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捷号作戦

捷号作戦(しょうごうさくせん)は、太平洋戦争中に日本の大本営が立案した作戦計画の1つである。マリアナ沖海戦に勝利を収めたアメリカ軍は1944年7月9日にサイパン島を占領し絶対国防圏を突破して、その内懐に対し次なる攻勢への動きを見せつつあった。日本本土とインドネシア周辺の資源地帯の間の拠点が占領される事は、本土への資源還送航路の停止を意味し、これは軍はもとより国家経済の壊滅に繋がる。加えて海軍にとっては艦船を動かすには大量の重油を必要とするため、残存する艦船がすべて行動不能になる恐れがあった。そのため連合艦隊の残存戦力、陸海軍の航空兵力、そして陸軍の地上兵力を投入し、来襲するアメリカ軍を迎え撃つことを骨子とする『陸海軍爾後ノ作戦指導大綱』を7月24日に裁可した。作戦の流れは、陸海の基地航空兵力によって敵艦隊を漸減、続いて第一機動艦隊により米機動部隊を牽制し、その間に戦艦を主力とする水上艦隊を来攻地点に突撃させ艦砲射撃によって輸送船団や上陸軍に打撃を与え、陸軍がこれを殲滅するという一大作戦であり、陸海軍の完全な一致協力を前提とした。7月26日、陸海軍の作戦の秘匿名は「捷号作戦」とされた。名称は「捷」の字が戦いに勝つという意味を持つことに基づいている。ただでさえ開きつつある戦力差に、南方兵力のほぼ全てを投じ貴重な空母を囮として使用したこの作戦は必勝を前提とした作戦であった。捷号作戦は予想される決戦方面によって4つに区分された。これらのうち捷一号作戦は、アメリカ軍のレイテ島への進攻を受けて1944年10月18日に発動された。。発動されなかった作戦は後に天号作戦として再構成された。以下、概ね時系列に沿って詳述する。あ号作戦後の次期作戦の検討は大本営がサイパン放棄を決めた6月末から始められ、合同研究の結果は下記の『陸海軍爾後ノ作戦指導大綱』として7月21日決定、24日裁可された。(原文はカタカナであるが、ひらがなに直し、一部漢字等を平易なものに改めた)第一 方針第二 要領として来攻する敵を撃破して極力之を確保す24日には、7月18日から3日間行なわれた研究に基づいて陸海軍の航空兵力運用に関する協定が締結された。大要としては敵機動部隊の事前空襲に対しては航空兵力の温存を図って兵力の漸減程度にとどめ、上陸が開始された際に一気に大兵力を投じるというものであった。指揮については陸上戦が主体の場合は陸軍の航空軍の指揮下に海軍の航空艦隊が、海上戦闘が主の場合はその逆とするように取り決められた。(原文はカタカナであるが、ひらがなに直し、一部漢字等を平易なものに改めた)一 航空作戦指導方針二 航空兵力配備及び運用三 各方面に於ける陸海軍航空指揮関係及び作戦担任四 航空決戦指導の基本要領五 航空基地の使用六 通信暗号、情報、気象七 航空燃料弾薬の補給及び給養八 陸海軍現地指揮官間の協定(下記の別紙第一、第二には各捷号作戦別に各部隊の基本配置が記載されている)上記の裁可を大元とした大本営の指示に基づき、連合艦隊司令長官より作戦計画に関する連合艦隊令が8月上旬に順次発令された。これらは連合艦隊作戦要綱その他から成り立つが『戦史叢書 海軍捷号作戦』によれば現存が確認されていない文書もあるという。前年に発令された『第三段作戦命令』は状況が大幅に変化したためこうした動きに連動して廃止された。また、文中にあるように基地航空部隊の支援の元水上艦隊が突入するという内容面で新規性の高い作戦であった為、関連する戦策などの改訂もあったと考えられている。8月4日、この作戦要綱を元に具体的な施策を示したものとして下記の『聯合艦隊捷号作戦要領』が定められた。これは戦後第二復員省が捷一号関係に絞って下記のように纏めた。8月24日、一部が訂正されたがその本文は発見されていない。本作戦では作戦発動後連合艦隊司令長官が海軍の全部隊を統一指揮することとされ、書面の上では権限の大幅拡大が図られた。この一例として実際に10月18日に捷一号作戦が発動された際、作戦海面近海に所在する資源輸送船団などに艦隊随行の命令を予告、発令している。また、下記の作戦要領においては第一機動艦隊は第二艦隊と第五艦隊を指揮下に収めており、第五艦隊は南西方面艦隊を間に挟まず連合艦隊(第一機動艦隊)の指揮下にある。(文中で「右にもとづく」とあるのは原文が縦書きであるため)上記の諸計画を前提とし、連合艦隊作戦参謀であった神重徳はマニラに移動、11日に第二艦隊参謀長小柳冨次らと打ち合わせを行った。この際の両者の作戦目的の解釈については、戦後議論の対象となり、様々な評価がなされた(詳細はレイテ沖海戦を参照)。この作戦は日本軍の残存兵力のほぼ全てを投じた作戦であるにも関わらず、様々な不備が重なり大敗を喫した。まず、台湾沖航空戦を始めとする幾つかの前哨の航空戦では殆ど戦果を挙げることなく大量の航空機を損失した。次に、連合軍の通商路攻撃の為フィリピンを始めとする決戦予定地への増援も著しく遅延していた。このことにより計画策定時と投入予定兵力に大きな差が生じた。また、戦果の誇大報告により中央の情況認識も混乱した。 但し、陸軍側史料を用いた近年の研究では、レイテ沖海戦直後、軍令部から参謀本部に対し、日本海軍の被害状況、米残存兵力、検討後の戦果が迅速に伝えられていたことが明らかにされている。このため、レイテ島に連合軍が上陸した際、日本側は想定より更に劣った兵力差の元作戦を行なう事態になり、海軍は敵上陸船団の撃滅に失敗した(詳細はレイテ沖海戦)。一方陸軍は当初の決戦地をルソン島としていたが、大本営の命令により急遽レイテ島に変更され、兵力をレイテ島に輸送する途中に輸送船の多くが撃沈された(詳細は多号作戦、レイテ島の戦い)。その後ルソン島にも連合軍が上陸し、日本軍は装備や食料を失いながらも主にゲリラ戦で抵抗したが、制空権を手にし、重装備且つ情報と補給の行き届いた米軍の前ではまともな抵抗は行えず、加えてフィリピン人の反乱軍や現地民族の襲撃に遭い大半が全滅した(マニラの戦い他)。基本的に作戦計画に関する記載があるものを列挙。作戦実施中の出来事などその他の事象の文献に関してはレイテ沖海戦他の文献に関する項を参照のこと。

出典:wikipedia

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