別府温泉(べっぷおんせん)は、大分県別府市(旧国豊後国速見郡)の市内各地に数百ある温泉の総称。別府八湯(べっぷはっとう)、別府温泉郷(べっぷおんせんごう)とも呼ばれる。温泉都市として知られる別府は、源泉数、湧出量ともに日本一。別府温泉はまた、広義の別府温泉(別府八湯)を構成する温泉のうちの別府市中心部にある温泉街の名称でもある(#別府温泉参照)。泉都とも呼ばれる別府市には、鶴見岳(標高1,375m)とその約4km北にある伽藍岳(別名硫黄山、標高1,045m)の2つの火山の東側に多数の温泉が湧き出ている。また、奇観を呈する自然湧出の源泉を観光名所化した別府地獄めぐりなど観光スポットも充実しており、別府市には毎年800万人を超える観光客が訪れる。豊かな温泉資源は観光や、市民生活だけでなく、古くは明礬の生産から、地熱発電、医療、花き栽培、養魚業、最近では温泉泥美容まで、様々な産業に幅広く利用されている。別府市内には、おのおの泉質や雰囲気を異にした温泉が数百あるが、それらは歴史の異なる8箇所の温泉郷を中心に分布しており、これらを総称して別府八湯と呼んでいる。別府八湯では、毎年4月のはじめに別府八湯の豊かな温泉の恵みに感謝して別府八湯温泉まつりが開催されている。また、2001年(平成13年)から開催されている別府八湯温泉泊覧会(オンパク)や、別府八湯の選び抜かれた温泉施設から88湯に入浴し、温泉道名人の認定を目指す別府八湯温泉道という体験型イベントがある。別府(べっぷ)温泉は、JR別府駅周辺に位置する温泉街である。駅に近く交通の便がよい。単純泉、食塩泉、重曹泉、重炭酸土類泉など多数の温泉が湧き、各泉質に応じて効能がある。地元住民を対象とした町内会経営の共同温泉も多く、観光客も利用できる。温泉街は別府八湯の中では最も歓楽的な要素が強く、夜になれば飲食店や別府タワーなど繁華街のネオンが煌く。元寇の役の戦傷者が保養に来たという楠温泉など、古くから流川の川沿いにいくつもの温泉が湧き出し、江戸時代後期の温泉番付にも登場する。昔の別府の玄関口旧別府港(楠港)の開港とともに発展した温泉街で、旧港の近くには入母屋破風の外観を持つ市営温泉「竹瓦温泉」があり、温泉のほかに砂湯(温泉で温められた砂を体にかけてもらう)が楽しめる。竹瓦温泉と竹瓦小路木造アーケードは、「別府温泉関連遺産」として、2009年(平成21年)2月6日に近代化産業遺産に認定されている。鎮守神である温泉神社は現在は八幡朝見神社に合祀されており、楠港の開港時にまつられた波止場神社は竹瓦温泉の北にある。浜脇(はまわき)温泉は、朝見川の河口一帯にある温泉街で、JR東別府駅(浜脇駅として開設された)の前の海沿いに位置する。市営温泉「浜脇温泉・湯都ピア浜脇」がある他は、小さな共同温泉が多い。現在は名前の由来となった砂浜に温泉が湧く様子は見られないが、鎌倉時代には八幡朝見神社の門前町として栄え、大友氏が温泉奉行を置いて温泉を整備した。江戸時代後期の1817年(文化14年)に書かれた温泉番付「諸国温泉功能鑑」では、西の前頭三枚目で別府温泉よりも上位にランキングされ、河口の船溜も湯治舟で賑わっていた。炭酸水素泉、塩化物泉など。観海寺(かんかいじ)温泉は、朝見川上流の山の斜面の古い街道沿いにある温泉街で、別府湾の見晴らしがよい。単純泉、含重曹食塩泉で神経痛・リューマチに効能がある。大型リゾートホテル杉乃井ホテルと、室内温水プールアクアビート、ボウリング場、劇場や大展望露天風呂などのレジャー施設が並ぶ。堀田(ほりた)温泉は、観海寺温泉のさらに奥、由布院温泉へ向かう九州横断道路(やまなみハイウェイ)沿いにある源泉地帯で、江戸時代に開かれた静かな山の湯治場である。湯量が豊富で、別府市内の共同温泉などへの給湯もされている。大分県道52号別府庄内線沿いに市営温泉「堀田温泉」がある。泉質は、弱酸性低張性高温泉、硫黄泉である。明礬(みょうばん)温泉は、別府市街から少し離れた伽藍岳中腹の標高400mの所にある地熱地帯で、その名の通り江戸時代から明礬(湯の花)が採取されてきた山の温泉街。急傾斜の地熱地帯に別府石の石垣が築かれ湯の花小屋が建ち並び湯けむりの立ち込める明礬温泉の景観は、鉄輪温泉とともに別府の湯けむり・温泉地景観として国の重要文化的景観に選定されている。湯の花の採取施設である湯の花小屋は、一部見学が可能である。泉質は、酸性硫化水素泉、緑ばん泉で神経痛・リューマチ・皮膚病に効能があり、市営温泉「鶴寿泉」がある。コロイド硫黄を含んで白濁した温泉が多いが、別府温泉保養ランドでは美肌効果の高い『ドロ湯』が味わえる。別府明礬温泉の湯の花製造技術は、国の重要無形民俗文化財に指定されている。鉄輪(かんなわ)温泉は、別府市街と明礬温泉との中間にあり、いまだに湯治の雰囲気を残す温泉街。貸間旅館が建ち並び随所から湯けむりの立ち上る鉄輪温泉の景観は、明礬温泉とともに別府の湯けむり・温泉地景観として国の重要文化的景観に選定されている。湯治客は貸間旅館にある温泉の蒸気を利用した装置「地獄釜」で自炊しながら長逗留する。温泉の蒸気は部屋の暖房にも使われている。周辺に多様な地獄が存在することから分かるように、泉質も単純泉、食塩泉、炭酸鉄泉など多彩である。岩風呂・砂湯・瀧湯・露天風呂など、さまざまな温泉が楽しめる外湯のひょうたん温泉を代表に、大小多数の温泉施設や、食材の持ち込みも可能で手軽に地獄釜を利用できる地獄蒸し工房もある。別府地獄めぐりの中心に位置し、周辺には海地獄、鬼石坊主地獄、山地獄、かまど地獄、鬼山地獄、白池地獄などの観光施設や、大衆演劇の芝居小屋ヤングセンターなどの娯楽施設も存在する。鉄輪地獄地帯公園の付近には日本で最初の地熱発電に用いられた泉源跡があり、また、野菜・花きの温泉熱利用による栽培、育種の研究が行われている花き研究所がある。開湯伝説によれば、鎌倉時代広大な地獄地帯であったこの地を一遍が火男火売神社の祭神の導きで最初に整備したとされ、市営温泉「鉄輪むし湯」の向かいには、一遍が開いたとされる蒸し湯跡が今も残る。毎年9月には鉄輪湯あみ祭りが開催され、むし湯のそばの温泉山永福寺では、上人像を渋の湯などで洗い清める「湯あみ法要」が行われる。温泉街の山手の坂を登った先には温泉神社がある。柴石(しばせき)温泉は、血の池地獄や龍巻地獄の一帯にある由緒ある温泉で、895年に醍醐天皇、1044年に後冷泉天皇が入湯したといわれている。柴石川に沿った谷間に市営温泉「柴石温泉」がある。泉質は、含鉄泉、硫酸塩泉などである。亀川(かめがわ)温泉は、JR亀川駅すぐの海沿いにある温泉街で、泉質はナトリウム・塩化物泉である。大正時代に開院した海軍病院(現・国立病院機構別府医療センター)を中心に発展し、1950年には別府競輪場が開設された。亀川駅の近くには市営温泉「浜田温泉」と浜田温泉資料館がある。一遍上人が九州に上陸した地点と言い伝えられている上人ヶ浜(別府大学駅近く)に、市営温泉「別府海浜砂湯」がある。11種類の掲示用泉質のうち、以下の10種類が入浴用途に用いられている。なお、別府市は7種類が確認されているとしている。古代より豊後国速見郡の鶴見岳山麓に温泉があることは広く知られていたが、鶴見岳の活発な噴火活動で荒地や沼地になっており、整備されていなかった。『豊後国風土記』や『万葉集』には、現在の柴石温泉の血の池地獄にあたる「赤湯の泉」や、鉄輪温泉の地獄地帯にあたる「玖倍理(くべり)湯の井」等についての記載がある。『伊予国風土記』逸文には、大国主命が鶴見山麓から湧く「速見の湯」を海底に管を通して道後温泉へと導き、少彦名命の病を癒したという神話が記載されている。771年(宝亀2年)に創祀されたとされる火男火売神社は、鶴見岳の2つの山頂を火之加具土命(ひのかぐつちのみこと)、火焼速女命(ひやきはやめのみこと)の男女二柱の神として祀っており、別府八湯の守り神として信仰を集めている。柴石温泉は平安時代、別府温泉と鉄輪温泉は鎌倉時代には湯治場として利用されていた。浜脇温泉は八幡朝見神社の門前町として栄え、鎌倉中期には大友頼康が日名子太郎左衛門尉清元を温泉奉行とし、朝見川、永石川、流川沿いなどに湧出する温泉が整備されていた。流川の近くにあった楠温泉には元寇の役の戦傷者が保養に来た記録が残っている。鉄輪温泉の開湯は一遍上人によるものとされている。江戸時代には明礬温泉で明礬の生産が始まり、街道沿いの観海寺温泉や堀田温泉や亀川温泉が整備され、瀬戸内各方面からは湯治舟が集まった。特に浜脇温泉と別府温泉は温泉番付では必ず上位に登場するなど、次第にそれぞれの温泉に温泉街が形成され、庶民の温泉湯治が一般的となった。これらの温泉街では湯治生活の必需品として炊事に用いる笊などの竹細工や、櫛などのつげ細工が盛んとなって現在も生産が続いており、工芸品としても発達した別府竹細工は国の伝統的工芸品にも指定されている。明治時代に入り、1871年(明治4年)5月に別府港が完成し、1873年(明治6年)5月に大阪との航路が結ばれた事により別府は次第に人々が集まり、温泉都市へと発展した。1900年(明治33年)5月には、日本で5番目の開業となる路面電車が走り、またその運行の為に日本で2番目となる火力発電所が設置され、その電力で街灯も整備されると別府の中心部流川界隈は夜も不夜城の賑わいを見せるようになる。1911年(明治44年)7月16日には別府駅が開業、1912年(明治45年)5月には観光開発を目的とした大阪商船の1,000トン級客船「紅丸」(くれないまる)が阪神・別府航路に就航し、柳原白蓮ゆかりの赤銅御殿や麻生別荘など財界の大物の別荘も多く建てられるようになった。次第に発展を見せた別府には、海・陸軍の病院(現・国立病院機構別府医療センター、国立病院機構西別府病院)や、九州大学の温泉治療学研究所と付属病院(現・九州大学病院別府病院)、京都大学地球物理学教室附属地球物理学研究所(現・京都大学大学院理学研究科附属地球熱学研究施設)など、豊富な温泉資源を医療や科学に活かす施設も次々に建てられた。そして、別府観光の父油屋熊八の登場により別府温泉の名は全国へと広まった。当時流行の鳥瞰絵師吉田初三郎を重用し、温泉マークや「山は富士 海は瀬戸内 湯は別府」というキャッチコピーを用いた別府温泉の宣伝手法は熊八のアイデアである。さらに、1928年(昭和3年)1月には別府地獄めぐり遊覧バスを運行し全国初の女性バスガイドの案内でまわる地獄めぐりは大人気となり、熊八の手腕で集客力の高まった別府温泉では、1937年(昭和12年)3月には、別府国際温泉観光大博覧会が開催された。また、1929年(昭和4年)から1940年(昭和15年)までの間、旧日本海軍の連合艦隊がたびたび入港した。1933年(昭和8年)の記録では、2月9日に「鳥海」「摩耶」「高雄」「愛宕」など1万トン級の最新鋭重巡洋艦を中心とする第二艦隊29隻が、さらに2月21日には第一艦隊旗艦「陸奥」以下35隻が別府湾に停泊し、沖合にずらりと並んだ艦船から上陸してくる延べ何万人もの将兵で別府の街は海軍一色となった。戦災に遭うこと無く終戦を迎えた別府には、戦後進駐軍が駐留し、高度経済成長期には新婚旅行や修学旅行客などで最盛期を迎えた。1950年(昭和25年)には、国際観光文化都市の第1号として国際観光温泉文化都市に指定され、1957年(昭和32年)には別府温泉観光産業大博覧会が開催されると、別府競輪場や別府タワー、鶴見岳の別府ロープウェイ、九州横断道路(やまなみハイウェイ)が開業するなど観光施設の開発も相次ぎ、宿泊施設も急激に増大していった。当時、大阪との間を結ぶ瀬戸内航路は最盛期を迎え、1960年(昭和35年)には「瀬戸内海の女王」とも呼ばれたくれない丸が就航したのをはじめ、3000トン級クルーズ客船が、最大時6隻体制で新婚旅行客などを別府へと運んだ。鉄輪、明礬、柴石の各温泉は、1985年(昭和60年)3月19日に国民保養温泉地に指定されるが、別府の観光客は1976年(昭和51年)をピークにすでに減少に転じており、1980年代までは1200万人前後で推移したものの、1990年代のバブル崩壊後には1000万人台にまで落ち込んだ。観光客減少の原因としては、国内各地でのテーマパークの開園や海外旅行の一般化等の国民の余興と娯楽の多様化、団体旅行から個人旅行への変化等が挙げられている。しかしながら、これだけの多様な温泉群が密集する地区は全国的にも珍しく、平成になって韓国などの日本国外からの利用客が増加した。さらに、人口10万人あたりの留学生数が日本一の大分県の中でも、立命館アジア太平洋大学などを抱える別府市は特に留学生が多く、アジアのみならずヨーロッパやアフリカ各地からの留学生も、別府特有の共同温泉を中心とした地域コミュニティにも積極的に溶け込んで生活している。そしてこのような国際都市としてのメリットを活かして、欧米からの外国人個人旅行者の受け入れを本格化する取り組みを進めている。江戸時代、幕府の専売品である明礬(湯の花)の生産をほぼ独占的に行っていた別府では、1925年(大正14年)には日本で最初の地熱発電が行われ、戦前は医療へも温泉が役立てられ、戦後になっても温泉資源の活用に多角的に取り組んできた。1952年(昭和27年)4月に設立された大分県温泉熱利用農業研究所(現・花き研究所)では、野菜・花きの温泉熱利用による栽培、育種の研究が行われ、その他にも温泉による魚の養殖や、杉乃井ホテルでは消費電力の約半分を敷地内の地熱発電でまかなっている。最近では別府の多彩な泉質の源泉から取れる色とりどりの温泉泥の利用を、大分大学医学部、広島大学、日本文理大学、パドヴァ大学(イタリア)、大分県産業科学技術センターなどが共同で研究し、温泉泥美容ファンゴティカが開発されるなどしている。このように別府において温泉資源の利活用が広範囲に及ぶようになったのは、明治期の上総掘りによる温泉掘削技術の発達によるところが大きい。1888年(明治21年)には内湯を備える宿はわずか14軒であったが、明治40年代には一気に1,174軒にも急増した。温泉都市となった現在、市内には各町内ごとに住民がお金を出し合って設けた共同温泉が数百あるといわれており、自家源泉を持っている個人宅も少なくない。今では上総掘りから掘削機械に置き換わっているが、現在も複数の温泉供給会社が源泉数、湧出量ともに日本一の別府温泉を支えている。別府温泉では2006年(平成8年)8月8日8時8分8秒に有志が「別府八湯独立宣言」を発表し、それぞれの温泉の魅力の発信に取り組んだ結果、「別府八湯」の名が広く知られるようになった。近年では、行政による老朽化していた市営温泉のリニューアルや街並み整備などの一方、別府アルゲリッチ音楽祭、別府八湯温泉道、別府八湯温泉泊覧会(オンパク)など地域の活性化を図るため、資源や人材を活用した新しい模索や試みも行われている。特に、オンパク的地域活性化の手法は、全国の同じような悩みを持つ観光地へと輸出され、各地で成果を上げつつある。そんな中、2008年(平成20年)7月9日付で『別府市中心市街地活性化基本計画』が内閣総理大臣の認定を受けたことで、別府温泉(北浜)界隈では、空き店舗を改装した交流施設「platform」がいくつか整備され、一部には別府竹細工の職人工房(platform 07)、セレクトショップ(platform 04)などの観光交流拠点が誕生している。さらに、これらの「platform」をメイン会場に、2009年(平成21年)4月11日から6月14日までの間にトリエンナーレ形式で第1回の別府現代芸術フェスティバル 混浴温泉世界が開催されている。温泉都市として発達し、戦災も免れた別府には、永瀬狂三設計の京都大学地球物理学研究所(現・京都大学大学院理学研究科附属地球熱学研究施設)本館や、吉田鉄郎設計の別府市公会堂(現・別府市中央公民館)、別府郵便局電話事務室(現・別府市児童館)など、良質な近代建築が今も残っており、観光ボランティアガイドが別府八湯の各エリアの街の魅力を紹介しながら案内する別府八湯ウォークが12コースあり、コースによっては毎日まち歩きツアーが開催されているものもある。また、1995年(平成7年)にコンベンション施設ビーコンプラザを整備している別府は国際会議観光都市の認定も受けており、2007年(平成19年)12月には第1回アジア太平洋水サミットが、2010年(平成22年)8月には 2010年日本APECの成長戦略ハイレベル会合が開催された。別府市指定文化財一覧、大分県指定文化財一覧、温泉関連の文化財一覧も参照のこと。
出典:wikipedia
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