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間宮 (給糧艦)

間宮(まみや)は、日本海軍の給糧艦(運送艦)。その艦名は、樺太の間宮海峡から採られた。給糧艦とは艦艇に食糧を供給する補給艦のことである。八八艦隊計画内で能登呂型給油艦の1艦として予算が成立したが、海軍の強い要望で連合艦隊随伴用の給糧艦が1隻、その予算で建造された。それが間宮である。船体は商船構造とし、設計は川崎造船所に委託。設計は同社がかつて手がけた大阪商船の北米航路向け貨客船はわい丸の設計を手直ししたものであり、就役当時は間宮は世界最大の給糧艦であった。戦時、平時問わず日本海軍の補給の要として活動したが太平洋戦争末期、アメリカの潜水艦の雷撃により沈没した。間宮は純商船式の船体に各種の倉庫・食料貯蔵および製造設備を持ち、平時には艦隊への、戦時には戦地への食料補給が期待された。艦内の最新式の巨大な冷蔵庫・冷凍庫設備で肉、魚、野菜など18,000人の3週間分の食料を貯蔵できた。寄港先現地での調達も行い、屠殺製肉設備もあったため、牛馬を生きたまま積み込んだのちに食肉加工し、保存しておくことも可能だった。またパンなどの一般的な食料だけではなく、アイスクリーム、ラムネ、最中、饅頭などの嗜好品からこんにゃく、豆腐、油揚げ、麩などの日本固有の食品まで多くの加工食品を製造できた。これらの製造のために間宮の艦内には部屋ごとに分かれたキッチンが多数あり、それぞれに腕の立つ専門職人が乗船し、軍属として働いていた。軍属としての職人らの待遇は良かったとされている。大量の食料を扱うことから衛生面においても特別な配慮がなされており、他艦艇においては航海中は入浴・洗濯とも数日に1回、さらに風呂の湯は海水を用いるなど真水の節約に努めていたが、間宮では風呂でも洗濯でも真水をふんだんに用いることができた。間宮が入港すると新鮮な食料が各艦に補給されるため、艦隊の酒保として非常に人気が高く、帝国海軍の中では最も有名な艦だったという。艦内で製造される羊羹は「間宮羊羹」として人気が高く、老舗羊羹店が海軍に納入した羊羹をさばくのに苦労した、などの話が伝わる。運送艦間宮はその性質上、巡航速度が非常に低速であったため艦隊に随伴せず単独に近い航行が多かったが、沈没は前線の将兵の士気に多大な影響を与えることから、駆逐艦側も厳重に護衛を行ったとされる。武装がささやかながら備わっていたが、平時は砲台のみが設置されており、砲本体は取り外し、陸上に保管することで食料等の搭載量を増やす運用を行っていった。食糧補給以外にも訓練時に曳航標的船を搭載したり、分解した水上偵察機などの軍事物資の輸送に従事した。間宮固有の糧食配給艇も数隻搭載。これらの小型艇や物資積込み作業を行うため、上甲板前部に15トン重デリック、後部に20トン重デリックを装備している。医療施設のない小型艦艇の傷病者を受け入れる病院船としての役割も担った。また強力な無線通信設備を搭載し、艦隊の無線検知艦(無線監査艦)としても行動したため、間宮の艦長は通信のベテラン将校が多かったという。泊地に停泊中、当艦の食料供給能力を利用し、士官室を使用して海軍兵学校同窓会の会場として使用されたこともある。1921年(大正10年)10月17日、神戸川崎造船所で加賀型戦艦1番艦加賀が進水した。川崎造船所は直ちに次の船の建造にとりかかる。だが同時期に開催されたワシントン海軍軍縮会議およびワシントン海軍軍縮条約により、1922年(大正11年)2月5日に加賀および天城型巡洋戦艦4番艦愛宕の建造中止が通達される。加賀建造中止命令より5日後の2月15日、建造予定の水雷母艦に長鯨、特務艦2隻に隠戸型給油艦1番艦隠戸と間宮の艦名が与えられた。9月15日、艦艇類別等級表に登録。特務艦2隻(隠戸、間宮)はいずれも神戸川崎造船所で建造することになった。また各艦は建造中止の新造艦より機械や部品を流用することになっており、大正11年3月19日の段階で間宮に搭載予定ボイラー八缶のうち四缶は愛宕から、四缶は加賀からのものを搭載予定だった。同年(大正11年)10月25日午前10時、間宮は神戸川崎造船所で起工された。当初、1923年(大正12年)10月31日の竣工を予定。前述のように、廃艦解体予定の加賀よりボイラー四缶を転用する計画だったがそのボイラーが届かず、1923年(大正12年)6月上旬進水の見込みが立たなくなった。加賀は1922年(大正11年)7月に特務艦富士によって横須賀に曳航され、そのまま同地で廃艦処分を待っていたのである。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災により横須賀海軍工廠で航空母艦へ改造予定の天城型巡洋戦艦1番艦天城が大破する。修理不能となった同艦の廃艦処分にともない、横須賀で処分保留状態だった加賀の空母改造が決定。そこで天城搭載用ボイラーが浮いたため、同艦機関部を間宮に転用することになった。間宮は1923年(大正12年)10月26日午前8時に進水した。12月1日、日本海軍は通報艦満州艦長大谷四郎大佐を間宮艤装員長に任命した。12月6日、神戸川崎造船所内に間宮艤装員事務所を設置する。1924年(大正13年)7月12日、間宮艤装員事務所は閉鎖された。1924年(大正13年)7月15日、間宮は竣工した。大谷も間宮特務艦長(初代)となった。呉鎮守府籍。10月25日、間宮特務艦長は片山登中佐に交代する(後日、大谷は長良型軽巡洋艦6番艦阿武隈艦長、青葉型重巡洋艦1番艦青葉初代艦長等を歴任)。間宮は翌年より連合艦隊に編入されて行動した。戦前では日本海軍内でほぼ唯一の給糧艦だったため、修理、整備以外の全ての期間で連合艦隊の付属として食糧の補給任務に従事した。1925年(大正14年)12月1日、給油艦早鞆特務艦長山口清七大佐は間宮特務艦長に任命された。1926年(大正15年)11月1日、間宮特務艦長は藤沢宅雄中佐に交代(山口は天龍型軽巡洋艦1番艦天龍艦長へ転任)。1927年(昭和2年)11月15日、間宮特務艦長は入江淵平中佐に交代(藤沢は防護巡洋艦利根艦長へ転任)。1928年(昭和3年)12月10日、間宮特務艦長は運送艦青島特務艦長の合葉庄司大佐に交代(入江は軽巡阿武隈艦長へ転任)。1929年(昭和4年)11月30日、間宮特務艦長は長門型戦艦2番艦陸奥副長小島謙太郎大佐に交代(合葉は特務艦朝日特務艦長へ転任)。1930年(昭和5年)11月15日、間宮特務艦長は伊勢型戦艦1番艦伊勢副長藤森清一朗中佐に交代(小島は鎮海要港部参謀長へ転任)。1931年(昭和6年)12月1日、間宮特務艦長は戦艦伊勢副長富田貴一大佐に交代(藤森は特務艦朝日特務艦長へ転任)。1932年(昭和7年)12月1日、砲艦安宅艦長加藤正大佐は間宮特務艦長に任命され、富田(間宮艦長)は長良型軽巡4番艦由良艦長へ転任する。また、この時の間宮副長は金剛型戦艦3番艦榛名運用長東郷実中佐(東郷平八郎元帥二男)となる。1933年(昭和8年)11月15日、間宮特務艦長は第二艦隊参謀長鈴木義尾大佐に交代した。東郷(間宮副長)は潜水母艦長鯨副長へ転じ、後任の間宮副長は藤井音四郎中佐(戦艦陸奥運用長)となる。1934年(昭和9年)5月25日、間宮特務艦長は佐々木清恭大佐に交代。鈴木大佐(間宮艦長)は海軍大学校教官へ転任し、その後は重巡摩耶艦長、金剛型戦艦1番艦金剛艦長等を歴任。金剛型戦艦2隻(金剛、榛名)で編制された第三戦隊司令官としてマリアナ沖海戦やレイテ沖海戦を戦ったのち、米潜水艦シーライオンⅡの雷撃による乗艦(金剛)沈没時に戦死した。11月15日、間宮特務艦長は、海軍艦政本部部員・海軍大学校教官・海軍省軍需局局員青柳宗重大佐に交代し、佐々木は青柳の後任となる。1936年(昭和11年)3月2日、間宮特務艦長は柿本權一郎大佐に交代。青柳は、当時敷設艦として運用中の浅間型装甲巡洋艦2番艦常磐艦長に任命された。その後、妙高型重巡洋艦4番艦羽黒艦長、金剛型2番艦比叡艦長等を歴任した。12月1日、間宮特務艦長は長門型戦艦1番艦長門副長星野応韶大佐に交代。柿本大佐は潜水母艦高崎(瑞鳳)艤装員長に任命され、翌年には姉妹艦剣埼(祥鳳)艤装員長も短期間兼務している。1937年(昭和12年)11月15日、戦艦榛名副長秋山門造中佐は間宮特務艦長に任命された(星野は呉海軍軍需部総務課長へ転任)。1938年(昭和13年)12月15日、秋山中佐(間宮艦長)は呉海兵団副長兼教官に転じ、後任の間宮特務艦長は佐世保海軍人事部第三課長三坂直廉大佐となる。1939年(昭和14年)12月15日、三坂(間宮艦長)は佐世保海軍軍需部総務課長へ転じ、後任の間宮特務艦長は野村留吉大佐となる。1940年(昭和15年)10月15日、間宮特務艦長は田村保郎大佐となる。野村は青島方面特別根拠地隊副官兼参謀に転任。後日、軽巡北上艦長、戦艦日向艦長等を歴任する。1941年(昭和16年)7月1日、田村(間宮艦長)は佐世保海軍通信隊司令兼佐世保通信部部員を命じられ、後任の間宮特務艦長は横須賀海軍通信隊司令兼横須賀通信部部員福吉保夫大佐となる。11月5日、萬膳三雄大佐は間宮特務艦長に任命される。間宮は萬膳艦長の元で太平洋戦争に突入した。また福吉は翌年4月10日より秋田地方海軍人事部長。予備役編入後、1944年9月1日より那覇地方海軍人事部長となった。太平洋戦争勃発後も、間宮は引き続き各地への食糧輸送に活躍した。1942年(昭和17年)10月3日、大藤正直大佐(吹雪型駆逐艦4番艦深雪沈没時艦長)は間宮特務艦長に任命される。1943年(昭和18年)以降アメリカ海軍潜水艦の活動により日本軍輸送船の被害も増えはじめ、間宮も輸送船団に加わって航海する機会が増えてきた。一例として同年5月21日、間宮以下輸送船6隻は駆逐艦3隻(白露型駆逐艦5番艦春雨《当事、米潜水艦ワフーの雷撃で大破、艦体切断中》、夕雲型7番艦大波《トラック泊地近海150浬まで》、睦月型12番艦夕月)に護衛され、トラック泊地から横須賀に帰投している。それでも幾度か被害を受けた。1943年(昭和18年)10月11日、間宮は横須賀を出港し南方へ向かっていたが12日父島沖で米潜水艦からの雷撃に遭った。正午時点の位置。この米潜水艦はセロ (USS "Cero

出典:wikipedia

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