高田 博厚(たかた ひろあつ、1900年(明治33年)8月19日 - 1987年(昭和62年)6月17日))は、日本の彫刻家、文筆家。長くパリに住み、幅広い交友関係を持った。娘の田村和子は詩人田村隆一の元夫人。石川県鹿島郡矢田郷村(現七尾市岩屋町)に誕生。父安之助と母敏子の間の三男。1903年(明治36年)、父の弁護士開業で福井市に移り、1907年、同市順化小学校入学。1910年、父没。1912年(明治45年)(12歳)小学6年生で、父の蔵書を読み漁る。ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』で精神に火をつけられる。1913年、県立福井中学(現福井県立藤島高等学校)へ入学、入学試験では100人以上の中で10番以内で合格している。国語、漢文、英語などの視察の際には高田に朗読させた。美術・文学・哲学に熱中した。1915年(大正4年)(15歳)学校の勉強はしなかったが、英語の能力が高く、シェイクスピアを原文で読みだす。ゲーテ、トルストイ、ドストエフスキーなどは英訳本を読み、中学の英語の先生を驚かせていた。1918年(大正7年)(18歳)、中学を卒業して東京へ移り、年長の高村光太郎、岸田劉生、岩田豊雄、中川一政、尾崎喜八、高橋元吉、片山敏彦、岩波茂雄らをつぎつぎに知る。17歳も年が違うのに高村光太郎は高田を対等に遇した。人を訪ねることをしない高田のその後数十年の東京での生活で、高村一人が訪ねていく人であった。1919年、東京外国語学校イタリア語科に入学、1921年(大正10年)(21歳)出席時間不足で落第、退学。尾崎喜八の勧めで『ミケランジェロの書簡』を訳出し、『白樺』誌上にこの年の1月号から翌年の7月号まで掲載。このころ、制作を絵画から彫刻に転じた。高村光太郎から借りた彫刻台で、トルソなどを作り始める。高村が見に来る。それ以降、作るものは高村に見せ、高村も作りかけのものは決して人に見せないのだったが、高田には見せるようになった。この年、沢田庚子生と結婚。1922年(22歳)、コンディヴィの『ミケランジェロ伝』の翻訳を、岩波書店より初出版。1925年、山羊を飼いその乳の販売で自活する共産村を、仲間と下高井戸に開き、3年後に解散した。1928年(昭和3年)、当時非合法の共産党員をかくまい、警察に留置された。このころ、武者小路実篤、草野心平、谷川徹三、古谷綱武、中原中也、小林秀雄、大岡昇平、中野重治、梅原龍三郎らをも知る。1931年(31歳)、妻と4人の子を残して渡仏。帰国を控えた片山敏彦に帯同され、ロダン、マイヨール、ブールデルらの作品を詳しく見、フランスの師友に紹介され、優れた知性層の中に導きいれられる。冬、スイスのロマン・ロランに招かれ、彼の家に一週間滞在していたマハトマ・ガンジーをスケッチした。1932年(32歳)高村光太郎から「君が去ってしまって、彫刻のことを語り合える者は誰もいない」という便りをもらう。以降27年近く、おもにパリに暮らし、シニャック、アラン、ヴィルドラック、デュアメル、ジュール・ロマン、ルオー、ジャン・コクトーらと付き合い、その塑像を制作した。かたわら、多くの記事を日本へ送り、生活の助けにした。妻に離別された。1937年、在欧日本人向けに、謄写版刷りの日刊『日仏通信』を始めた。フランスのみならず全欧、北アフリカ、トルコあたりまで購読者ができる。1938年『パリ日本美術家協会』を設立した。1940年(昭和15年)(40歳)毎日新聞のパリ兼ヴィッシー特派員になる。パリ外国記者協会副会長の任に就き、戦争末期に会長に推される。フランスがドイツに占領されていた5年間、高田はヴァティカン法王庁のパリ支所と連絡を取り正確な情報を得ていた。1944年(44歳)、パリ解放の直前、駐独大使大島浩の命令で、在仏日本人とともにベルリンへ移され、1945年のドイツ降伏後ソヴィエト軍に保護された。単身パリを目指し、1年半の収容所暮らしを経て、1946年暮に戻った。1948年から、カンヌ国際映画祭日本代表を10年続けた。1949年、日仏通信再開と共に読売新聞嘱託となった。1950年、故国の母、没。1957年(昭和32年)(57歳)秋、帰国し、東京に住む。以後、新制作協会会員、日本美術家連盟委員、日本ペンクラブ理事、東京芸術大学講師などを勤めた。1959年(昭和34年)(59歳)高村光太郎賞選考委員となる。『高村光太郎』を作る。1966年(66歳)、鎌倉市稲村ヶ崎に移った。大野常と再婚した。1967年と1970年、パリを訪れた。1987年(昭和62年)6月17日、満87歳を目前に没。
出典:wikipedia
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