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坂本敏美

坂本 敏美(さかもと としみ、1952年1月8日 - 2008年2月10日)は、昭和後期に活躍した日本の元騎手。現役当時は名古屋競馬場所属。時代は若干前後するものの、道営競馬の千島武司、栃木の福田三郎などと共に、馬にまつわる事故で騎手生命を絶たれた昭和期の地方競馬の悲運のトップジョッキーとして知られる。北海道静内郡静内町で生まれる。生後まもなく父親を亡くし、母親の再婚先の家に養子に入るという少年時代を送る。中学三年の時、義理の兄が競走馬の育成牧場をしていた縁があって名古屋競馬の安達小八調教師に誘われ、騎手となることを決意。那須の騎手教養所(現在の地方競馬教養センター)長期12期生として入所、1968年に騎手デビュー。同期に塚田隆男調教師などがいる。3年後の1971年以降、1973年、1977年を除き、全ての年度において名古屋競馬のリーディングジョッキーとなり(成績は下記参照)、東海地区で最初の2000勝騎手にもなった(勝ち馬ピチピチボーイ)。ちなみに、1977年度にリーディングジョッキーの座を逸した理由は、騎手騎乗免許の更新を忘れていたことに起因するものだった。とりわけ、アラブでの実績が目立つ。1983年の全日本アラブ大賞典では、トキテンリユウ(名古屋・安達小八厩舎)に騎乗して制覇。翌、1984年の同レースでは、12連勝中のキンカイチフジ(笠松・加藤保行厩舎)にテン乗りで騎乗しながらも、当時脂ののっていた桑島孝春騎乗ローゼンガバナーとの競り合いを「持ったまま」でクビ差競り落として連覇を達成した。ちなみに同レースにおいて、南関東所属以外の連覇達成騎手は、坂本が最初である。この他、名古屋競馬伝統のアラブ重賞競走であった名古屋杯では、スーパーライトやシナノリンボーといった馬に騎乗して制覇している他、1971年に創設された東海優駿(現・東海ダービー)の初代優勝騎手であり、同レースは翌年も制覇している。運命の年となる1985年、連対率は実に6割9分を記録していた。「前の馬の後ろ足と、自分の馬の前足が絡まないようにぎりぎりのタイミング計ってね、さっと横にずらして抜いたのよ。神業。」というほどの技術を持っていた。この日、悲劇が坂本を襲った。名古屋競馬第8レース、坂本はハイセイヒメに騎乗したが、4角付近でハイセイヒメは突然バランスを失った。理由は心臓麻痺によるものであったが、御しきれなくなった鞍上の坂本は馬の右側へと転倒。すると、ハイセイヒメもまた、坂本が転倒した右側へと倒れこみ、坂本は馬の下敷きになった。結果、ハイセイヒメは死亡。坂本は何とか一命こそ取り留めたものの、その後、頚椎損傷と診断された。頚椎損傷により、坂本は首から下の肢体は不随状態となった。7月19日を最後に騎手生命も絶たれた。しかも、坂本は、その後も過酷な日々を送った。笠松競馬の専門紙、競馬エースのコラムによると、当時の坂本のメールアドレスは「sakabu-60.7.19@...」というもので、坂本自身の1985年7月19日へのこだわりが感じ取れる。騎手生命を絶たれた坂本は後に離婚を余儀なくされ、所属していた名古屋競馬側との補償交渉も思うように進まなかった。坂本は、ハイセイヒメの体調がおかしいため、次回のレース(上記の7月19日のレース)は自重するように調教師らに進言していたが、結局聞き入れられなかった。さらに当時、名古屋競馬側の騎手に対する補償制度はないに等しいもので、騎手には競馬場という仕事場を貸しているだけのところという認識しかされていなかった。この2つの要件を訴状として、坂本は主催者である名古屋市と、ハイセイヒメの調教師を相手取って損害賠償訴訟を起こすも事実上敗訴。和解段階で名古屋市側から見舞金として提示された100万円を手にしたのみであった。坂本は後に、福井県勝山市にある身体障害者施設でリハビリ生活を送るようになったが、2008年2月10日、心筋梗塞のため死去した。56歳だった。なお、騎手時代の通算戦績は、8897戦2483勝(勝率:0279)だった。なお、前掲の競馬エースのコラムによれば、坂本は首から下が不随となりながらも、バランスをとって電動車椅子を操作して遠出したり、口に棒を加えてパソコンを操作するなど、活動的に過ごしていたという。

出典:wikipedia

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