ピート・サンプラス(Pete Sampras, 1971年8月12日 - )は、アメリカ・ワシントン出身の元男子プロテニス選手。自己最高ランクは1位でありテニス史上に残る名選手である。4大大会優勝数14回はロイ・エマーソンを抜き当時歴代1位記録。(現在2位タイ記録)ウィンブルドン優勝7回、全米オープン優勝5回は共に歴代1位タイ記録。1993年から1998年まで年間最終ランキング1位6年連続は歴代1位記録。ギリシャ移民の子としてワシントンに生まれたサンプラスは、オーストラリアの往年の名選手であるロッド・レーバーに憧れ、7歳からテニスを始めた。14歳まではバックハンド・ストロークを両手打ちしていたが、当時のコーチであったピート・フィッシャーの指導で片手打ちに変更した。フィッシャーはサンプラスに「世界トップのサーブ・アンド・ボレーヤーで、バックハンドを両手で打つ選手はいない」と提案し、往年の名選手ドン・バッジのグリップを観察するため、彼の自宅を訪れたという逸話が残っている。1988年に17歳でプロ入り。プロデビュー戦は、同年2月のアメリカ・フィラデルフィア大会で、そこでは1回戦でサミー・ジアマルバ(アメリカ)に敗退する。翌週のニューズウィーク・カップ1回戦でラメシュ・クリシュナン(インド)に勝ち、ツアー公式戦初勝利を収めた。4大大会デビューは1988年全米オープンで、ここでは1回戦でハイメ・イサガ(ペルー)に敗退している。サンプラスが初めて脚光を浴びたのは、1989年全米オープンの2回戦で大会前年優勝者のマッツ・ビランデルを破った試合である。ビランデルは1988年にウィンブルドンを除く4大大会年間3冠を獲得して世界ランキング1位に登りつめたが、1989年に入ると著しいスランプに陥り、全米オープン開幕時には世界ランキング5位まで落ちていた。この大会では、サンプラスは第11シードのジェイ・バーガー(アメリカ)との4回戦まで勝ち進んだ。1990年2月、2年前にプロデビュー戦を戦ったフィラデルフィア大会の決勝でアンドレス・ゴメス(エクアドル)を破り、ATPツアー初優勝を果たす。1990年全米オープンでサンプラスは第12シードから勝ち上がり、決勝戦でライバルのアンドレ・アガシを 6-4, 6-3, 6-2 のストレートで破り、「19歳28日」で4大大会初優勝を飾った。こうしてサンプラスは、1890年の全米選手権に「19歳6ヶ月9日」で優勝したオリバー・キャンベル(1871年 - 1953年)の大会最年少優勝記録を「100年ぶり」に更新する偉業を成し遂げた。それから3年後、サンプラスは1993年4月にジム・クーリエを抜き、初めて世界ランキング1位になった。同年のウィンブルドン決勝でクーリエを 7-6, 7-6, 3-6, 6-3 で破って初優勝を果たした時から、王者サンプラスの時代が始まる。それから1993年全米オープンと1994年全豪オープンでも優勝して4大大会「3連勝」を果たしたが、1994年全仏オープンでは準々決勝でセルジ・ブルゲラに敗れ、4連勝を逃す。苦手な赤土コートの全仏オープンは、その後もサンプラスにとって“鬼門”の大会であった。この大会では1996年のベスト4進出が自己最高成績で、その準決勝ではエフゲニー・カフェルニコフに 6-7, 0-6, 2-6 のストレートで完敗している。サンプラスは、自分を世界ランキング1位に引き上げてくれたコーチのティム・ガリクソンを非常に慕っていた。そのガリクソンが1995年全豪オープンの期間中に脳腫瘍で倒れたため、サンプラスは準々決勝のジム・クーリエ戦で「コーチのために頑張れ」という観客からの声援を受け、泣き出したこともあった。クーリエはサンプラスの体調が悪いと勘違いし、「明日に(試合を)してもいいんだよ」と声をかけたという。この大会では決勝でアンドレ・アガシに敗れて準優勝に終わったが、優勝したアガシもスピーチで「本当に辛い状況なのにいいテニスをしたよ、メイト(=僕の友達)」と賞賛を贈った。ガリクソンは1996年5月3日に死去したため、その後はポール・アナコーンに師事した。サンプラスは優勝回数を重ねるにつれて、過去の名選手の記録を意識しながら奮闘するタイプの選手になった。彼の最終目標は4大大会通算「12勝」を挙げたロイ・エマーソン(オーストラリア)の記録を破ることであり、長い間忘れられていたエマーソンの名前が“サンプラスの目標”として語られるようになった。彼には貧血症の持病があり、それに伴って30歳頃からは体力が急激に低下していった。2000年全米オープン決勝戦でマラト・サフィンに 4-6, 3-6, 3-6 で完敗して“サンプラスの決勝不敗神話”が崩れた試合や、2001年ウィンブルドン4回戦でロジャー・フェデラーに 6-7, 7-5, 4-6, 7-6, 5-7 (試合時間:3時間41分)で敗れた試合が、サンプラス時代の終焉を印象づけることになる(1993年から2000年までの8年間で、サンプラスがウィンブルドン優勝を逃したのは、リカルト・クライチェクに準々決勝で敗退した1996年だけであった)。さらに2001年全米オープン決勝戦でもレイトン・ヒューイットに 6–7, 1–6, 1–6で完敗し、この年は1992年以来の4大大会無冠に終わる。アメリカの後輩としてアンディ・ロディックも台頭していたが、対するサンプラスは2年以上にわたり男子ツアーのタイトルから遠ざかっていた。しかし2002年全米オープンで、長年のライバルであり続けたアンドレ・アガシを決勝で破り、31歳にして6年ぶり5度目の全米優勝を果たす。こうしてサンプラスは2000年ウィンブルドン以来の優勝を飾り、彼の4大大会優勝回数は「14勝」となった。4大大会決勝戦進出はキャリア通算で男子歴代3位の「18度」となり、「14勝4敗」で終わった。その後は試合に全く出場せず、2003年全米オープン開催中に正式に引退を表明した。大会開幕日の8月25日、コート上でサンプラスの引退式典が行われた。2007年から、サンプラスは30歳以上の現役引退選手を対象にしたシニア・ツアーに参戦を開始した。2009年のウィンブルドンで、ロジャー・フェデラーが通算15勝目を記録したことにより、14勝のサンプラスは男子歴代2位に後退した。ロジャー・フェデラーと並び、史上最高のオールラウンドプレイヤー。ビックサーブを軸に攻撃的なボレー・ストローク等1990年代のプレースタイルの象徴するプレイヤーである。 サンプラスの最大の武器はサーブである。ライバルのグランドストローカーであるアガシとの対戦では、サーブの調子で勝敗が左右された。ファーストサーブは、最速210~220キロの速度に加えコースも非常に読みにくく、重用な場面でのサービスエースを量産していた。セカンドサーブでも200キロ近い速度を出し、他のプレイヤーのファーストサーブ並の速度であった。しかし、決してセカンドサーブの成功率が低かったわけではない。相手コートに叩き付けたり、柔らかいタッチでネット際に落としたり、状況に応じて打ち分けることができ、アクロバティックなプレーはしないが、ミスが少なくチャンスボールを確実に決める技術を持っていた。特にコートに叩きつけるダンクショットは、サンプラスの代名詞であった。「ピストル・ショット」と呼ばれた彼のフラット系のストロークも強力。特にストロークの名手アンドレ・アガシとの打ち合いは壮絶であり、2000年代以降のストローカ同士の打ち合いと比較しても迫力で上回るほど名場面でもある。特にフォアのクロスの切り返しは彼の得意のショットであった。サンプラスは「男子テニス史上屈指のオールラウンダー」と称されている。その理由は、すべての要素で高い能力を示していたことにある。これらの選手に対し、サンプラスは、すべての要素で高い能力を有していたため、実質上記の2タイプの選手を融合した「ほとんどすべてのショットで絶対的にポイントが取れる」選手であった。そのため、状況に応じてオールラウンドな力を発揮し、多彩なプレーでポイントを奪った。彼のテニスは基本的に攻撃型であったため、球足が速い芝生(グラス)・カーペット(室内)・ハードコートは相性が良く、無類の力を発揮した。しかし球足の遅いクレーコート(赤土)では、鋭いショットを打っても相手に拾われることが多く、結果的に粘りのプレーが要求される。そのため、守備型のテニスではないサンプラスはクレーコートを苦手としていた。4大大会で14度もの優勝を飾ったサンプラスであったが、4大大会で唯一クレーコートで行われる全仏オープンだけは1996年のベスト4が最高成績で、優勝どころか決勝にすら1度も進出できなかった。真面目なサンプラスのプレースタイル・マナーは、華麗なライバルのアンドレ・アガシと比較されて“地味過ぎる”と非難されることもあった。あまりの完璧なプレーに“退屈の王者”と評されたこともある。そんな評価を一転させたのが、1995年の全豪オープンである。コーチのガリクソンのショッキングなニュースを試合中に知らされたサンプラスは、コート上で泣き出した。観客にとって、初めてサンプラスがコート上で人間味を見せた瞬間であった。これ以来、サンプラスに対するロボット的認知は変化し、今まで以上に人気がでた。テニスに必要な心技体をすべて兼ね添えていたサンプラスは、ロジャー・フェデラーをはじめとした多くの選手たちの理想と目標であり、彼らに大きな影響力を与えた。親指で汗をぬぐう、ワンプレーごとにストリングを整えるなどの習癖はサンプラスのトレードマークだった。※オープン化以降世界ランクトップ10在位経験者で10回以上対戦がある選手と世界ランク1位在位経験者を記載する太字の選手は世界ランク1位経験者であるアガシは、サンプラスの最強のライバルであり、「最強のオールラウンドプレイヤーとストローカーの対決」、「1990年代最高のライバル」と言われた関係である。対戦成績はサンプラスの20勝14敗であるが、両者得意のハードコートではサンプラスの11勝9敗で、ほぼ互角である。サンプラスは4大大会優勝14回、世界ランキング1位286週等輝かしい実績を持つが、アガシも4大大会優勝8回、世界ランキング1位101週に加え、キャリアグランドスラム達成、オリンピック金メダリスト等輝く実績を持っている 。両者ジュニア時代からのライバルであり、サンプラスが「最初の4大大会優勝した 1990年全米オープン 決勝」「最後の4大大会優勝であり引退試合となった 2002年全米オープン 決勝」の相手は、いずれもアガシである。 4大大会では、全米4回(サンプラス4勝0敗)、全英2回(サンプラス2勝0敗)、全豪2回(アガシ2勝0敗)、全仏1回(アガシ1勝0敗)と計9回対戦している(計サンプラス6勝3敗)。多くが名勝負とされることの多い両者の対戦であるが、代表例として次の2試合が挙げられる。他に1995年全豪オープン決勝等、1994年~1995年の対戦も名勝負とあげられることもある。1980年代後半の芝の王者ベッカーと、1990年代芝の王者サンプラスは、サンプラスの12勝7敗。共にサーブ&ボレーを得意としつつストロークも強力なオールラウンダー同士の対決となった。両者は、高速ハードコートにおいて、アガシ以上のライバル関係にあり、サンプラスの6勝7敗と1990年代前半屈指のカードである。特に1996年年間最終戦は、5セットマッチのフルセットでサンプラスに軍配が上がったが、ベッカーの4連続サービスエースでの立ち上がり、見ごたえ満点の壮絶な打ち合い、5セット中3セットがタイブレークまでのもつれ込み等の1990年代最高の試合の1つである。しかし芝のコートでは、 1993年準決勝、 1995年決勝、 1997年準々決勝と3回対戦したウインブルドンで、いずれもサンプラスが勝利。1980年代後半の芝の王者であったベッカーは、キャリア晩年になったとはいえ、1990年代の芝の王者である全盛期サンプラスに一度も芝で勝つことができず、世代交代を明確化したカードでもある。パトリック・ラフターは16戦中サンプラスの12勝である。
出典:wikipedia
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