上毛野氏(かみつけのうじ/かみつけぬうじ)は、「上毛野」を氏の名とする氏族。第10代崇神天皇皇子の豊城入彦命を祖とする皇別氏族で、「上毛野君(公)」のち「上毛野朝臣」姓を称した。『日本書紀』には豊城入彦命に始まる氏族伝承が記載されており、上毛野氏以外にも伝承を共有する諸氏族がある。本項では、それらの氏族全般についても解説する。氏の名の「上毛野」に見えるように、古代に上毛野地域(現・群馬県)を拠点とした豪族である。「毛野(けの/けぬ)」とは古代の群馬県・栃木県周辺を指す地域名称で、現在の北関東に比定されている。毛野地域のうち「上毛野」は「上野(上野国)」に転じ現在の群馬県に相当し、「下毛野」はのちに「下野(下野国)」に転じ現在の栃木県に相当する。群馬県には数多くの古墳が築かれ、古代日本において有数の勢力であったと考えられている(詳しくは「毛野」を参照)。『日本書紀』には、崇神天皇皇子の豊城入彦命に始まる独自の系譜伝承が記されている。その中で、中央貴族が毛野地域に派遣され、その経営に携わったと伝える。ただし、実際のところ在地豪族か中央派遣氏族かは明らかとなっていない。また同書には上毛野氏の蝦夷征伐・朝鮮交渉従事の伝承があり、対外関係に携わった氏族であることも示唆される。大化以後には、毛野出身の氏族として「東国六腹朝臣」と総称される上毛野氏・下毛野氏・大野氏・池田氏・佐味氏・車持氏ら6氏が、朝廷の中級貴族として活躍を見せた。『新撰姓氏録』にはこれら6氏族が上記の伝承を共有したことが見えるが、その他にも多くの氏族の伝承共有が同書に見え、その数は合計で40氏弱にも及ぶ。それら関係氏族の経緯・広がりや毛野との関わりについては、未だ明らかとはなっていない。8世紀後半以後は、その東国出身氏族とは別に渡来系氏族が「上毛野」を仮冒し、外交交渉や学問の素養で名を表して以後の氏族における中心をなした。『日本書紀』には第10代崇神天皇が皇子の豊城命(豊城入彦命/豊木入日子命)に東国統治を命じたと記載するが、その豊城命について「上毛野君・下毛野君の祖」であると付記している。なお豊城入彦命が上毛野君・下毛野君の祖である旨は、『古事記』にも記されている。平安時代初期の弘仁6年(815年)『新撰姓氏録』の上毛野朝臣(皇別 右京)条には「崇神天皇皇子の豊城入彦命の後」と記載されており、豊城入彦命の後裔と公称した。また『先代旧事本紀』「国造本紀」では、崇神天皇の御世に豊城入彦命孫の彦狭島命が初めて東方十二国を平定した時に上毛野国造に封ぜられたと記載されており、上毛野氏が国造の任にあったと推測されている。『日本書紀』には、豊城入彦命(とよきいりびこのみこと、豊木入日子命/豊城命とも)に始まる以下の氏族伝承が記載されている。『先代旧事本紀』「国造本紀」では、次の国造が上毛野氏関連として記載される。()内は現在の都道府県における相当領域。『日本書紀』では、7世紀中葉(大化前後)を境として伝承から史録として記載されるようになる。内容に関しても、それまでは毛野を舞台にしたものであったが、中央が舞台となり東国との関わりをうかがえる記載は少なくなる。7世紀には、白村江の戦いにおいて、倭国主力軍の将軍として上毛野君稚子が朝鮮半島に派遣され一定の戦果を収めたたほか、三千は『帝紀』と上古諸事の記定に携わり、いずれも中央貴族として活躍した。天武天皇13年(684年)には上毛野朝臣、下毛野朝臣、佐味朝臣、池田朝臣、車持朝臣、大野朝臣のいわゆる「東国六腹朝臣」が「朝臣」姓を賜り、中央の中級貴族として活躍した。また、下毛野古麻呂は藤原不比等らとともに『大宝律令』の編纂に関わり、のちの三戒壇の1つの下野薬師寺を氏寺として建立したとも伝えられる。8世紀に入ると、初期には陸奥守に小足・安麻呂、陸奥按察使に広人、後半には出羽介・出羽守に馬良、陸奥介に稲人が任じられたように、蝦夷に対する活動が行われた。東国六腹朝臣全体においても、下毛野石代が副将軍、大野東人が陸奥按察使兼鎮守府将軍、池田真枚が鎮守府副将軍に任じられた。蝦夷対策を担当した点については、後世に陸奥国の豪族に「上毛野陸奥公」や「上毛野胆沢公」等の賜姓がなされていること、俘囚の多くが上毛野氏系の部民に多い「吉弥侯部」を名乗ったことからもうかがわれる。しかしながら、広人が蝦夷の反乱に遭い殺害され、宿奈麻呂が長屋王の変に連座して配流された後は没落した。以後は、代わって田辺史系の上毛野氏(後述)が中核を占めるに至った。平安時代初めから中頃にかけては、近衛府の下級官人・舎人として名が見られる。この時期には下記の渡来系氏族が中央官僚として活躍しているが、在地豪族氏族は宮廷武官として台頭したものと考えられている。渡来系の上毛野氏は、豊城入彦命(第10代崇神天皇皇子)五世孫の竹葉瀬(たかはせ)を祖と称する皇別氏族。「上毛野君(公)」のち「上毛野朝臣」姓を称した。出自『新撰姓氏録』の上毛野朝臣(皇別 左京)条には「豊城入彦命五世孫の多奇波世君の後」と記すとともに「天平勝宝2年(750年)に田辺史から上毛野公と改姓した」と注記されている。この多奇波世君(たかはせのきみ:竹葉瀬に同じ)の後裔と記される氏族は他にも住吉朝臣・池原朝臣・桑原公・川合公・商長首があり、これらの氏族は渡来系のグループと解されている。『日本書紀弘仁私記』序においても「諸蕃雑姓」に注として、田辺史・上毛野公・池原朝臣・住吉朝臣4氏が百済からの渡来人でありながら竹合(竹葉瀬に同じ)後裔を仮冒したことが記載されている。歴史前述のように天平勝宝2年(750年)に「上毛野君」を賜姓され、弘仁元年(810年)に「上毛野朝臣」を賜姓された。以降は朝廷の要職に就き、東国系氏族に代わり上毛野氏の中核をなした。『古代豪族系図集覧』に記される系図(ただし後世の潤色も多いので注意)。系図参考伝承『日本書紀』『新撰姓氏録』『先代旧事本紀』に記載された、豊城入彦命の子孫伝承を有する人物。平安時代初期、弘仁6年(815年)の『新撰姓氏録』に記載される氏族のうち、以下の氏族が上毛野氏の関係氏族として指摘されている。これらの氏族は、出自により「東国六腹朝臣系」「渡来系」「紀伊・和泉系」の3グループに分けうると考えられており、本項でもその分類で記載する。以下は原典に準拠したもので、始祖の表記・出自には他の文献との異同があるので注意。また、「種別」は出自による皇別・神別・諸蕃・未定雑姓の別を、「本貫」は戸籍上の登録地を意味する。このほか、奈良原氏(赤城神社東宮社家)・真隅田氏(赤城神社西宮社家)は、ともに上毛野氏後裔という。『古事記』『日本書紀』では上毛野氏に関して多彩な伝承が記述されるが、7世紀中葉(大化前後)を境として唐突に史録として記載されるため、伝承と史録との間には大きな溝がある。史録の部分からは毛野との関わりをうかがえる記載は少なく、この間をどう扱うかが氏族を把握するための鍵となっている。毛野地域内には、豊城入彦命を始めとした『日本書紀』の伝承にある人物の陵墓と伝わる古墳が多くあり、伝承に何らかの背景があったことが指摘されており、その中で、毛野の地域づくりが東国経営の拠点と位置づけられ、それを世襲的に任された王族がいたことも示唆される。ただし実際のところ、毛野の豪族が在地豪族であったか中央派遣氏族であったかは明らかとなっていない。毛野地域(群馬県・栃木県南西部)は、古墳時代に多くの古墳が築かれたことが知られる。特に上毛野地域(群馬県)においては、東日本最大の太田天神山古墳(群馬県太田市、全長210mで全国26位)を始めとして、全長が80mを越す大型古墳が45基、総数では約1万基もの古墳が築かれている。4世紀初頭には東海地方由来の前方後方墳が築かれ、同地方由来の土器が使用されていた。しかしながら4世紀中葉以降は畿内由来の前方後円墳に移行し、畿内の石工による石棺の築造も認められる。これらから毛野では首長連合政権が形成されたと見られ、少なくとも5世紀前半以降には畿内の豪族と同盟にあり、ヤマト政権内部で極めて重要な位置を占めたと考えられている。5世紀中頃には東日本最大の太田天神山古墳が築かれ、一帯で最大規模を誇っていた。この太田天神山古墳(群馬県太田市)やお富士山古墳(群馬県伊勢崎市)には、ヤマト王権の王陵に見られる長持形石棺が使用されている(詳しくは「毛野」を参照)。後世の上毛野氏の東国六腹朝臣における盟主的立場から上毛野氏と毛野政権との関係が指摘されるが、この当時にいた豪族の詳細は明らかではない。6世紀後半からは、地域内の各地に大型古墳の林立が顕著となる。これら各地に豪族が割拠していたと見られ、上毛野氏の本拠地としては『続日本紀』の「上野国勢多郡小領」の文言や赤城信仰の中核である赤城神社の存在を基としてと見るのが定説とされ、その地にある大室古墳群(群馬県前橋市)が注目されている。一方、7世紀に入っても大型の方墳が築かれ続けたに本拠地を求める説もある。この地には山王廃寺(放光寺)があり関係性が指摘されるほか、後世には上野国府が設置されることとなる。3グループのうち、「東国六腹朝臣」とは上毛野氏、下毛野氏、大野氏、池田氏、佐味氏、車持氏の総称で、いずれも天武天皇13年(684年)に八色の姓において「朝臣」の姓を授けられた。「東国六腹朝臣」の名称自体は『続日本紀』の1条に記載されるのみであるが、その中で池原・上毛野2氏の出自が豊城入彦命であること、豊城入彦命の子孫である「東国六腹朝臣」は居地によって姓と氏を得たことが記載されている。東国六腹朝臣の特質として、畿外出身ながら「朝臣」という高いカバネの取得、国史編纂・律令撰定への参画、対朝鮮・対蝦夷政策への従事が挙げられる。そしてこれら6氏は各々独自の始祖を持っていたことが『新撰姓氏録』からわかる。また、渡来系氏族とは田辺史ら諸氏族が仮冒したことによるもので、その旨は『新撰姓氏録』の上毛野朝臣(皇別 左京)条や『日本書紀弘仁私記』序での「諸蕃雑姓」の注に記されている。これらの氏族はいずれも多奇波世君(竹葉瀬)を始祖と称することが特徴として挙げられる。3つ目の紀伊・和泉系氏族とは、本貫を紀伊・河内・和泉等とする氏族で、東国六腹朝臣グループとの重複も見られる。また、このグループにのみ八綱田命の記載が見られることや、皇別を称しながら未定雑姓に組み込まれた氏族があることも特徴である。これらに関して、豊城入彦命の母が紀伊の豪族出身であったことに着目し、第3グループを氏族の発生地と見た以下のモデルが提唱されている。また、上毛野氏が対朝鮮で活躍する過程で渡来してきたのが第2グループであろう、と考察が加えられる。ただしモデルには不明な点も多く、実態の解明には更なる考証が必要とされる。注釈原典出典百科事典文献
出典:wikipedia
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