桃山文化(ももやまぶんか)または安土桃山文化(あづちももやまぶんか)は、織田信長と豊臣秀吉によって天下統一事業が進められていた安土桃山時代の日本の文化である。この時代、戦乱の世の終結と天下統一の気運、新興大名・豪商の出現、さかんな海外交渉などを背景とした、豪壮・華麗な文化が花ひらいた。なお、「桃山文化」の呼称は、主として美術史の分野において多用される時期区分であり、その場合は17世紀の初頭も含めることが多い。本項でも、この時期区分に準じ、16世紀後半から17世紀初めにかけての文化事象について、その概略を述べる。「天下布武」を掲げて日本の国内再統一事業を推し進めた織田信長、その後継者として統一を実現した豊臣秀吉の時期を、日本史上では、2人の居城の地名にちなんで「安土桃山時代」と称し、この時代の文化を一般に「桃山文化」と呼んでいる。「桃山」の名は、秀吉がその晩年にきずいて本営を設けた伏見城(京都市伏見区)の跡地に、廃城ののち桃の木が植林され、この地が桃山と称されたことに由来している。この時代、約100年におよんだ戦国時代の争乱をおさめて権力と富を集中させた統一政権のもと、そのひらかれた時代感覚が、雄大・壮麗にして豪華・絢爛、かつ溌剌として新鮮味にあふれた桃山文化を生み出した。この文化には、戦国の世を戦い抜いて新たに地域の支配者となった新興の大名や、戦争や貿易などを通じて大きな富をきずいた都市在住の豪商の気風や経済力が色濃く反映されている。また、古代や中世の文化が神仏中心の傾向が強かったのに対し、この文化が人間中心主義的な性格を傾斜させたことも大きな特色となっている。それまで長きにわたって各方面の文化を支えになってきた寺院勢力は、信長や秀吉らの政策によって弱められ、かつ、多くは没落していったため、文化の面においても仏教色が薄められ、世俗的・現実的かつ力感のある作品が数多く生み出されたのである。統一政権の出現によって、文化の地域的な広がりや庶民への浸透もいっそう進み、京都・大坂・堺・博多などの都市で活動する商工業者(町衆)が新たな文化のにない手として台頭した。この時代の文化は、中世以来の来世主義が後退し、現世享楽主義的な要素が強まったが、それには、このような町衆の台頭も背景のひとつとなっている。一方、ポルトガル人の来航を機にヨーロッパ文化との接触がはじまり、日本人自身のかつてないほどの活発な海外進出の影響も相まって、この時代の文化は多彩なものとなり、異国趣味を加えて世界性をもつようになった。新来の焼き物や楽器を通じ、朝鮮文化や琉球文化からも影響を受けた。さらに、従来多岐にわたって文化をになってきた禅僧社会は大名らの文化顧問のような役割をにない、文化における公家社会の発言力も相応の経済的安定のもとに一定の高まりをみせるなど、一種の古典復興時代ともいうべき状況が現出した。安土桃山時代は、武家文化・町人文化を基軸としながらも王朝文化や東山文化の系譜も継承してこれらを融合させ、国民文化の形成に大きな一歩を踏み出した時代ともいえるのであり、後続する江戸時代の文化につながる要素がきわめて大きい。なお、尾藤正英(日本近世史・近世思想史)は、桃山文化の特色として、の3点を指摘している。桃山文化を象徴するのが城郭建築である。城郭は本来的には軍事施設でありながら日本特有の建築様式のひとつともなっている。この時代には、中世にきずかれた山城から次第に小高い丘の上や台地の縁辺に築く平山城や平地に築く平城へと変遷し、多重に堀を配し堅牢な石垣を積み、重層構造の天守や櫓を建築する城郭に発展した。「天守」の語が初めて文献に見えるのは、16世紀前半の畿内の戦乱を描いた軍記物『細川両家記』における、16世紀初頭頃の摂津国伊丹城(兵庫県伊丹市)の天守であるといわれている。ただし、同時代にあっては「天守」の語は必ずしも一般的ではなく、江戸時代以前の文献資料ではむしろ「殿守」「殿主」の表記が多い。従来の寺院建築にも仏塔や山門など多層建築が存在したものの、これらは多かれ少なかれ大陸の様式の影響を受けたものであった。それに対し、天守は全く日本人の創意から生まれた多層建築であったといえる。また、高い天守を備えた「本丸」の外側に土塁や深い濠で囲まれた複数の郭(曲輪)を配して、「二の丸」「三の丸」「西の丸」「北の丸」などと称し、各郭を連ねる構造が採られるようになり、さらに、城の内部には書院造をとり入れた居館や邸宅が設けられた。野面積みの石垣も濠も、本来的には実用を旨とする防禦設備ではあったが、そこにも美が追求された。これには、城そのものが単なる要塞ではなく、地域の政治的な中心として住民から仰ぎみられる権威の象徴となったことも作用している。城郭建築に革命をもたらしたのが、織田信長が天正4年(1576年)より起工した近江国の安土城(滋賀県近江八幡市)である。信長は、琵琶湖東岸に京都・奈良・堺の職人を動員してつくった五層七階(地上6階・地下1階)の楼閣を好んで「天主」と称した。この命名については、キリスト教における天主(デウス)に由来するという説、あるいは仏教の帝釈天に由来するという説がある一方、信長がみずからを天道の体現者である、ないし天下における中心であると自認したことによるものという指摘もなされている。ルイス・フロイスは、この城について「その構造の堅固さ、財宝の華麗さは、ヨーロッパの壮大な城と同じである」と記録しているが、安土城は天正10年(1582年)、山崎の戦いののち天守(「天主」)と本丸を焼亡した。天正11年(1583年)9月頃、豊臣秀吉は一向一揆の拠点であった石山本願寺の跡地に大坂城築城を開始した。大坂城は、外観五層・内部八ないし十階の大天守がそびえ、本丸と山里丸を中心として二の丸、三の丸の4つの郭から成る広大な城郭であった。そして、規模と豪壮華麗さにおいて安土城をはるかに上回るものであったが、その一方ではひなびた山里の情趣も含んでいた。その後、秀吉は近江八幡城(滋賀県近江八幡市)、大和郡山城(奈良県大和郡山市)、淀城(京都市伏見区)、聚楽第(京都市上京区)、伏見城(京都市伏見区)を築いた。それに対し、徳川家康は二条城(京都市中京区)、駿府城(静岡市葵区)、名古屋城(名古屋市中区・北区)、江戸城(東京都千代田区)などを築いている。その他、天正から寛永にかけては多くの城郭が各地に築かれたが、わけても関ヶ原の戦いののちは、現在みられるような本格的な城郭建築が全国的に続々とつくられた。天守・櫓・門・塀など、城郭を構成する建築物が防火のため土や漆喰で塗り込められるようになったのは、関ヶ原以降のことである。現存する城郭建築の最高峰と称されているのが、池田輝政による播磨国姫路城(兵庫県姫路市)である。五層七階(地上6階・地下1階)の大天守と3つの小天守、合わせて4つの天守からなる連立式天守の構造をもち、全体を漆喰で白く塗った総塗籠造の優美な姿は「白鷺城」の別名で知られ、世界遺産にも登録されている。また、その建物の配置はあたかも迷路のようであり、「行動性にともなう美」という桃山文化の一面をうかがわせている。天正15年(1587年)完成の聚楽第や天正20年(1592年)築の伏見城、創建当時の大坂城など、いずれもこの時代の代表的な城郭で、天下一統の勢威を示す、雄大かつ華麗な建築であった。ただし、すぐれて軍事的・政治的建造物であり、都市のランドマークでもあった城郭建築が、明治維新後の廃城令や太平洋戦争の空襲を経た現在、創建当時そのままの遺構がのこっている例は必ずしも多くない。現存する天守としては、いわゆる「現存天守(現存十二天守)」が有名であり、うち国宝に指定されているのは、姫路城・犬山城・松本城・彦根城の4城である。以下に、桃山期から江戸初期にかけての主要な城郭建築について略述する。なお、天守の形状の2つのタイプ(望楼型と層塔型)については、かつては望楼型から層塔型へと変遷したと考えられてきたが、両者の創建年代がたがいに重複することが明らかになってきたため、単純な時代による変化なのではなく、16世紀末葉から17世紀初頭にかけての短い時期に各様式が一斉に開花したと見なされるようになった。丸岡城や犬山城など望楼型天守の場合は物見櫓の要素を多分に含み、城主が周囲を「見る」という軍事的要素に力点が置かれているのに対し、姫路城や松本城などにおいては、物見台を設けず、緩やかな層塔型が採用されており、周囲から「見られる」という政治的側面が重視されているのである。室町時代後半期において、高貴な客を応接したり、高位の主人が来客を接待したりという対面儀礼は、上級武家住宅に求められる重要な機能であり、天下一統を果たした豊臣秀吉は、ことのほかこの対面儀礼とその場を重視した。そして、そうした場を演出するのにきわめて好適であったのが書院造という建築様式である。それは、角柱を用い、部屋に畳を敷きつめ、杉戸・襖・障子などの建具を用いることなどを特色とする様式であるが、床の間や違棚・付書院などを作りつけて内部空間そのものに身分や格式の表現をともなっていた点で対面儀礼の場にふさわしいものであった。こうしたなかで、大広間は、中央の柱列によって南北が区画され、かつ従来の主殿の4倍もの空間を擁しており、身分差を誇示しつつ多数の人間を収容しうる目的にかなう部屋であった。江戸幕府大棟梁となった平内政信(初代)の執筆した『匠明』によれば、秀吉が聚楽第造営に際し、従来の主屋建築である「主殿」の規模を拡大してつくったのが広間建築のはじまりであるという。いっぽう、『匠明』収載の図面の検討からは、武家住宅の主屋建物の名称が「主殿」から「広間」にかわったのは17世紀初頭であったと推定されている。『匠明』収載の指図と現存建築を総合的に検討した結果、慶長5年(1600年)の園城寺勧学院客殿(滋賀県大津市)や慶長6年(1601年)頃の園城寺光浄院客殿(滋賀県大津市)など近世初期の書院造においては、「広間」をともないながらも、外観は基本的に室町期の書院造を継承し、中門や蔀、正面車寄せの妻戸などの点において寝殿造の名残をとどめていることが指摘されている。ここでは内装も華美になりすぎず、装飾性も抑えられており、むしろ接客空間の細分化と充実が顕著である。これが、慶長18年(1613年)上棟の名古屋城本丸御殿表書院(戦災で焼失)においては、中門と蔀が消え去って、書院造における従来の寝殿造的な要素は完全に払拭されている。しかし、金碧濃彩の障壁画は小壁に達しておらず、細部装飾の華麗さについても二条城二の丸御殿の内装にはおよばない。慶長8年(1603年)造営の二条城二の丸御殿群や元和年間(1615年-1624年)造営と推定される西本願寺書院はいずれも寛永年間(1624年-1645年)に大改造をおこなっているが、ここにおいて内部意匠が頂点をきわめ、近世独自の書院造が完成し、諸大名もこれにならい華美を競うようになった。また、両者とも建物・庭園が一体となっており、座観式の庭園が建物外部に展開される(庭園については後述)。こうして寛永以降、近世的な書院造が全国的に広がっていくのである。聚楽第は、16世紀末葉豊臣秀吉が京都における居城として造営したもので、瓦葺・塗籠の城郭群と檜皮葺の屋根をもつ居館群から成っており、天正16年(1588年)には後陽成天皇の行幸を受けている。居館群の中心建物は上述の「大広間」であり、諸大名との対面儀礼の場として用いられた。広間は、身分差を示しながら多数の人間を収容しうる部屋として重視され、以後、近世を通じて普及していく。伏見城は当初、秀吉の隠居屋敷として天正19年に造営がはじまり、翌年に完成した城郭である。秀吉死後の慶長4年(1599年)、家康が留守居役として入城したが、翌年の関ヶ原前哨戦となった伏見城の戦いで石田三成の軍によって秀吉時代の主要建築がほとんど焼亡させられ、いったんは徳川氏により修復されたものの元和9年(1623年)に破却された。以下に、伝聚楽第・伝伏見城の各遺構を記す。戦国の動乱にあって、永禄10年(1567年)、東大寺大仏殿が松永久秀軍の手にかかって焼亡、元亀2年(1571年)には比叡山延暦寺が信長によって焼き討ちされた。各地の戦国大名は寺社に対し政治的・経済的な圧迫を加え、これを統制しようとする一方、寺社が自らの支配に従属し、支配体制の強化に資する場合にはその復興をはかった。毛利元就による永禄2年の厳島神社復興、長宗我部元親による元亀2年の土佐神社の復興、武田信玄による甲斐善光寺の創建などがそれにあたる。信長自身も熱田神宮(名古屋市熱田区)に築地塀を奉納したり、伊勢神宮(三重県伊勢市)の遷宮を支援している。豊臣秀吉もまた、日吉大社(滋賀県大津市)、比叡山延暦寺(大津市)、大徳寺、醍醐寺(京都市伏見区)、妙心寺(京都市右京区)、東寺(京都市南区などの復興に尽力し、子の豊臣秀頼は法華寺(奈良県奈良市)を再興した。これらの多くはいずれも前代までの伝統的な様式の再現であった。天下人や大名たちによる寺社造営事業には、このような復古性とともに工事の迅速性に特徴がある。このなかで東寺金堂は、内陣と外陣の区別を取り払って床を土間仕上げにした古代的な要素と、構造面においては鎌倉時代以来長らく途絶えていた大仏様の技法の応用という中世的な要素の両方が志向された建物である。また、このことにより新しい様式が創造された事例に属し、通柱によって一気に屋根の重みを支える手法は、後世の大型建築の工法にも影響をあたえ、その明快な構造と豪壮な意匠は同時代の城郭建築に通じるものがある。豊臣秀吉は、慶長3年(1598年)、真言宗醍醐寺金剛輪院を中心に有名な「醍醐の花見」を催しているが、金剛輪院の義演を厚く信頼した秀吉は、金堂を紀伊国より移築し、五重塔を改修している。このとき、金剛輪院もまた醍醐寺三宝院として復興された。その唐門と表書院は国宝に指定されており、庭園も有名である。奈良の東大寺大仏殿は戦火により焼失してしまったが、秀吉は京都に方広寺大仏殿を建設した。方広寺は、大仏造立を発願した秀吉が盧舎那仏を安置するため創建した寺であり、これまで地震や火災によって何度か焼亡し、現在は当時の状態をとどめない。ただし、方広寺鐘銘事件で有名な梵鐘は現在ものこっており、重要文化財に指定されている。霊廟建築としては豊国廟がある。慶長4年(1599年)、亡き豊臣秀吉を祀るため京都東山の阿弥陀ヶ峰の山麓に建てられた豊国廟は、壁面から軒まわりが彫刻と彩色で彩られ、屋根には唐破風や千鳥破風を設け、豪壮華麗できわめて変化に富む構成が採られていたと伝えられる。慶長9年(1604年)の祭礼のようすを描いた『豊国祭礼図屏風』によれば、権現造の本社以下、多くの建物をしたがえた壮大な神社であったことが知られている。豊国廟は、元和元年(1615年)に徳川氏の破却によって廃絶されてしまったものの、その遺構として伝承されているのが、琵琶湖の竹生島(滋賀県長浜市)に所在する宝厳寺唐門と都久夫須麻神社本殿・唐門である。なお、現在の豊国神社(京都市東山区)は明治時代に再興されたものである。同じく霊廟建築として京都東山に建てられた高台寺霊屋は、宝形造・檜皮葺で、秀吉正室高台院(北政所)の墓廟である。厨子が3基あり、それぞれに大随求菩薩、高台院、秀吉の木像が安置されており、内陣のいたるところに施された「高台寺蒔絵」で有名である。内陣には蒔絵のほか狩野派の絵画なども描かれており、当時の工芸技術の粋が集められている。こうした霊廟建築の流れは、やがて寛永期の日光東照宮(栃木県日光市)へとつながっていく。地方では、兵庫県丹波市の柏原八幡神社では、秀吉によって社殿造営を命じられた堀尾吉晴が本殿・拝殿の複合社殿を再建しており、国の重要文化財に指定されている。東北地方では、奥羽の大名伊達政宗が慶長9年(1604年)に紀伊国の大工を仙台に招き、軒下部分に極彩色の彫刻をほどこして正面には千鳥破風と唐破風を重ねた権現造の大崎八幡宮社殿(仙台市青葉区)を建立した。複雑な屋根形式と豊かな装飾性に特徴があり、国宝に指定されている。茶の湯は、安土桃山時代になると大名や豪商だけでなく、町人の間へも広がった。堺の商人出身で、武野紹鷗に師事した千利休(千宗易、本姓は田中)は、茶堂として信長に仕え、独特の茶道具や懐石を考案して茶の湯の儀礼を定めて茶道を確立し、さらに秀吉にも重用された。利休は、村田珠光や武野紹鷗によってすでに始められていた侘び茶を大成した。利休が求めたものは、豪華な書院の茶ではなく、簡素な無一物の美を希求する草庵での侘び茶であった。禅の影響を受け、「和敬清寂」をその根本精神とし、簡素と閑寂を旨とした侘び茶は、華やかさの目立つ桃山文化のなかで異彩を放っている。しかし、天正19年(1591年)、利休は秀吉の不興を買い、自刃している。茶の湯は、一方では、いわば生活教養文化として既成文化を包含・統合するかたちで成立したものであり、連歌や謡曲、能狂言などといった寄合の文化とも共存し、人びとに社交の場を提供するものとして歓迎された。秀吉は、家康との講和後の大徳寺茶会、武家関白の権威を高めた禁中茶会につづいて天正15年(1587年)10月1日、京都の北野神社で大規模な茶会(北野大茶湯)をもよおした。そこには秀吉自慢の「黄金の茶室」が持ちこまれ、秀吉・千利休・今井宗久・津田宗及の4人を茶堂とする茶席が設けられた。4人の茶席には、貧富・貴賤の別なく愛好者の参加をゆるした。参加者は8人ずつ入場させて各人にクジをひかせて2人組4組に分け、それぞれの茶堂の点前で茶をいただくという趣向となっていた。1日803名もの拝服者があり、その内訳は公卿・大名から百姓・町人にいたるまであらゆる階層におよんだという。茶会は当初10月1日から10日間の予定であったが、結局は1日だけとなった。北野神社では9月25日から800余もの茶屋座敷の造営がはじまり、当日は経堂から松梅院までぎっしりと建ち並び、その数1,500以上におよんだといわれている。今井宗久も津田宗及もともに堺の豪商出身であった。この2人に利休を加えて「天下三宗匠」と称された。山上宗二も堺の商人出身で利休に20年師事し、秘伝書『山上宗二記』をのこした。博多の豪商、島井宗室と神谷宗湛もまた茶人としても有名である。宗室はとくに豊後国の大名大友宗麟との関係が密接であり、また、信長自刃の前日には本能寺に同宿して信長の収集した茶道具を見ており、宗湛はまた、北野大茶湯に博多からかけつけた際、秀吉に大名以上の待遇で厚く迎えられたといわれている。諸大名もさかんに茶会をもよおした。茶の湯が武士や大名の間であまねく広まっていった功労者としては織田信長が挙げられる。信長は義昭を奉じて入京したのち、堺の町衆に対し「名物狩(強制買い上げ)」をおこない、また、家臣に対しては茶の湯を功績ある者に対する許可制とした(「茶の湯御政道」)。茶をたしなむことは、武人にとって一種の威信になったのである。こうして利休に師事した武将には蒲生氏郷、芝山宗綱(監物)、細川忠興(三斎)、高山右近(南坊)などがおり、「利休七哲」などと称されることがある。また、茶道史において特に重要な武人としては、織田有楽斎(長益)、古田織部(重然)、小堀遠州(政一)が挙げられる。織田有楽斎は信長の弟で、かれがつくった茶室も有名である。古田織部も信長・秀吉に仕え、武士好みの茶風として知られる織部流を創始した。織部焼(後述)はかれの名にちなむ。関ヶ原合戦以後は、徳川秀忠の茶道師範として活躍したが、大坂の役で末子が豊臣秀頼方についたため、内応を疑われ、非業の死を遂げている。利休が自然の侘びを求めたのに対し、織部は、普通ならば窯のなかで打ち捨てられるような「へうげもの」銘の茶碗を愛したように、人工の侘びを見いだしたと評される。織部に師事した小堀遠州は、武家茶道のひとつ遠州流の祖となった人物で、将軍の茶の湯師範となったほか、作庭でも有名で、幕府関係の作事奉行として多くの名園を造作した。なお、茶道の隆盛にともない、茶入や茶壺、茶器、茶釜など茶道具にもすぐれたものがつくられている。茶入「九十九髪茄子」や茶釜「古天明平蜘蛛」は、利休七種茶碗や秀吉が所持したといわれる高麗物の井戸茶碗などとともに、「名物」といわれた。武野紹鷗の茶室は4畳半で書院造風の端正なつくりであったと考えられている。それに対し、千利休唯一の遺作といわれる、山崎天王山の麓の妙喜庵(京都府大山崎町)内の「待庵」は、当時の上流階級で愛された山荘や茶屋、あるいはその原形となった民家建築をベースにした、わずか2畳敷の草庵であり、世俗的な身分差を解消する手立てとして「躙口(にじりぐち)」をともなっている。ここでは、にじり口と土庇、そして露地(路地)によって庭と室内の一体化が図られており、一見質素で狭隘にみえながらも、天井の複雑な構成や窓の自在な配置、床内の入隅柱、天井を土壁で覆った室床など細部にいたるまで吟味と配慮が行き届き、驚くばかりの拡がりを見せている。天正10年(1582年)の山崎の戦いののち、秀吉はしばしば利休らと茶会をもよおしているが、待庵もこれに用いられた可能性がある。利休にかかわる茶室としては他に、大徳寺龍光院書院内に設けられた茶室「密庵席(みったんせき)」がある。密庵席の名は、中国・宋代の禅僧密庵咸傑の現存唯一の墨跡に由来している。墨跡は禅宗寺院はもとより利休はじめ多くの茶人より厚く尊崇され、密庵席にはこの一幅だけを飾るために密庵床(みったんどこ)が設けられている。密庵の墨跡は利休の添状とともに国宝指定されている。利休はまた、紹鷗の示した4畳半茶室の草庵化も進めた。これは、裏千家の茶室「又隠(ゆういん)」(京都市上京区)に伝わっている。織田有楽斎、古田織部、小堀遠州ら大名茶人も茶室をつくった。これには草庵風のものもあれば書院風のものもある。織田有楽斎が京都建仁寺正伝院につくった茶室如庵は、建仁寺から東京の三井家、神奈川県大磯の三井家別荘へと移築を繰り返し、現在は愛知県犬山市の有楽苑に所在する。壁の腰張りに暦が張ってあるところから「暦張りの席」とも呼ばれ、国宝に指定されている。古田織部の好みを最も残すといわれる燕庵(京都市下京区)は、織部が大坂の陣に際して京屋敷の茶室を義弟にあたる藪内流の剣仲紹智に与えたものと伝えられている。如庵と燕庵は、いずれも草庵風茶室の空間に格式を創出したところに特徴がある。いっぽう、大徳寺孤篷庵に設けられた「忘筌(ぼうせん)」は小堀遠州がつくり、18世紀末に松江藩の藩主松平治郷が再建した茶室で、書院造を基本としているが草庵風の意匠も採用されている。このように、茶室建築は茶人の精神すなわち「数寄」が表現されたもので、「数寄屋」の呼称もこれに由来するが、上述『匠明』に数寄屋が収載されていることは、17世紀初頭の段階で上層武家の接客施設として茶室がすでに定着していたことを示している。秀吉は、大坂城内に豪華な茶室をつくり、また、折りたたみ可能な「黄金の茶室」を千利休につくらせ、各地に運んで茶会をひらいた。「黄金の茶室」は京都御所や肥前名護屋城(佐賀県唐津市)にも運び込まれ、また、北野大茶湯でも披露されている。これらは、秀吉の派手好み・成金趣味の現れと評されることも多いが、秀吉自身はそれよりも「山里」と名づけられた、木立によって俗塵を遮断した静寂な茶室での侘茶を好んだといわれる。なお、高台寺境内において伏見城遺構と伝承される2つの茶亭「時雨亭」「傘亭」について、堀内家出身の堀内他次郎(宗完)は、これが伏見城に秀吉が設けたとされる学問所の高堂と草堂ではなかったかと指摘している。茶室建築はのちの住宅建築にも影響をあたえた。住まいに数寄屋(茶室)の要素を採り入れた「数寄屋造り」がそれである。イエズス会の修道士ルイス・アルメイダは、松永久秀の信貴山城(奈良県平群町)庭園を見聞したときの感想として「これ以上優雅なものはありえない」と記しているが、このことは、戦国大名が自らの権威を誇示するために競って作庭したことを物語っており、その発達は壮麗な城郭建築の発展と不可分の関係にあった。桃山時代には、不老不死を祈念する鶴・亀や蓬莱などを表現する石組みと書院造の邸宅が調和する書院式庭園(書院造庭園)が多く造られた。ただし、「書院式庭園(書院造庭園)」の語は庭園様式ではなく、西本願寺書院の庭園が枯山水であるのに対し、二条城二の丸庭園は池泉式であるように、建物との関係にもとづいた分類呼称である。智積院大書院庭園は、秀吉が建立した祥雲禅寺の時代に原形が造られた利休好みの庭園で、築山・泉水庭の先駆をなした貴重な遺産といわれている。智積院になってのち、17世紀後葉に第7世化主となった運敞が庭園を修復して「東山随一の庭」と称されるようになった。広壮な書院造建築と林泉とが調和する醍醐寺三宝院庭園は、慶長3年(1598年)3月の「醍醐の花見」に際して、秀吉自らが基本設計を行った池泉回遊式の庭園である。作庭は花見の終わった同年の4月より開始され、同年8月の秀吉の他界後は醍醐寺の義演が差配した。正面の「藤戸石」はもともと管領家細川氏の京屋敷にあった由緒ある石で、阿弥陀三尊をあらわすといわれ、秀吉が聚楽第から運ばせたものである。秀吉の死によって当初の予定よりも規模を縮小させることを余儀なくされたが、義演は秀吉の構想を発展させ20数年にわたって改修を重ね、また、「天下一の石組の名手」といわれた賢庭など当代一流の庭師を集めて、大ぶりの石をふんだんに用いて贅をこらした池庭をつくりあげた。庭園内の池には「亀島」「鶴島」が配され、橋が架けられ、庭の南東には茶室「枕流亭」がある。開放的で躍動感あふれる構成で知られる三宝院庭園は、国の特別史跡・特別名勝に指定されている。二条城二の丸庭園は、小堀遠州の代表作として挙げられる池泉式の書院造庭園で、出入りの多い複雑な平面形をもつ中央の大池には「蓬莱島」「亀島」「鶴島」の3つの島が配されている。この庭園は、「八陣の庭」とも呼ばれ、神仙蓬莱の世界を表現しているといわれ、慶長年間に二条城造営とともに作庭された。上述のように書院造建築は、対面儀礼の場として重視されたが、これら対面所では、建物内での固定された着座位置からの視線がことのほか重視された。二の丸御殿は、寛永3年(1626年)の後水尾上皇行幸に際し改修が加えられ、それに合わせて庭園南側に御幸御殿が新造されている。これにより、庭園もまた御幸御殿からの視線を意識したものに変えられていることは、その石組みや景石などからも充分にうかがわれる。この庭園は、醍醐寺三宝院庭園同様、覇者の庭としての美意識を示す遺構であり、国の特別名勝に指定されている。高台寺庭園も小堀遠州の作で、しだれ桜と萩の名所となっており、国の史跡および名勝に指定されている。茶の湯の隆盛によって、それに沿うかたちでの庭園の造営もさかんになった。書院式庭園における大スケールの開放的な空間に対し、茶室に至る露地(露地庭)はあたかも「閉じられた空間」の様相を呈し、好対照をなしている。渡り用の飛石、心身を清める蹲(つくばい)、露地の灯りである灯籠がすえられる露地庭の様式はまた「茶庭」とも呼ばれている。露地の萌芽的形態とみられるのが、『山上宗二記』に収載された図面のなかの、武野紹鷗の茶座敷にかかわる「脇坪ノ内」である。図面には茶座敷前面にスノコ縁があり、その前面に「面坪ノ内」、側面に「脇坪ノ内」の一画が設けられるが、そのしつらえの詳細は不明である。利休の侘び茶は「市中の山居」を追究するものであり、延段(石敷きの園路)、飛石、つくばい、石灯籠などから構成される露地庭の成立も利休時代に至ってのことと推定される。利休はここにおいて「わたり六分、景気四分」を唱導した。利休は、「わたり」(すなわち「歩きやすさ」)という実用性を「景気」という「見栄えのよさ」よりも重視したのであった。そして、庭における植栽もカシやヒサカキなど花や実の目立たない常緑広葉樹、また、マツなどのような山里の風趣を感じさせる樹木を推奨した。それに対して古田織部は、飛石の布石を「わたり四分に景気六分」と述べて美観を重視し、植栽においてもヤマモモ(楊梅)やビワなど果実をつける木も一本のみなら許容し、ソテツやシュロなど異国情緒を感じさせる唐木を推奨した。小堀遠州は、細部のデザインに直線を取り込み、飛石や敷いたマツの葉にもこまやかな注意を払う「きれいさび」を好み、これをめざした。植栽においても、香りや彩りによって季節感を演出できるモクセイやモッコク(木斛)を用い、飛石として握りこぶし大ほどの丸石を「栗石」と称して被覆した。このように、露地は茶室建築と調和したものであったとともに茶人の好みを強く反映するものであった。壁や襖に描かれる絵を「障壁画」という。屏風絵をそれに含めることもあるが、含めないこともある。また、含めることを明示した「障屏画」という用語もある。桃山時代、城郭や寺院内部の壁、襖、屏風ないし天井には、金箔の地の上に青や緑の雄渾な線で彩色していく濃絵(だみえ)の手法による豪華な障壁画(障屏画)が描かれた。濃絵は、本来的には彩色絵画一般を指し、墨絵に対する語である。濃絵のなかで全面に金箔が押され「碧」すなわち青色系統で濃彩したものは、「金碧画」と称され、室町時代に端を発している。障壁画には、濃絵(金碧画)と水墨画の2種類あったが、一般に、金碧障壁画は建築内部において表座敷や客間など公的な空間で飾られ、私的空間の装飾には水墨画が愛された。天下統一の活気あふれる時代にあっては、ことに黄金が好まれ、濃密な色彩とともに力強い絵画が求められた。城郭は新しい権威の象徴であったが、その内部にも権威が示されなくてはならず、黄金の輝きはそうした効果を発揮させるにはきわめて有効な手だてとなった。そして、金色への志向は、その豪華さが単に天下人や大名らの美意識を満足させたからばかりではなく、十分な灯火の得られない当時の座敷において相当の照明効果をもたらしたからでもあった。そこでは、花鳥風月など日本的な画題や唐獅子・竜虎など漢画(宋元画)風の画題が好まれた。金雲や金地が大画面のなかの風景を仕切り、画題となる対象を実物大に描くことで、真にせまった迫力を得ようとしたのである。金碧障壁画の中心となったのは狩野派であった。狩野派は前代より日本古来の大和絵の色彩主義と室町時代にさかんになった水墨画の構成主義を総合しようとしてきた。狩野元信の孫にあたる狩野永徳はそれを受け継ぎ、豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図を特色とする新しい装飾画を大成した。永徳は信長と秀吉に仕えたが、かれの絵は主殿や広間などといった大空間において、天下人とその家臣たちが、居ながらにして絵画のなかの自然と一体化し、互いに共通の時間を生きる演出をになった。その意味で、障壁画はすぐれて政治的な要素も持ち合わせていた。永徳は、雌雄一対の獅子を描いた『唐獅子図屏風』や信長から上杉謙信に贈ったことで知られる『源氏物語屏風』『洛中洛外図屏風』、あるいはまた『檜図屏風』『花鳥図』など多くの傑作を手がけ、狩野派全盛の基礎を築いた。永徳とその門下の絵師たちは安土城、大坂城、聚楽第の障壁画を任されたものの、永徳自身の遺筆は必ずしも多くない。永徳が安土城天守閣の二層から七層のそれぞれに描いた障壁画の画題の記録がのこっているが、その数は膨大であり仏画の範疇に属するもの、儒教的な画題もあり、また、それ以上に人物や花鳥、鳳凰・龍虎・獅子などの霊獣を題材にしたものが多かった。秀吉の小姓から永徳の門人になった狩野山楽は永徳の養子となり、その画風を継承した。山楽の作品としては、装飾性の高い金碧障壁画である『牡丹図』や水墨画の『松鷹図』がとくに著名で、いずれも大覚寺所蔵である。永徳の後継者のうち江戸幕府に仕えた狩野派が江戸狩野と称されたのに対し、京にのこった山楽の系統は京狩野と呼ばれた。狩野派の躍進に対し、大和絵の名門であった土佐派は公家の衰微もてつだって16世紀中葉以降、著しく凋落した。土佐派は、天下人の支援を受けた狩野派の宮廷への進出に対抗することができず、足利義昭邸の障壁画を描いた土佐光茂は、その晩年、京を去って堺に移り住んだ。また、その子の土佐光元が秀吉に従軍して戦死したこともあって、土佐派は宮廷絵所職の地位を失った。狩野派による中央画壇の独占的な支配のなかから、漢画系の海北派・長谷川派・雲谷派・曽我派などの諸派が勃興してきたのも桃山時代であった。海北派の祖として知られる海北友松は、北近江の戦国大名浅井氏の重臣海北氏の出身である。信長の小谷城攻めによって海北氏一族は滅んだが、若年より出家して京の東福寺にあった友松のみが生き残り、中国の梁楷や顔輝、室町時代の水墨画、狩野永徳などから画風を学んだ。友松は濃彩の装飾的作品とともに特に水墨画において個性的ですぐれた作品を多数生みだしている。建仁寺大方丈に水墨画『山水図』を描いたほか、建仁寺には『竹林七賢図』『琴棋書画図』『雲龍図』『花鳥図』などの膨大な諸作品をのこしており、妙心寺もまた『花卉図』『三酸・寒山拾得図』『琴棋書画図』などの友松作品を所蔵している。なお、2代海北友雪以降の海北派は禁裏の御用絵師となった。長谷川派の祖長谷川等伯もまた、その子長谷川久蔵との共作によって祥雲禅寺(現智積院)の金碧画(『桜図』『楓図』『松と葵の図』『松に秋草図』)を描いた。代表作『楓図』は、楓の巨木の下から湧きあがるように咲く花々など、狩野派ではあるいは切り捨てられていたであろう丹念な細部表現、金箔を効果的に用いての空間処理、余韻を持たせた背景の描写など様々な表現技法を駆使した傑作である。能登国に生まれ、堺の町衆文化と接触して京で水墨画の技量を学んだ等伯もまたすぐれた水墨画を多くのこしている。智積院襖絵に相前後する時期に描かれたと推定される『松林図屏風』は、豪壮をほこる桃山絵画のなかにあって静寂瀟洒な味わいをもつ水墨画の傑作であり、きわめて高い造形的な結晶度とあふれる詩情はつとに名高い。雪舟弟子の等春に学んだ等伯は、晩年に自分の作品に「雪舟五代」と記し、みずからの水墨画が雪舟に連なるものであることを主張した。なお、等伯は聚楽第の内部装飾について狩野派と制作を分担したが、狩野派の人びとと衝突して永徳を非難したため、以後、宮廷の造営においては永徳らによって疎んじられ、しりぞけられた。水墨画では毛利氏に仕えた武人画家雲谷等顔も名高い。等顔の本姓は原で、肥前国藤津郡能古見(佐賀県鹿島市)の城主で松浦氏に仕えた原直家の次男として生まれた。父の戦死後、毛利輝元に引き取られ、そこで雪舟等楊筆『山水長巻』の模写をおこなったが、そのできばえには輝元は驚き、文禄2年(1593年)、輝元は等顔に禄100石と長巻をあたえ、山口における雪舟の居宅兼アトリエであった雲谷庵を委ねた。等顔はみずから「雪舟末孫」と称して雪舟流の正統を主張、長谷川等伯と張り合った。代表作に大徳寺黄梅院障壁画や東福寺普門院障壁画がある。また、等顔筆と伝わる『梅に鴉図』(京都国立博物館蔵)は墨と金だけを主調色とする大胆な表現で知られる。等顔の後継者(雲谷派)は毛利氏の御用絵師として活躍し、江戸時代を通じて中国地方から北九州地方にかけての画壇に影響力を有した。曽我派では、戦国時代に越前国の大名朝倉氏の庇護を受けた曽我紹仙の系統から曽我直庵があらわれた。高野山宝亀院の『鶏図』、高野山遍照光院の『商山四皓及虎渓三笑図』などが代表作である。なお、曽我二直菴など直庵以降の曽我派は活躍の場を堺にうつしている。この時代、それまでの宗教画から解放され、都市や庶民の生活・風俗などを題材に、洛中洛外図や職人尽絵、祭礼図などの風俗画もさかんに描かれ、南蛮人を画題とする南蛮屏風もつくられた。広義の風俗画は古代から存在しているが、近代的な意味での風俗画の嚆矢として後述の「観楓図」が挙げられることがある。風俗を描いた絵画の源流は大和絵にあり、手法においても大和絵に由来する俯瞰表現が多く用いられる。画題においては、室町時代後期から、「月次風俗図」など画中の添景ではなく独立した主題として風俗そのものが描かれるようになった。桃山時代にあっては、花鳥画などでも自然から切り離して花や鳥、物だけを画題とするようになり、また、人物画でも従来のような高尚な人ばかりではなく、野郎・若衆・湯女など庶民にとって身近な人びとが描かれるようになった。江戸時代に入ると、背景をほとんど描かずに人物だけを描くような作品(「彦根屏風」「松浦屏風」「本多平八郎姿絵」など)も現れた。「洛中洛外図屏風」は、大永5年(1525年)の歴博甲本(国立歴史民俗博物館所蔵、三条本、町田本とも)を最古に約60種70点余あり、多くの作者によって安土桃山時代を通じて江戸時代初期まで描かれた。そのうち、16世紀中に制作されたのは歴博甲本・上杉本ふくめ3点しかない。歴博甲本では右隻に東山の景観、左隻に北山から西の景観が描かれており、左右の景観は連続しないが、時代が下ると、屏風左右の画面が連続するものが現れる。上杉本は、織田信長が天正2年(1574年)に上杉謙信に送った狩野永徳筆によるもので、洛中洛外図のなかでも特に有名である。そこに描かれた人物は2,500人におよび、当時の四条河原には多くの見世物小屋が立ち並んでいたことなども記されている。上杉本は国宝に指定されており、現在、山形県米沢市の上杉博物館が所蔵している。この図は、一定の期間、何種類も描かれたため、その景観から制作年代が推定でき、また、この図から画題を切り取るかたちで野外遊楽図や賀茂競馬図屏風、祇園祭礼図などが派生していった。「職人尽図屏風」は各種職人の活動や風俗を描いたもので、狩野派の絵師も多くの作品をのこしている。武蔵国川越(埼玉県川越市)喜多院の狩野吉信作のものがとくに知られているが、産業史・技術史の図像資料としても重要である。16世紀の制作である『月次風俗図屏風』(東京国立博物館所蔵)は、公家・武家・庶民の生活を12ヶ月の行事に分け、活き活きと描いた八曲一双の屏風絵である。とくに田植の場面は第3曲・第4曲に大々的に描かれ、俯瞰表現がなされている。大和絵の本流からはやや離れた絵師の作品と推定されている。狩野元信の次男狩野秀頼の作となる『高雄観楓図屏風』は遊楽図の一種で、紅葉で有名な京都の高雄で紅葉見物など秋に遊ぶ人びとを描いた屏風絵である。狩野派の風俗画を描くようになった初期の作品として重要であるが、時代的には足利将軍家の衰亡著しい時期に重なっている。永徳の末弟で御用絵師であった狩野長信の筆になる『花下遊楽図屏風』は、祇園社と上賀茂神社の境内にある桜の花の下で貴人と供の男女が風流踊りなどで遊楽するさまを描いた六曲二双の屏風絵である。背景に金碧ではなく水墨画の技法を生かしている点が特徴的で、桃山時代の風俗をよくあらわした優雅な作品である。これは、長信の現存する唯一の作品である。狩野内膳の筆になる『豊国祭礼図屏風』は豊国神社における慶長9年(1604年)8月の秀吉七回忌にともなう臨時の祭礼のようすを描いた六曲の屏風絵である。そのなかでは風流踊りが禁中に向かって繰り広げられるさまが描かれている。内膳はまた南蛮屏風の作者としても有名である。阿国のかぶき踊り(詳細後述)のようすを描いた『阿国歌舞伎図屏風』も風俗画の一種で、野郎・若衆・遊女など庶民に身近な人物が描かれている。風俗図は、支持層の要望に応えて様々な画面形式での制作がなされたものの、圧倒的に多かったのは屏風形式であった。屏風形式は、襖や壁に描かれたものとは異なり、基本的には調度の一種であり、持ち運び可能で、自由にしつらえることができ、簡便に撤収することもできることから、必要が生じたとき即妙に歓談の場を設けることができた。この時代、屏風絵は遊興や社交のツールとして重宝したのである。この時代の風俗画には狩野派の絵師も参入し、多くの作品を手がけた。室町時代後期にあって京都の町衆の多くは法華宗(日蓮宗)の信者であったが、狩野派や長谷川派の絵師もまた法華信者であった。法華宗を通じて町衆と桃山画壇とはたがいに結びついていたのである。しかし、江戸時代に入って狩野派が御用絵師としての地位を確実なものにしていくと、風俗画は次第に町絵師の手にうつっていった。彫刻では、仏像彫刻がおとろえて亭館の門扉や欄間への彫刻がさかんになった。欄間とは、戸や障子を支える横木(鴨居)と天井のあいだの空間に、採光や通風のため、はめ込まれた板である。城郭や居館の内部を飾った欄間彫刻には透し彫の手法も用いられた。また、建物外観を飾る破風にもさまざまな形態上の工夫や彫刻がほどこされた。現実性や効用を重んじる桃山時代において、彫刻は天平文化や鎌倉文化においてみられたような独立作品には必ずしもつながらなかった。そこでは亭館の付属物としての位置づけが明瞭であって、日常生活に最も密着した彫刻作品が生まれたのである。安土桃山時代にあっては、施釉陶器の産地であった瀬戸窯や美濃窯を中心として、無釉焼き締め陶器の産地として発展してきた備前、信楽、丹波、伊賀の各窯、少し遅れて唐津で、この時代を代表する陶磁器がつくられた。これは、従来の貴人による書院の茶で好まれたのが天目茶碗や青磁茶碗といった、いわゆる「唐物」であったのに対し、侘び茶の流行により、茶道が単なる遊興ではなく禅と一体化して人間形成をめざすものとなったとき、茶器もまた地味で不完全な「粗相の美」のあるものがよしとされたことによる。16世紀後半にあっては、とくに美濃窯(岐阜県土岐市・多治見市ほか)の発展が著しく、器種が増え、色彩感覚に富んだ作品や鉄絵文様を描いた作品などがみられるようになる。なかでも長石だけで白釉をつくりあげた志野焼は他の色を加えることに様々に変化し、器面の装飾や色合いによって無地志野、絵志野、練上志野、鼠志野、朱志野、紅志野などの種類に分けられ、この時代を象徴する陶磁といえる。織部焼もまた美濃窯から生まれた陶磁で、茶人古田織部の好みで焼かれたものである。織部は、型作り法を用い、歪んだ形をとり、筆で絵付けするという、当時としては新種類の陶器で、色彩は濃緑色を特色としている。志野と織部はともに茶器の優品を多く産み出したが、美濃焼全体を通してみた場合、日常生活用の陶磁を大量に生産しており、むしろ、そのことによって美濃窯は支えられていた。黄瀬戸と瀬戸黒は、ともに瀬戸窯(愛知県瀬戸市)および美濃窯で焼成された。黄瀬戸は16世紀後半に焼成が始まり、従来瀬戸窯で使用されていた灰釉を基礎とする淡黄色の釉薬をかけた陶磁で、鈍い光沢のざらざらした肌触りのものは茶人によって愛好された。黄瀬戸は食器を主とし、向付、小鉢、皿、盤などを多く産し、都市や城館に販売されたとみられる。瀬戸黒は16世紀末葉から焼成された鉄釉の黒茶碗で、焼成年代より「天正黒」とも呼ばれ、茶人におおいに愛好された。備前(岡山県備前市)、信楽(滋賀県甲賀市)、丹波(兵庫県篠山市)、伊賀(三重県伊賀市)など無釉陶器の産地として発展してきた各窯も日常生活用品のほか茶陶を焼成した。焼き締め陶器に共通の土の匂いや温かみのある質感が茶人に愛されたためであった。また、茶道において、「侘び茶」の求める地味で不完全な「粗相の美」を備えた焼き物として愛好されたためでもあった。そしてたとえば、備前焼の擂鉢は水指として用いられて「擂盆水指」と呼称され、信楽焼の苧桶が水指に、種壺が花入に見立てられるなど、日常雑器が茶の湯に取り入れられ、新しい美的価値の発見の契機となった。楽焼は最も古い京焼のひとつで、桃山時代に京都の陶工、長次郎によってはじめられた低火度の茶陶である。長次郎とその後継者常慶が秀吉に賞されて「樂」の字をあたえられ、家号(樂吉左衛門)となった。楽焼は、「今焼」とも称され、日本中世の伝統的な高火度の陶磁とも中国の陶磁とも異なる独特の焼き物で、もっぱら茶の湯とその周辺用途を目的に造形され、日常雑器はつくられない。茶碗の他には、香台、花入、水指などがつくられる。この時代、従来の日本になかった地上式の連房式登窯でつくられた施釉陶器が肥前の唐津焼である。唐津焼は絵唐津、三島唐津、斑唐津、黒唐津、黄唐津、影唐津、瀬戸唐津、奥高麗など多くの種類があることで知られる。16世紀後半にはじまり、主として日常生活用品を生産し、茶陶も比較的多い唐津焼であるが、その起こりについては従来、秀吉の朝鮮侵略によって朝鮮半島より捕虜として連行した陶工によってもたらされた製陶技術によるといわれてきた。しかし、窯跡の発掘調査、消費地における遺跡での出土状況、文献記録等からみると、唐津焼は文禄・慶長の役の始まった1592年以前に現れ、1580年代にはすでに製造が始まっていたことがわかる。また、唐津の窯の窯体構造や藁灰を使用した白濁釉は朝鮮にはみられないものであり、初期の唐津焼は朝鮮半島というよりは中国南方の窯の技術によって焼成が始められたものと考えられるようになった。17世紀初め、日本で初めて磁器がつくられる。それが肥前の伊万里焼(産地は佐賀県有田町など)であり、素地に粘土ではなく、陶石(磁石)が用いられ、白色で吸水性の少ない硬質の焼き物となる。肥前有田の泉山で陶石が発見され、元禄期に肥後で発見された天草陶石以前は唯一の陶石採掘場であったが、この発見にも朝鮮人陶工がかかわっている。伝承では李参平が泉山の発見者とされており、「陶祖」と称される。寛永15年(1638年)の『毛吹草』に「今利(いまり)ノ焼物」と見え、近世には有田、三河内、波佐見などの肥前の磁器を、積出港(佐賀藩領の伊万里港)の名から「伊万里焼」と称していた。有田産のものを「有田焼」、伊万里産のものを「伊万里焼」と区別するようになったのは、鉄道による輸送が普及した明治以降のことである。いずれにせよ、伊万里焼は、江戸時代にはヨーロッパ向けの重要な輸出品となっていた。朝鮮陶工を連れ帰った西国各地では、茶の湯の隆盛もあって窯業がさかんとなった。有田のほか、肥前国(松浦鎮信)の平戸焼、筑前国(黒田長政)の高取焼、豊前国(細川忠興)の上野焼、薩摩国(島津義弘)の薩摩焼、長門国(毛利輝元)の萩焼などはこの時代に創業され、これらは大名の領国で焼かれた陶器という意味で「お国焼」と総称され、各藩の専売品・特産品となった。蒔絵をほどこした家具調度品においても装飾性の強い作品がつくられている。秀吉の正室北政所(高台院)が草創した高台寺が所蔵する蒔絵(「高台寺蒔絵」)は桃山時代を代表する蒔絵群であり、なかでも『竹秋草蒔絵文庫』は蒔絵の工芸品として著名である。秋草表現における叙情性、画面構成のおおらかさ、平明ながら洗練されたモチーフの描写、力強さとしなやかさをあらわす描線など、高台寺蒔絵は同時代の絵画に通じる諸特徴を有し、革新性とともに強い絵画性をもっている。高台寺にあっては、秀吉夫妻をまつる内陣や須弥壇・柱およびその周辺、建物の飾り金具、あるいはまた厨子などに対しても、黒漆に花筏や楽器を散らし、あるいはまた秋草などの図柄を表現した蒔絵がほどこされ、壮観である。服飾の多くを占める繊維製品は、糸を染めてから織って生地にする場合と、染めていない糸を織り上げてから生地を染める場合があるが、通常は前者を織りの作品(織物)、後者を染めの作品(染物)と称している。なお、前者を「先染め」、後者を「後染め」と称することもある。織物では、明の織法の影響を受けた堺において、錦や唐織、金襴、紗、紋紗、金紋紗、緞子、縮緬などの制作がさかんとなったが、秀吉が京都の西陣織を保護したことから、こののち西陣が大発展を遂げた。西陣の金襴・緞子や南蛮渡来のビロード・更紗などはことのほか珍重され、武将上杉謙信が着用したといわれるビロード・マントは現存している(現在は山形県米沢市の上杉博物館に保管されている)。16世紀半ば(室町時代末頃)から、日本の染織工芸は海外の染織品の影響を受けて、その素材や技法を多様化させていった。中国から輸入された刺繍作品から影響を受けて、日本でも小袖などに精巧な刺繍が施されるようになり、刺繍と金箔を併用した「縫箔」という加飾法も現れた。こうしたなか「辻ヶ花」と呼ばれる絞り染を主とする一連の染物が登場し、一世を風靡した。これは、戦国期から江戸期初頭までの短期間に隆盛し、そののち急速に途絶えたもので、現存遺品数も300点足らずと少ないこともあって、しばしば「幻の染め物」と称される。当時の記録では「辻ヶ花」の語は帷子(かたびら)と結びついていた。しかし、現存するものに帷子はほとんどなく、今日では縫い絞りを主体とする文様染を「辻ヶ花」と呼称している。「辻ヶ花」は、縫い締め絞りを主体として、これに描絵、刺繍、摺箔などの加飾をほどこしたものであり、地はこの時代に特有な練貫地(生糸を経糸、練糸(精錬した絹糸)を緯糸に用いて織った地)が多く、製品の種別としては小袖および胴服が大部分を占める。桃山時代にあっては、前代の散らし風の文様よりも、いっそう密度の濃い充填的な文様が増加し、絞り以上に墨による描絵や摺箔が重要な役割を果たした。当初は女性や若衆が愛着した「辻ヶ花」であったが、やがて成人男性さらには戦国武将の小袖・胴服・羽織として制作されるようになった。現存品として、上杉謙信・豊臣秀吉・徳川家康らの遺品があり、武田信玄や信長の妹(浅井長政夫人、お市の方)については肖像画のなかで着姿が確認できる。能面では、豊臣秀吉によって「天下一」の称号を許された面打の名人出目是閑吉満が越前に現れた。「天下一」の称号は、秀吉が部下の武将の戦功の際、当初は千利休に鑑定させた茶器を与えていたが、のちには能面を賞として与えるようになったものであり、京都醍醐寺角坊の仏師光盛および光増は、是閑吉満に先だって「天下一」称号が与えられている。この時代、是閑ら以外でも、孫次郎や河内家重など「名人」と呼ばれる面打師が輩出し、現在のような能面の基本構成が確立し、さらに能面自体が芸術性の高い工芸作品として昇華していった。能装束もまた時代の好みを反映して華麗なもの、きらびやかなものが現れた。濃淡の紅が駆使されるようになったが、ただし文様の配置は未だ並列的で金銀糸の使用も行われておらず、江戸時代にはいっそう華麗さを増していく。一方で、用いられる役柄等に応じて多種類の装束がつくられ、その加飾方法や文様もさまざまであった。上半身を覆う衣服には表着(うわぎ)と着付があり、着付は表着と肌着の間に着用された。また、表着には女役の着用する唐織(からおり)、男役の狩衣(かりぎぬ)などがあり、着付には女役の摺箔(すりはく)、男役の厚板(あついた)、さらに男女兼用の縫箔(ぬいはく)などがあった。直垂(ひたたれ)、狩衣、直衣などでは、能装束と通常の衣服のあいだで共通の名称が用いられているが、長絹(ちょうけん)や水衣(みずごろも)のように、能装束特有の名称もあった。また、唐織、摺箔、縫箔などは、染織技法の名称がそのまま装束名となっている。中国の唐織物の技術は日本で定着し、「唐織」は織物の名称というよりは装束の名称となったのであった。形態的には、唐織、摺箔、厚板、縫箔などは小袖形であるが、長絹、水衣、狩衣などは広袖形を呈する。なお、桃山時代の唐織の小袖は、身幅にくらべて袖の幅が極端に狭いことを特徴としている。能装束が基本的に「織りの作品」であったのに対し、狂言装束は「染めの作品」が中心であった。その意味では、「織り」と「染め」のあいだには、上で説明したような、単純な工程上の違いのみに還元されない、芸能の格式における上下関係も確認できる。素材もまた、能装束が絹糸ならではの光沢が重視され、全体として重厚さや繊細さが求められたのに対し、狂言では、麻の平織に染色のなされる肩衣(かたぎぬ)の装束が中心であり、衣装においても軽妙洒脱・自由闊達な味わいを旨とした。このような衣装は、召人・従者の階層に属して当時の庶民を代表する「太郎冠者」が主人公として登場し、権威の座にある大名や僧侶らの思いもよらぬ俗悪さ加減や無教養ぶりを暴露するなど大いに活躍し、そこに拍手喝采し、また滑稽と諧謔を味わおうという「狂言」という演劇にまことにふさわしいものであった。南蛮貿易による鉄砲の伝来によって、合戦の形態や刀剣の姿は急速に変わっていった。鉄砲に対抗するため甲冑が強化され、大規模な合戦が増えたため、刀剣も長時間の戦闘に耐えるべく、従来の片手打ちから両手で柄を握る姿となり、身幅広く、重ね厚く、大切先のものが現われた。これが天下一統後の豪壮な「慶長新刀」を生み出す土台となっている。一方で、大軍のなかで自分を識別させるための変わり兜が武将のあいだで流行したのも、この時代であった。甲冑の分野では、鉄砲の使用と戦法の変化に対応するため、より動きやすく、簡便、軽量かつ強固なものが求められた。こうして成立
出典:wikipedia
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