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松山人車軌道

松山人車軌道(まつやまじんしゃきどう)は、宮城県志田郡松山町(現・大崎市)にあった人車軌道、およびその運営会社である。営業は1922年(大正11年)から1928年(昭和3年)までで、廃止とともに「人車軌道」社名のまま乗合バス事業を開始した。1945年(昭和20年)に運輸局より企業統合の指令を受け、仙北鉄道に吸収されて会社解散した。室町時代の応永8年(1401年)、鎌倉公方から大崎平野の志田・玉造・加美3郡の奉行に任命された遠藤盛継は、大崎平野の南辺の大松沢丘陵北東麓の当地に千石城()を築いた。以降約200年間、遠藤氏が居城としたが、安土桃山時代の天正19年(1591年)に遠藤氏が転封され、石川昭光、古田重直が領主を歴任した。慶長8年(1603年)、仙台藩の地方知行により茂庭良元が領主となるが、明暦3年(1657年)に茂庭定元が上野館()に居館を移した。千石城の城下町は「松山」と呼ばれ、大崎平野各地や松島方面、仙台平野から大松沢丘陵を越える街道などが集まり、宿場機能も持った。1889年(明治22年)4月1日、城下町・松山を擁する千石村は、周辺の金谷村・須摩屋村・次橋村・長尾村とが合併して松山村となり、翌1890年(明治23年)3月15日に町制を施行して松山町となった。同年4月16日、日本鉄道(現・JR東日本東北本線)が延伸され、旧城下から直線距離で北に約3km、鳴瀬川を挟んで対岸の場所に小牛田駅が開業した。このとき同線は、大松沢丘陵東端を迂回し、旧・千石村の東隣の旧・金谷村を南北に縦貫する形で敷設された。日露戦争を機に1906年(明治39年)公布の鉄道国有法によって日本鉄道が国有化されると、1908年(明治41年)12月25日、旧・金谷村の同線に松山町駅が開業した。1918年(大正7年)9月29日、交通運輸の拡充を掲げる原内閣が成立すると、1919年(大正8年)5月1日に仙台鉄道管理局が新設され、1920年(大正9年)5月15日には鉄道院が鉄道省に昇格した。このような行政の変化に当地の住民がどのように影響されたかは不明だが、同年10月、松山町駅前から町役場や郵便局などがある旧城下までの軌道敷設を申請するに到った。後に社長となる松本善右衛門は各地の馬車鉄道や人車鉄道を視察した結果、近距離を輸送する場合は馬を飼育するため経費がかかる馬車鉄道よりも人車鉄道のほうが経済的であると判断した。ただ人車軌道としては開業が後発であり、鉄道省や内務省では「いまさら人車鉄道ではなく馬車鉄道にすべき」と意見があった。これに対し会社の回答は「馬力では収支が償わないので後日変更するので認めてほしい」とした結果、将来速やかに人力から他の動力へ切り換えることを条件に認可された。そのため車両も保存されており、図面も残っていたため、後に復元も可能となった。なお、旅客のほかに貨車も所有し、貨物営業も行っていた。人車としての営業は6年で終了しており(決算自体は黒字であったが、上記のようにもともと人力を長く続ける予定はなかった)、「人車」社名のままバス事業を開始し、松山町駅を起点に陸前古川駅、鹿島台駅へ路線バスを運行していた。2009年(平成21年)2月5日、通商産業省が松山人車軌道の保存線路と保存・復元車両を近代化遺産に認定した。※運行停止時点※運行停止時点1日約15往復の運行で平均80人の乗客を運んでいた。片道約2.5kmを移動するのに要した時間は約15分であり、移動速度は10km/hほどであった。運賃は大人20銭、小人10銭となっていた。車体の大きさは全長1.82m、幅1.21m、高さ1.82mとなっていて、定員は8人であり、満員時には15〜16人が乗車できた人車を、全部で4両所持していた。一説には、かつて帝釈人車鉄道(現・京成金町線)で使われていた車両が笠間人車軌道を経て松山人車軌道へ来たものだとも言われているが、笠間人車軌道で使われていた車両と松山人車軌道で使われていた車両では窓の数など車体構造が異なっている。4両のうち2両は廃止時に解体されたが、残りの2両と複製された1両を合わせた3両が2010年1月現在でも以下の場所で保存されている。

出典:wikipedia

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