撫州市(ぶしゅう-し)は中華人民共和国江西省に位置する地級市。江西省の中東部に位置し、鷹潭市、上饒市、南昌市、宜春市、吉安市、贛州市、福建省と接する。市域を撫河が貫く。257年(太平2年)、臨川郡が設置された。南北朝時代梁は臨川郡の一部に巴山郡を設置した。589年(開皇9年)、臨川郡及び巴山郡に新に撫州を設置、洪州総管府の管轄とし、撫州の初見となった。五代十国時代になると昭武軍と改称されたが、宋朝が成立すると撫州と建昌軍に分割され江南西路の管轄とされた。元代には撫州路、建昌路にそれぞれ改編、別に南豊州が設置されている。1363年(至元23年)、撫州路は臨川府と改称されたがまもなく撫州府とされた。同年には建昌路も肇昌府と改められ更に建昌府とされた。明朝が成立すると元制の撫州府、建昌府を継承、清末まで沿襲された。1913年(民国2年)、中華民国政府は府制を廃止、江西省には4道81県が設置され、旧撫州府及び建昌府の各県は豫章道の管轄とされた。1916年(民国15年)に道制は廃止、各県は江西省直轄とされたが、1932年(民国21年)には行政督察区制度が施行され、旧撫州府、建昌府管轄県は第5、7、8、11区の管轄とされ、1935年(民国24年)の行政区画変更後は第7区とされた広昌県を除き第8区の管轄とされた。1930年(民国19年)以降、中国共産党は黎川、資渓、広昌、南豊、宜黄、楽安の各県にソビエト政府を樹立、閩贛省及び江西省の管轄とされ、1932年7月には東郷珀玕一帯にソビエト政権を樹立し贛東北省の管轄とし、第二次国共合作まで独自政権を樹立していた。その後の国共内戦の結果、1949年5月9日に共産党は撫州の実効支配権を確立、7月1日に撫州分区を設置した。1950年9月13日に撫州分区は撫州区と改称、1952年8月には更に撫州専区、1967年3月には撫州地区、1968年2月に撫州専区、1971年1月22日に撫州地区と改称された。2000年6月23日、地級市への改編に伴い撫州市の設置が決定され、10月20日に撫州市人民政府が成立した。下部に1市轄区・10県を管轄する。鉄道道路撫州市人民政府
出典:wikipedia
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