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伊豆の踊子 (1974年の映画)

『伊豆の踊子』(いずのおどりこ)は川端康成の同名小説を原作とした1974年制作の日本映画。同名小説の6度目の映画化作品で、山口百恵映画主演第一回作品である。山口百恵は最初は歌唱力が充分でないと判断され、映画出演は補強策として考えられたといわれる。当時の山口百恵はヒット曲に恵まれず暗中模索状態であった。山口百恵の最初の出演映画は、松竹映画『としごろ』であったが、これは「脇役ながら目立つ女の子」という扱いだった。これに続く主演第一作は、ホリプロ= 東宝提携作品となり、 ホリプロ傘下のホリ企画制作で『野良猫ロック』シリーズを手がけていた笹井英男がプロデュースすることになった。笹井は元日活のプロデューサーで、当時はホリ企画の副社長となり、大林宣彦とマンダムのCMなどを作っていた。『伊豆の踊子』製作の前に百恵がグリコのCMに起用され大林が百恵のCMを作ることになった。このCMシリーズで百恵がお兄ちゃんに対する憧れを持つという企画が上がり、その相手役として「隣の青年」というイメージが出され、大林が「笑うと目がキラッと光って歯がキラッと光るような子がいい」と要望し、笹井プロデューサーが「よそに預けている子がいる」と三浦友和を連れてきてCM起用を決めた。本作『伊豆の踊子』も笹井が、先に大林に監督を打診したが、百恵が忙しすぎて撮影に取れるのは3日しかないと言われ大林が断った。結局新人のデビューなので安定した「文芸路線」が採用され、堀威夫ホリプロ社長と笹井が旧知の元日活の監督・西河克己に依頼した。西河は日活のロマンポルノ移行後、テレビ界に移っていて、劇映画監督は5年ぶりだった。百恵の相手役は東宝が新聞広告を出して、約四千人の応募があり、その中から三十数人を選び東京に呼んで書類選考が行われた、応募者の中に現役の東大生・新保克芳がおり、配給の東宝も宣伝しやすい「東大生でいこう」と決まりかけていたが、名古屋弁の強い新保に西河が反対し「芝居の経験がある者にしたい」と、結局先のグリコのCM映像を見て西河が三浦を強く推し三浦の起用を決めた。公募最優秀の新保は「見知らぬ高等学校生」役でワンシーンのみ登場している。その後は映画とは無関係な道を歩んでいたが2005年のホリエモン騒動の際に、ライブドアの顧問弁護士としてブラウン管に登場した。 東宝とホリプロは「文芸作品」を構想し、幾つかの候補の中から東宝サイドは『伊豆の踊子』を希望した。しかしホリプロサイドは、初めての主役の百恵に、一種の時代劇的な役柄は不向きで、それよりも地に近い高校生役の青春ものの方が無難ではないか、また歌手であるからにはレコードも同時発売したいが『伊豆の踊子』というタイトルでは百恵の歌の傾向と違い過ぎると最終的な決定をしかねていた。意見を求められた西河は、安定したネームバリューのあるタイトルに寄りかかった方が成功率が高い、映画の主役ならテレビに出ている山口百恵とは全く異なった、様変わりしたコスチュームで出演した方が得策であると進言し、協議の結果『伊豆の踊子』で行くと決定した。他に西河には候補にあがった文学作品の中では『伊豆の踊子』の芝居が一番難しくないし、1963年に吉永小百合主演で『伊豆の踊子』を一度撮っており、その経験で準備期間の少ないスケジュールで撮影の態勢を整えることが出来るなどの計算もしていた。最初ホリプロでは1975年の1月末から撮影に入る予定で調整を進めていたが、東宝が1974年11月23日の封切に固執した。この時期の公開は捨て週間にあたる。そのため無理やり百恵のスケジュールをひねり出し、百恵の撮影に与えられた日数はやっと一週間だった。全撮影日数も20日間で、1963年の『伊豆の踊子』に比べて半分の予算と撮影日数だった。その為、ロケは伊豆には行かず、山歩きの好きな西河がよく知っていた奥多摩で全て撮影した。撮影が終わりかけたころ、東宝が正月映画に変更したが追加撮影は出来なかった。百恵の過密スケジュールで共演者から不満も聞かれた。このような状況の中で、当時56歳の西河は持ち前の職人芸で随所に斬新な工夫を織り込みながら抒情あふれる一編にまとめ上げたと評された。スタジオ撮影は笹井と西河が日活に籍を置いていた関係で、気心と経済性を考慮し東宝砧撮影所を使用せず、日活調布撮影所を使用し、以降もこのパターンが踏襲された。百恵が岩風呂の場面で脱ぐのではないか、という気をもたせた宣伝も功を奏し、『エスパイ』との二本立てで大ヒットした。松竹の"寅さん"『男はつらいよ 寅次郎子守唄』を向うに回しての百恵の大健闘で、東宝の「青春映画路線」は大成功。ホリプロにも数千万円の配当がころがりこみ、以降、東宝とホリプロの蜜月が始まる。ヒットの要因は、百恵の人気プラス企画と分析された。百恵主演映画第一弾の予想以上の大ヒットでホリプロは以降 "百恵友和コンビ"による文芸路線を敷く。東宝の「青春映画路線」も順調に推移し、翌1975年の青春映画総決算は東宝の全配収の約半分にあたる20数億円を稼ぎ出した。1975年は洋画と邦画の配収比逆転のあった年で、東宝にとって青春映画は数少ないヒットコンテンツだった。

出典:wikipedia

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