大韓帝国「勅令第四十一号」が出された1900年10月を「独島の月」に制定している。石島は、1900年10月25日の大韓帝国「勅令第四十一号」に出てくる島で、韓国ではこの島を「独島」(日本名:竹島)としている。韓国は、日本が竹島を島根県に編入した1905年より早いことなどから、竹島が韓国の領土である根拠の一つとしている。しかし、韓国の主張には明確な根拠がなく「石島」という名称もこれまで鬱陵島の周辺の島で使われたことがないため、日本側はこの石島を他の資料より観音島ではないかと推測している。この勅令では、鬱島郡の管轄する地域が「鬱陵全島と竹島石島」と規定されている。日本では、この「竹島」は鬱陵島の2km北東にある竹嶼(韓国名:竹島)で、「石島」は鬱陵島の北東端から100m離れた観音島とする見方が一般的である。それに対し、韓国側は、この「竹島」が日本で言う竹嶼であることは一致しているものの、「石島」は鬱陵島より西南西に90km離れた独島(日本名:「竹島」)であると主張している。ただし、1908年に大韓帝国の高宗の命により編纂された『増補文献備考』まで、韓国の地図で竹嶼に比定できる于山島の記述が見られ、この時までに韓国の地図に日本と領土問題になっている竹島(独島)と比定できる島は全く記入されていない。朝鮮語の標準語には、「石」や「岩」を意味する「トル」という固有語があり、韓国の全羅道の南海岸の方言ではこれが「トク」となるため、韓国では、全羅道から鬱陵島に移住した人々が竹島(韓国名:独島 トクト)を「トクソム」(石の島)と呼んでいたという。そのため、大韓帝国の勅令ではこの島を「石島」と表記しているが、「独」の音読(トク)が同音であるため、後に「独島」に改められたとする。韓国が「石島」を「独島」であるとする理由には発音が同じであるということ以外の根拠はなく、「石島」から「独島」に漢字表記が変更されたことを示す文書は発見されていない。 また、名称が変わったとする理由にも数多くの疑問点がある。疑問点 その1:1900年当時、鬱陵島住民は江原道出身者が中心で「石」を'Dol'と発音していた。鬱陵島に近い江原道や慶尚道方言ならまだしも、なぜ黄海に面した全羅道方言を採用したのか。疑問点 その2:「石」という漢字の朝鮮語音(音読み)自体は「ソク」である。音読みに変えるなら「石島(ソクド)」でいいはずだが、なぜわざわざ文字を変え「独島」としたのか。朝鮮の全羅道方言でも限定的ながら漢字の訓読みが行われており、また「石」と「乙」を組み合わせ朝鮮語固有語の「トル」を表す国字(乭)も存在するなどしているが、地名の「石」の字を「独」に変えた例、あるいはその逆の例といったものは他に確認されていない。疑問点 その3:1908年に大韓帝国の高宗の命により編纂された『増補文献備考』「輿地考」まで「于山島」という名称が表れる。韓国の主張通り于山島が独島なら、なぜ1900年の大韓帝国の勅令で于山島を使わず石島を使ったのか。「独島」の名が韓国の史料に初めて登場するのも、日本人に雇われた欝陵島の大韓帝国臣民がリャンコ島でアシカ猟に従事するようになった1904年以降のことである。疑問点 その4:1905年以前の朝鮮半島には「独島」に関する文献記録・地図がほとんどなく、李氏朝鮮における地図の最高傑作といわれる金正浩の『大東輿地図』(1861年)にも、独島が描かれていない。疑問点 その5:1899年に書家としても知られていた玄采が著した、官撰の『大韓地誌』では、大韓帝国の領域は北緯33度15分から北緯42度15分、東経124度35分から東経130度35分までと記されている。東経131度52分にある「独島」は韓国の領域に含まれていない。疑問点 その6:大韓帝国時代の「皇城新聞」1906年5月19日付の記事に、「本郡所属の独島は外洋百余里(約40km)の外に在るが、本月四日に、日本官人一行が官舎に来到し、自ら云うには、独島が今、日本の領地になった故、視察のついでに来到し、・・・(中略)(日本官人一行は)戸数人口と土地の生産の多少と人員及び経費幾許、諸般の事務を調査して録去した」との記載がある。これは、鬱島郡の郡守であった沈興沢が、日本人一行の去った翌日の1906年3月29日に彼の直属の上官である江原道観察使に送った報告書をもとにした記事であり、沈興沢が「独島」(竹島)を本郡所属と考えていたことは察せられるが、日本人一行に対し何ら抗議した形跡もない。疑問点 その7:上記皇城新聞の中で郡守が「独島」の名称を使用しているが、「独島」が「石島」とするなら、郡守が勅令に用いられた「石島」の語を使わず、あえて「独島」という語を使っているのは不自然である。「石島」は別の島とするのが自然である。疑問点 その8:「皇城新聞」の1906年7月13日付の記事には、「鬱陵島の配置顛末」との題で、「郡所管の島は鬱陵島と竹島(竹嶼)と石島。東西六十里、南北四十里」と記載されており、石島が鬱陵島を含む東西六十里(約24キロメートル)、南北四十里(約16キロメートル)の所管の中にある。竹島(独島)は鬱陵島から約90km離れているので石島は竹島(独島)ではない。「皇城新聞」5月と7月の記事が韓国の主張する「石島」=「独島」であるならば、1900年の「石島」が6年後には「独島」となり、その2ヶ月後には再び「石島」にもどったことになる。上記のように韓国側資料から石島と独島は別の島と考えるのが自然である。「石島」という名称は、過去にも鬱陵島周辺で使われたことがないが、勅令にある「竹島」が現在の竹嶼とするのであれば、「石島」が現在の観音島であると言う見方が強い。韓国の勅令が出された1900年までに現在の竹島と比定できる韓国側の資料は一枚もなく、鬱陵島近傍の島のうち人が住める程度の環境の島は竹嶼と観音島で、竹嶼が一番大きく観音島がこれに次いで大きい。勅令では「区域は鬱陵全島と竹島石島」となっており、その順番にも適うものである。韓国側はまた「独島」は岩石でできているのでその名は勅令の「石島」に相応しいとしているが、観音島もまた上部の表土以外は岩石でできている。なお、葛生修亮が1901年(明治34年)に書いた『韓海通漁指針』では当時の朝鮮人は、現在の「竹島」を「ヤンコ」(リアンクール岩礁に由来。日本では「リャンコ」)と呼んでいたという記述がある。韓国の慶尚北道は大韓帝国「勅令第四十一号」が出された(1900年の)10月を「独島の月」に制定し、竹島(「独島」)の領有権確立をPRする月間としている。これは日本の島根県が2月22日を「竹島の日」を制定した事に対抗しての措置であった。
出典:wikipedia
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