萩風(はぎかぜ)は、日本海軍の駆逐艦。陽炎型駆逐艦の第17番艦である。1942年6月のミッドウェー海戦では空母加賀の乗組員を救助、赤城(南雲機動部隊旗艦)を雷撃で処分した。1943年8月のベラ湾夜戦で戦没した。マル4計画、仮称第113号艦として浦賀船渠で1939年(昭和14年)5月23日起工。同造船所では、萩風のほかに5隻の陽炎型(不知火、早潮、時津風、浜風、秋雲)を建造した。1940年(昭和15年)2月23日、仮称第113号艦は「萩風」(ハギカゼ)と命名された。同日附で姉妹艦嵐や敷設艦津軽等も命名されている。萩風は同年6月18日に進水し、11月15日附で井上良雄中佐(11月1日まで吹雪型駆逐艦漣艦長)は萩風の艤装員長に任命される。同時期、萩風艤装員事務所を設置。1941年(昭和16年)3月31日竣工。萩風艤装員事務所を撤去。横須賀鎮守府籍。同日附で萩風は陽炎型16番艦嵐と共に、新たに編制されたばかりの第4駆逐隊に所属することになった。第4駆逐隊司令は佐藤寅治郎大佐。また井上艤装員長も正式に萩風駆逐艦長に任命されている。佐藤司令は司令駆逐艦を嵐に指定した。4月28日、萩風は1日だけ司令駆逐艦となる。6月18日、第4駆逐隊司令は佐藤大佐から有賀幸作大佐に交代した。有賀司令は、頻繁に司令駆逐艦を変更。萩風は7月9日、8月1日から8月16日、8月19日と第4駆逐隊司令駆逐艦に指定された。10月上旬、四国沖での演習中に駆潜艇を誤射、井上艦長は「安全なる航海を祈る」と信号を送った。10月31日、第4駆逐隊に陽炎型15番艦野分、18番艦舞風が編入され定数4隻となる。南方方面へ移動するため豊後水道を南下中、第4駆逐隊は試験航海中の大和型戦艦1番艦大和とすれ違った。太平洋戦争開戦時、陽炎型新鋭艦4隻(野分、嵐、萩風、舞風)は引き続き第4駆逐隊(司令有賀幸作大佐:司令駆逐艦嵐)を編制し、第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将:旗艦那珂)に所属した。さらに南方方部隊本隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官:旗艦愛宕)に編入され、第四戦隊(愛宕、高雄、摩耶)、第三戦隊(金剛、榛名)等と共に南方作戦を支援する。当時の第4駆逐隊は愛宕(南方部隊本隊)と行動を共にしており、第四水雷戦隊本隊指揮下での作戦行動はほとんどなかった。1942年(昭和17年)2月下旬以降、第4駆逐隊第1小隊(嵐、野分)は第四戦隊(愛宕、高雄、摩耶)と共にジャワ島南方に進出して掃討作戦を実施。第4駆逐隊第2小隊(萩風、舞風)は南雲機動部隊警戒隊としてセイロン島沖海戦に参加する。同海戦中の4月9日に赤城(機動部隊旗艦)がイギリス軍爆撃機9機に奇襲された際、萩風は咄嗟に対空射撃を実施、のちに『あの時爆弾が赤城に命中していた方が目が醒めたのでは』と語られたという。4月14日、シンガポール沖で南雲機動部隊は分割され、陽炎型3隻(秋雲、萩風、舞風)は第五航空戦隊の空母2隻(翔鶴、瑞鶴)を護衛して台湾の馬公市に向かった。馬公着後、五航戦の護衛を第27駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)に引き継ぎ、日本本土へむかった。五航戦と第27駆逐隊は、このあと5月上旬の珊瑚海海戦に参加している。内地に帰還した後、5月5日附で井上良雄(萩風艦長)は退任。後任として岩上次一中佐(4月15日まで吹雪型駆逐艦敷波艦長)が萩風駆逐艦長に任命される。第4駆逐隊は南雲機動部隊警戒隊(旗艦長良)に所属し、第10駆逐隊(秋雲、夕雲、巻雲、風雲)、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)と共にミッドウェー海戦に参加した。6月5日、南雲機動部隊はアメリカ軍機動部隊艦載機の空襲を受け、まず空母3隻(赤城、加賀、蒼龍)が被弾炎上した。第4駆逐隊第2小隊(萩風、舞風)は米潜水艦ノーチラス("USS Nautilus, SF-9/SS-168")を追い払いつつ、加賀の乗員を救助した(加賀に不発魚雷1本命中)。加賀の沈没後、第2小隊(萩風、舞風)は第4駆逐隊第1小隊(嵐、野分)と合流、空母赤城の救援に加わった。日の出直前、第4駆逐隊(嵐-野分-萩風-舞風の単縦陣)は赤城を雷撃にて処分した。酸素魚雷各艦1本を発射、魚雷命中後の赤城は間もなく沈没した。その後、第4駆逐隊は山本五十六連合艦隊司令長官が座乗する戦艦大和以下主力艦隊と合流、萩風は戦艦長門に加賀生存者を移乗させた。また直後のアリューシャン攻略作戦を支援しつつ、アメリカ軍機動部隊出現に対処するため連合艦隊は南雲機動部隊残存部隊や攻略部隊から艦艇を引き抜き、北方部隊(第五艦隊)を増強する。第4駆逐隊は北方海面に進出し、第四航空戦隊(司令官角田覚治少将:空母龍驤、隼鷹)等と合流して作戦に従事。第二機動部隊(第一空襲部隊《龍驤、隼鷹、高雄、潮、漣、曙、浦風、東邦丸》、第二空襲部隊《瑞鶴、瑞鳳、摩耶、嵐、野分、萩風、舞風、富士山丸》)として行動したが、米艦隊出現の徴候はなく、作戦中止にともない7月上旬以降内地へ戻った。7月14日附で艦隊の編制が大きくかわり、第4駆逐隊は第十戦隊(司令官木村進少将)に編入された。軽巡長良を旗艦とする第十戦隊は陽炎型駆逐艦もしくは夕雲型駆逐艦で編制され、第4駆逐隊の他に第10駆逐隊(秋雲、夕雲、巻雲、風雲)、第16駆逐隊(雪風、時津風、天津風、初風)、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)という陣容であった。8月7日、アメリカ軍はガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸、ガダルカナル島の戦いがはじまった。8月16日午前5時、陽炎型駆逐艦6隻(指揮官/有賀第4駆逐隊司令:嵐《司令駆逐艦》、萩風、陽炎、谷風、浦風、浜風)は陸軍一木支隊約900名(指揮官一木清直大佐)を分乗させトラック泊地を出撃。8月18日21時以降ガダルカナル島タイボ岬へ揚陸した。この部隊は21日イル川渡河戦で全滅している。第17駆逐隊3隻(谷風、浦風、浜風)はラビの戦い(「レ」号作戦)に従事するためガダルカナル島海域を離脱してラバウルに向かった。陽炎型3隻(嵐、萩風、陽炎)は警戒艦として、ひきつづきルンガ泊地附近を行動した。8月19日、萩風、陽炎はサボ島周辺でアメリカ軍魚雷艇数隻を砲撃で撃沈、萩風は1隻を拿捕して調査したあと自沈させた。日中、B-17爆撃機の空襲を受け艦尾(三番砲塔とも)に被弾を受け、舵故障を起こした。萩風は嵐の援護下でガ島の浅瀬に停泊、舵を中央で固定した。有賀司令は陽炎にガ島海域警戒任務を引き継がせると、2隻(嵐、萩風)をトラック泊地へ回航させた。泊地到着直前の23日午後1時、嵐、萩風は山本五十六連合艦隊司令長官座乗の戦艦大和、空母春日丸(大鷹)、第7駆逐隊(漣、潮、曙)と遭遇した。9月8日附で岩上中佐(萩風艦長)は陽炎型11番艦浦風の駆逐艦長へ転任。萩風駆逐艦長には畑野健二少佐(睦月型駆逐艦1番艦睦月沈没時駆逐艦長)が任命された。10月1日、左舷推進軸を損傷していた萩風は日本本土へ回航された。7日、右推進器の切損により航行不能となり、朝潮型駆逐艦山雲に護衛され8日に横須賀港へ戻った。到着後、翌1943年(昭和18年)1月22日まで浦賀船渠で修理に従事する。この間、12月1日附で畑野(萩風)艦長は夕雲型駆逐艦8番艦清波の艤装員長に任命されている。清波艤装員長の職務は12月28日附で有馬時吉中佐に交代した。また第4駆逐隊僚艦野分は12月7日の鼠輸送中に損傷、嵐は昭和18年1月15日の鼠輸送作戦で損傷、舞風は2月4日ガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)従事中に損傷し、それぞれ内地帰投と修理を余儀なくされた。1943年(昭和18年)2月20日、第4駆逐隊司令は有賀幸作大佐から杉浦嘉十大佐に交代する。2月24日、杉浦司令は司令駆逐艦を嵐から萩風に変更した。修理を終えた萩風は夕雲型駆逐艦7番艦大波と共に空母冲鷹を護衛して2月28日に横須賀を出港し、トラックへ進出した。3月8日、萩風は第27駆逐隊の駆逐艦夕暮と共に冲鷹の横須賀回航を護衛する。横須賀帰投後の2隻(萩風、夕暮)は戦艦金剛の内海西部回航を護衛した。3月下旬は、空母翔鶴及び第50航空戦隊(鳳翔、龍鳳)の訓練に協力。28日、トラック泊地より内地へ帰投中の第七戦隊部隊(鈴谷、熊野、浦風)掩護に派遣された。4月1日、第三戦隊司令官栗田健男中将指揮下の各艦(金剛、榛名、浦風、萩風)は呉を出発。6日トラック泊地到着。その後、同泊地とラバウル方面で輸送任務に従事した。4月下旬、トラック泊地にあった第15駆逐隊(親潮、黒潮 、陽炎)、第24駆逐隊(海風)、第4駆逐隊(萩風)は4月24日附で南東方面部隊に編入され、中部ソロモン方面の輸送作戦に従事することになった。各艦は26日にラバウルへ到着して増援部隊に編入、作戦のためブインへ進出した。2隻(萩風、海風)は4月29日の第二次コロンバンガラ島輸送作戦、5月4日第四次輸送任務に従事した。ところが第五次輸送作戦に従事中の第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)はアメリカ軍が敷設した機雷によって大破、さらに航空攻撃を受けて3隻とも沈没した。第六次作戦のため待機中の2隻(萩風、海風)は急遽出動。コロンバンガラ島を一周して第15駆逐隊を捜索し、内火艇1隻を発見する。乗船中の陽炎先任将校から第15駆逐隊3隻沈没と生存者救助済の連絡を受け、2隻(萩風、海風)は引き返した。第15駆逐隊の全滅によって鼠輸送(駆逐艦輸送作戦)は5月下旬まで中止されている。なお陽炎の除籍にともない陽炎型駆逐艦は『不知火型駆逐艦』に改定された。5月17日、萩風は第四水雷戦隊(司令官高間完少将:旗艦長良)に編入された。煙突や短艇の標識塗装に変化はない。6月5日、萩風は夕雲型駆逐艦清波、吹雪型駆逐艦潮と共に空母2隻(雲鷹、冲鷹)の横須賀回航を護衛する事になった。6月5日トラックを出発し、本土へ向かう。6月10日(横須賀到着前日)、萩風は第四水雷戦隊の指揮下を離れた。同日夕刻、第27駆逐隊(有明、夕暮)に護衛されていた空母飛鷹が米潜水艦トリガー("USS Trigger, SS-237")の雷撃で航行不能となった。横須賀へ回航中の軽巡五十鈴が被雷現場におもむき曳航救難を開始。6月11日、横須賀停泊中の扶桑型戦艦2番艦山城と萩風にも飛鷹曳航のため出撃命令が下されるが、飛鷹側は曳航状態良好のため「山城の曳航は必要なきものと認む」と発信した。6月12日、飛鷹隊は横須賀に到着する。6月16日附で萩風駆逐艦長は畑野少佐から馬越正博少佐に交代した。7月10日、第三艦隊司令長官小沢治三郎中将が指揮する空母4隻(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、冲鷹)、重巡洋艦3隻(利根、筑摩、最上)、軽巡洋艦2隻(大淀、阿賀野)、水上機母艦「日進」、駆逐艦部隊(第4駆逐隊《嵐、萩風》、第17駆逐隊《磯風》、第61駆逐隊《涼月、初月》、夕雲型駆逐艦《玉波》)は横須賀を出撃。各艦は、マーシャル諸島やソロモン諸島派遣予定の陸軍部隊や軍需物資も搭載していた。7月15日、暗号解読や僚艦からの通報により、米潜水艦ティノサ("USS Tinosa, SS-283")とポーギー ("USS Pogy, SS-266")がトラック諸島近海で小沢機動部隊を待ち伏せていた。ティノサも距離3500mで魚雷4本を発射するが回避され、小沢艦隊は被害なくトラック泊地に到着した。 7月19日、大型艦5隻(利根、筑摩、最上、大淀、日進)と第十戦隊(阿賀野、萩風、嵐、磯風、涼月、初月)は更にトラック泊地を経てラバウルへ進出した。7月21日、第十戦隊司令官大杉守一少将は阿賀野から一時的に萩風へ移乗、旗艦を変更した。嵐は利根、萩風は筑摩、磯風は大淀に接舷しそれぞれ補給を受けた。準備完了後、不知火型3隻(萩風、嵐、磯風)は、中戦車22両・野砲16門・歩兵三個大隊・各種軍需物資を満載した水上機母艦日進を護衛してラバウルを出撃、ブーゲンビル島のブインへと向かい、第61駆逐隊(涼月、初月)も続けて出港し、ブカ島へ向かった。だが、ブイン輸送隊はブイン直前でアメリカ軍機70機以上の攻撃を受け日進が撃沈された。3隻(萩風、嵐、磯風)はブインに約750名の兵員を輸送したのち日進の沈没現場に戻り、海軍92名・陸軍81名を救助した。日進の沈没は3月3日ビスマルク海海戦の再現になってしまった。ラバウルに帰投後、第十戦隊旗艦は萩風から阿賀野に戻る。ここで第4駆逐隊(萩風、嵐)のみ南東方面部隊・外南洋部隊・増援部隊に編入され、ソロモン諸島に残ることになった。外南洋部隊増援部隊はニュージョージア島の戦いにともなうクラ湾夜戦やコロンバンガラ島沖海戦で旗艦2隻(秋月型駆逐艦新月《第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将戦死、三水戦司令部全滅》、川内型軽巡洋艦神通《第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将戦死、神通艦長佐藤寅次郎少将戦死、二水戦司令部全滅》)、駆逐艦多数(長月、初雪、清波、夕暮)を喪失し、他の駆逐艦も軒並み損傷、着任したばかりの第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐が軽巡川内より指揮を執っていた。萩風、嵐以外の艦(利根、筑摩、最上、阿賀野、大淀、磯風、涼月、初月)はトラックへ帰投したが、その際磯風は魚雷と弾薬を2隻(萩風、嵐)に供与している。7月25日、第4駆逐隊司令指揮下の駆逐艦3隻(萩風、嵐、時雨)はサンタイサベル島レカタ輸送を実施、揚陸に成功して28日夕方ラバウルへ戻った。8月1日、駆逐艦4隻(萩風、嵐、時雨、天霧)はコロンバンガラ島輸送作戦を実施中、アメリカ軍魚雷艇15隻と交戦する。夜間水上戦闘の最中、警戒隊天霧はジョン・F・ケネディ中尉を艇長とする魚雷艇「」を体当たりによって撃沈した。ニュージョージア島での戦局は悪化する一方であり、日本軍はさらなる増援部隊を投入する。前述のとおり天霧はアメリカ軍魚雷艇との衝突により損傷したため、白露型駆逐艦江風(第24駆逐隊)と任務を交替した。8月5日、ブインおよびコロンバンガラ島への輸送のため、軽巡川内と第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐指揮下の駆逐艦4隻(萩風、嵐、江風、時雨)はラバウルを出撃した。伊集院司令官座乗の川内は陸兵450名と物資130トンをブインへ、第4駆逐隊は陸兵950名と物資90トンを搭載していた。また萩風には第三水雷戦隊先任参謀の二反田三郎中佐が川内より乗艦していた。8月6日、コロンバンガラ輸送隊はブインへ向かう川内と分離後、萩風-嵐-江風-時雨の単縦陣を形成し、30ノットを発揮して目的地に近づいた。各艦の開距離は500mだったが、3番艦江風と最後尾時雨の距離は1000mに開いていた。海面には薄い靄がたちこめ、視界は不良だったという日中の時点で輸送隊はアメリカ軍哨戒機に捕捉され、行動を報告されていた。これに対し、日本側は「敵有力部隊策動の恐れあり」程度にしかアメリカ軍の行動を把握しておらず、予定されていた水上偵察機の夜間哨戒も天候不良を理由に実施していない。アメリカ軍は各方面からの情報に依り、日本艦隊を待ち伏せていた。アメリカ軍駆逐艦6隻(指揮官フレデリック・ムースブルッガー中佐:、、、、、)はレーダーを装備しており、日本艦隊に対して先制攻撃を敢行する。米水雷戦隊は24本の魚雷を発射。日本艦隊が米艦隊に気付いた時には次々に魚雷が命中し、江風は轟沈した。第4駆逐隊(萩風、嵐)も被雷して戦闘不能となった。萩風には魚雷2本が命中し、主砲や魚雷発射管は使用不能となったため使用可能の機銃で反撃を実施した。だが2隻は続く米駆逐艦隊の砲撃によって炎上し、嵐は22時10分前後に沈没、萩風も総員退去後の22時18分に沈没した。単縦陣の最後尾にいた第27駆逐隊の白露型駆逐艦時雨(駆逐隊司令原為一大佐)は魚雷攻撃の回避に成功した(2本艦底通過、1本舵命中不発《後日判明》)。つづいて魚雷8本を発射したが米艦隊には命中せず(時雨側は命中と誤認)。次発魚雷を装填して戻ってきたが状況不明のため戦闘継続を断念、生存者の救助を陸上部隊に依頼して戦場を離脱した。その後時雨は川内と合流してラバウルへ向かった。米艦隊は時雨の追跡を打ち切ったのち戦闘海域に戻り、萩風以下沈没艦3隻の生存者を救助しようとしたが、ほとんどの者は救助を拒んだという。戦死者約170名以上。輸送中の陸軍兵合計940名のうち生存者は約120名程であった。生還した第27駆逐隊(時雨)や杉浦嘉十第4駆逐隊司令は、レーダー(電波探信儀)および米駆逐艦部隊新戦法の脅威を各方面に報告。軍務局はキスカ島撤退作戦を終え内地に戻っていた島風型駆逐艦島風(第二水雷戦隊所属)に対し電探射撃について研究を行うよう下令している。杉浦司令は貴重な駆逐艦を輸送任務(鼠輸送)に投入することを避けるよう訴えているが、駆逐艦による輸送作戦は太平洋戦争末期まで常態化することになった。9月4日、杉浦司令は野分に将旗を掲げた。9月15日、ベラ湾夜戦により残存艦2隻(野分、舞風)となった第4駆逐隊に、満潮型駆逐艦山雲が編入され、同隊は3隻(野分、舞風、山雲)となった。第4駆逐隊はトラック島空襲で舞風が撃沈されるまで3隻編制で活動を続ける事になる。馬越(萩風艦長)は日本に戻り、9月10日に軍令部でベラ湾夜戦の様相を報告した。10月1日附で萩風駆逐艦長の職務を解かれ、10月10日より砲艦唐津(旧米国砲艦)艦長に任命される。駆逐艦萩風と嵐は10月15日附で不知火型駆逐艦第4駆逐隊、帝国駆逐艦籍、それぞれから除籍された。
出典:wikipedia
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