フゴッペ洞窟(フゴッペどうくつ)とは、北海道余市町栄町にある続縄文時代の遺跡。日本海の海岸から南方約200メートルの平地に立地し、通称「丸山」と呼ばれる砂岩質よりなる小丘陵の東方に面した岩陰遺跡である。1950年(昭和25年)、札幌から海水浴にきた当時中学生の大塚誠之助が発見、北海道札幌南高等学校で郷土研究部に属していた兄の大塚以和雄に知らせたことにより一躍有名になった(発見者が中学生であるとも、高校生であるともいわれるのはこのためである)。正式な発掘調査は1951年(昭和26年)および1953年(昭和28年)に実施され、考古学・人類学・地質学からなる調査団(団長は北海道大学教授の名取武光助)が編成された。北海道札幌南高等学校郷土研究部も調査に参加している。遺跡の現状は、奥行が約5メートル、問口が約4メートル、高さは約5メートルである。壁面のいたる所に原始的な図像が陰刻されている。図は200以上あり、人物や動物、船などを象徴したものと推定されるものが多く、他に列点もあり、呪術的な性貭を有するものと考えられている。アムール文化との関連性が言われているが詳細は不明である。洞窟には厚さ約7メートルの遺物包含層があり、薄手の土器(続縄文式土器)、石器、骨角器等が出土している。また、貝や動物の骨も見つかっており、それによれば現在、遺跡周辺に生息しているものとの違いはみられなかった。 1953年(昭和28年)11月14日、国の史跡に指定された。1972年(昭和47年)以降現在にいたるまで、刻画は、カプセル方式の施設により保護・展示され、一般に公開されている。「フゴッペ洞窟」ではなく「フゴッペ遺跡」と呼ばれる場合には、昭和2年に鉄道工事中に発見された古代文字様の壁画と石偶をあらわす場合があるので、混同しないよう注意が必要である。戦前に発見されたフゴッペの遺跡は『小樽新聞』昭和2年11月14日によると、鉄道工事作業員の宮本義明によって発見された。鉄道敷設に際して、フゴッペの丸山を掘削して、2つに分けたのだが、その壁面に古代文字のような壁画と石偶のようなものが出現し、話題となった。違星北斗の論文は、この「古代文字」について論じたものである。この古代文字に関しては、小樽高等商業学校の西田彰三教授によって「この遺跡はアイヌのものである」と発表されたが、アイヌ出身である違星北斗による「この遺跡はアイヌのものではない、現代人によるニセモノではないか」という反論が、同じく小樽新聞に掲載された「疑ふべきフゴツペの遺跡」である。小樽文学館の展示物によると、『小樽新聞』では発見は大正14年であるとなっているようだが、昭和2年の間違いであろうと思われる。戦前の『余市郷土誌』では周辺の農夫が客土用の土を採取している際に発見となっているようだが、これも疑わしい。北斗の「フゴッペの遺跡」と国の史跡に指定された「フゴッペ洞窟」は厳密にいえば異なるものであるが、北斗の論文には、遺跡の場所・函館本線からの距離・周囲の状況が明示されており、まさしく現在の「フゴッペ洞窟」の裏側の壁面であり、2つの遺跡にまったく関連性がないとは考えにくい。現在、戦前のフゴッペの壁画は現存しない。違星北斗同様、金田一京助も戦前のフゴッペ壁画がニセモノであると断定し、昭和天皇に尋ねられた際にも知人のアイヌが少年時代に描いたイタズラ書きであると伝えたという。そのためか、適切な保存処置も行われず、朽ちるがままにされてしまったのである。
出典:wikipedia
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