宇崎 竜童(うざき りゅうどう、1946年2月23日 - )は、日本のロック歌手、作曲家、俳優、映画監督。京都府京都市出身。1970年代中期から1980年初頭にダウン・タウン・ブギウギ・バンド、1980年代中期から1990年代初頭に竜童組、1990年代中期から後期に宇崎竜童 & RUコネクション with 井上堯之を率い、バンドの活動の合間にソロとしても活動する。妻は作詞家の阿木燿子で、「作詞阿木・作曲宇崎」のコンビは山口百恵の全盛期を支えた。母親の出身地で疎開先だった京都市伏見区生まれ、なお母方のルーツは京田辺市である。生後間もなく東京に引っ越して、中学卒業まで代々木上原で育った。渋谷区立上原小学校~明治大学付属中野中学校・高等学校~明治大学法学部卒業。父親は滋賀県大津市出身で、東京商船学校を卒業して船乗りを経た後に、代々木上原で船具店を経営し裕福だったが、中学3年の時、父の会社が倒産し一家は豪邸から借家生活となる。明治大学の軽音楽部で阿木燿子と知り合い作曲を始める。しかし、両親の手前もあり、プロを目指すことはなかった。大学卒業後、内田洋行に就職したが性に合わず1ヶ月で退社した。その後、義兄の経営する大橋プロでマネージャーを務め、バンド時代の松崎しげるをスカウトし2年間マネジメントを担当するがここも退社した。コンサートに飛び入り参加したのがきっかけで、レコード会社から声がかかり1973年、「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」を結成し、シングル『知らず知らずのうちに』でデビューした。1974年に出した『スモーキン・ブギ』がヒットし、つなぎルックと共に脚光を浴びる。さらに翌年リリースしたシングル『カッコマン・ブギ』のB面曲である『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』が大ヒット。曲中のセリフ「あんたあの娘のなんなのさ」は流行語にもなり一世を風靡した。また、この曲をもとに映画まで作られた。1980年、バンド名を「ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド」に改名、翌年解散。これ以前から山口百恵等に作曲家として曲を提供したり映画『曽根崎心中』(1979年)、『TATOO(刺青)あり』(1982年)に主演するなどしていたが、解散後はさらにドラマ出演、映画・舞台音楽や監督など多方面に進出。1984年、今までにない新しい音楽にチャレンジするために「竜童組」を結成。その活動舞台は日本国内のみならず、世界各地にまで広がった。1990年に活動休止。1993年、元ザ・スパイダースの井上堯之と共に大人のロックバンドを目指すため、「どちらかが死ぬまで続けよう」との約束で「宇崎竜童 & RUコネクション with 井上堯之」を結成。1998年に活動休止するが、二人の約束は今でも続いている(久留間寛吉『なぜ宇崎竜童と阿木燿子はお互いに好きな事をしてもうまくいくのか』あっぷる出版、2007年、参照)。1998年以降はソロ・アーティストとして活動。2008年にはデビュー35周年を迎え、2枚組のブルースアルバム、同じく2枚組のベストアルバムのリリース、記念ライブが行われた。2008年4月10日、憲政記念館で開催された「天皇皇后両陛下御大婚五十年をお祝いする集い」に臨席し、祝辞を述べた。2013年8月22日と23日、第38回湯布院映画祭にて音楽を担当した作品および出演した作品が特集上映される。上映後は夫人でもある阿木燿子と共にシンポジウムに参加。その後ライブ&トークショーが同会場で行われ映画にまつわる九曲を披露し好評を博した。"→ダウン・タウン・ブギウギ・バンド、ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド、竜童組、宇崎竜童 & RUコネクション with 井上堯之、篠龍、六三四Musashi with 宇崎竜童、GENTLE3、等のディスコグラフィーは各リンク先のページを参照のこと。" "132856
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。