乾氏(いぬいし)は日本の氏族のひとつ。土佐の乾氏は3流あり、土佐藩家老格(4,500石)の乾彦作和信の系統と、土佐藩馬廻役(1,000石)乾加兵衛正信の系統、そして、長宗我部氏の旧臣で、山内氏入国以降土佐藩に仕えた宇多源氏流の乾氏の系統である。乾彦作和信の系は、清和源氏美濃土岐支流で、土岐頼貞の四男道謙の子孫、土岐久右衛門重頼が、美濃国池田郡東野村を本拠とし、土岐氏の居城である稲葉山城の北西(乾)の方角であったため名字としたという。乾和宣の子、乾彦作和信、乾備後和三兄弟は、天正6年(1578年)播磨国ではじめて山内一豊に召抱えられる。慶長6年(1601年)「山内」姓を賜う。子孫山内傳、山内彦作は、戊辰戦争の頃旧姓「土岐」に復して、土岐傳、土岐彦作と名乗った。家紋は「丸之内桔梗」。菩提寺は高知の永源寺(旧名乾流寺)。乾加兵衛正信の系は、清和源氏甲斐武田支流の板垣駿河守信方の孫、加兵衛正信を祖と称した。正信の父、板垣弥次郎信憲が改易ののち殺されたため、旧臣北原羽左衛門、都築久太夫らに供奉せられ、籠居して乾氏と改め、天正18年(1590年)10月18日遠江国掛川ではじめて山内一豊に召抱えられた。信憲は不行跡の後に殺害されたため、正信は一般には「信憲の子」というより「板垣信方の孫」として説明されることが多い。この嫡流の10代目の乾退助正形が、戊辰戦争の際に、岩倉具視の言を入れて姓を板垣に復したのが板垣退助である。家紋は「榧之内十文字」。土佐の佐々木支流 乾氏は、佐々木経方の六男行範の支流という。古くは室町幕府に仕え、京都に住した。その子孫で阿波国の三好家に仕え、勝瑞合戦の時に討死した乾兵庫を祖とする。兵庫の子、乾玄蕃は、阿波国の黒土川の合戦で討死し、玄蕃の子を乾次右衛門という。次右衛門に二子あって、長男を乾長右衛門と言い、二男を乾新右衛門正之という。乾正之(新右衛門)は、山内忠豊公の御代、1661年(万治4年)4月13日に初めて土佐藩に召抱えられ、1714年(正徳4年)6月27日死歿した。この正之を初代として明治まで連綿と続く家である。家紋は「八重桔梗」、「丸に鱗」、「丸に算木」、「黒餅に算木」である。同じ土佐藩士であるが、江戸時代を通して上記2つの乾家とは全く縁組などは無く、別家である。乾氏は本姓は宇多源氏で、佐々木経方の六男行範の支流という。古くは室町幕府に仕え、京都に住した。永正8年(1511年)に足利義澄が死去するとこれに仕えていた乾太郎兵衛は京都を去り、摂津国島下郡に住した。孫の乾平右衛門長次の代に池田恒興に仕え、100石を与えられた。以後、池田氏の勢力拡大と共に成長していった乾氏は慶長15年(1610年)に池田忠雄が淡路国6万3,000石の大名に取り立てられた際、家禄を1,400石に加増され、家老職に任じられた。備前岡山転封後も引き続いて家老の座にあり、長次の子・乾直幾は鳥取転封により、家禄を加増され3500石を与えられた。鳥取藩での乾氏は着座家に列し、その後も代々、家老職を勤めた。また、因幡国船岡に陣屋を置き、自分手政治に準ずる土地支配を行うことを認められた。代々の乾氏の中でも6代・乾長孝は学問・武芸に秀でており、家老職にあって、藩政改革を行った功績で知られている。享保3年(1718年)、池田吉泰より1,000石が与えられ家禄4,500石に加増された。寛政10年(1798年)、乾長孝の隠居料500石が与えられ家禄5,000石に加増された。幕末期においても10代・乾徳脩が藩の軍制改革に関わるなどしている。明治2年(1869年)、版籍奉還により船岡の陣屋並びに所領を返還した後は鳥取を離れ、東京に移住した。菩提寺は船岡の乾徳山西来寺(現在は無し)、墓所は船岡の西来寺跡と鳥取の興禅寺の2ヵ所ある。太線は実子、細線は養子。
出典:wikipedia
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