沖島(おきのしま)は、日本海軍の海防艦。艦名は対馬海峡の沖、玄界灘に浮かぶ沖ノ島から命名と推測される。ちなみに艦名は初代であり、2代目は敷設艦「沖島」である。海防艦「見島」は同型艦。元は1896年(明治29年)にロシアのセント・ピータースブルグ造船廠で進水したロシア海軍のアドミラル・ウシャコフ級海防戦艦「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン(General Admiral Apraksin)」。「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」はバルチック艦隊に所属して日露戦争に参加、ニコライ・ネボガトフ少将指揮下の第3艦隊(第3太平洋艦隊)としてウラジオストク回航中の1905年(明治38年)5月28日、日本海軍に降伏(日本海海戦)。6月6日、日本海軍は鹵獲したロシア軍艦5隻を改名。「オリョール」は戦艦「石見」、「インペラートル・ニコライ1世」は戦艦「壱岐《壹岐》」、「アドミラル・セニャーヴィン」は海防艦「見島」、駆逐艦「ベドーヴイ」は「皐月」、そして「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」は海防艦「沖島」と改名。同日附で5隻(石見、壱岐、沖島、見島、皐月)はそれぞれ軍艦籍に編入された。本艦は、佐世保鎮守府在籍。同年11月16日、アプラクシン(沖島)のロシア海軍将校より贈られた蓄音器譜面や幻灯種板が、西郷従義(当時海軍中尉)を通じて、裕仁親王(昭和天皇、当時4歳)・秩父宮雍仁親王・高松宮宣仁親王に献上されている。主砲は艦前方に45口径25.4cm連装砲塔を1基、艦後方に45口径25.4cm単装砲塔を1基の計3門。第一次世界大戦では第二艦隊・第二戦隊に所属し青島方面で作戦に従事する。1922年(大正11年)4月1日、除籍。各艦と共に艦艇類別等級表からも削除。本艦は雑役船となり、佐世保海兵団の練習船として使用された。1924年(大正13年)に廃艦となり、翌年に日本海海戦戦跡保存会に払い下げられた。福岡県津屋崎町の町長・議会及び福岡県知事柴田善三郎の請願により、海岸に係留され記念館として保存する予定であった。だが、荒天時に座礁破壊された。その後1939年(昭和14年)に現地で解体された。
出典:wikipedia
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