炉端焼き(ろばたやき)は、宮城県仙台市で発祥し、北海道釧路市で発展した飲食店の店舗や給仕の形態、および、そこで出される料理のこと。客の目の前の囲炉裏端において、炭火で魚介類や野菜を焼き、長いしゃもじ(掘返べら)で料理を運ぶ。戦後占領期の1950年(昭和25年)7月2日、大崎八幡宮の御神酒酒屋・天賞酒造(当時の仙台市八幡町)の三男・天江富弥が、同社の日本酒の販路拡大を企図して、仙台花柳界の中心地・本櫓丁(現在の歓楽街「国分町」の一部、)に開いた郷土酒亭「炉ばた」が「炉端焼き」の発祥の店とされる。店名の「炉ばた」は林香院の住職が命名した。富弥は大正期より児童文化活動家として知られ、昭和初期に発生した「第1次こけしブーム」の火付け役の郷土史家でもあり、後に宮城県民藝協会の初代副会長も務めた。また、野口雨情や山村暮鳥、竹久夢二、三大閨秀歌人といわれた柳原白蓮・九条武子・原阿佐緒、さらには宮沢賢治、永六輔など幅広い交流関係を持っていた。「炉ばた」のマッチラベルは、売れる前の棟方志功が描いた。すなわち、客が仙台の文化人・趣味人でもある富弥と、囲炉裏を囲んで会話を楽しむサロン的な店が「炉ばた」であったようである。1960年頃にはジェイムズ・カーカップも来店した。一方で富弥は、1924年(大正13年)にこけし等の民芸品を扱う「小芥子洞」を開店しており、「炉ばた」にも様々な骨董品が飾られたようだが、同様に飾ってもらおうと開店祝いに知人が大きな木べらをプレゼントした。しかし、この木べらは飾られることなく、客に酒や料理を差し出す柄付きの盆のように使用された。これが後に全国に広まる炉端焼きの特徴の1つになった。市内に本店と支店が同時に存在した時期もあり繁盛した。その後は何度か移転をし、主人も代替わりしたが、現在も同市の歓楽街「国分町」(稲荷小路沿い)に「元祖 炉ばた」()の店名で存続している。「炉ばた」の一番弟子が大阪府で、二番弟子が北海道釧路市栄町で、ほか3名の弟子が東北地方の青森県や福島県などで炉端焼きの店を出した(大阪の店は既に閉店)。1953年(昭和28年)、釧路の弟子は仙台と同様に「炉ばた」()との店名で店を出した。同店では、釧路港で揚がる魚介類も焼いて出すようになった。この釧路の「炉ばた」のメニューを踏襲した形で、日本各地に炉端焼きの店が広がったとされる。「炉端焼き」の店は、昭和40年代には全国に1万店以上あったと言われる。現在、「セルフ炉ばた」「セルフ炉端焼き」などと呼ばれる、囲炉裏とそれを囲む座席を提供するだけの店舗も存在する。このような店舗では、食材等は持ち込みであったり、店舗から買ったりするが、焼くのは客(セルフ形式)である。店舗は常設の場合と仮設の場合があり、バーベキューやセルフのカキ小屋のような形式となっている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。