三橋会所(さんきょうかいしょ) は、江戸時代、江戸の十組問屋を中心とする、菱垣廻船積江戸十組問屋仲間の組合事務を取り扱った会所である。名称の由来は、江戸十組問屋が永代橋、新大橋、大川(吾妻橋)の3橋の架け替え修繕の請負をすることを申し立てて、その設立が許可されたからである。この3橋の架け替え修繕は、莫大な費用を要したため、江戸幕府は、新大橋と永代橋を取り払うことを考えたほどであった。永代橋は享保4年以来、新大橋は以来、大川橋は安永3年以来、民間に委ねて橋銭をとらせた。また、新大橋と永代橋の維持には、助成地を賜って賄わせた。しかし、文化4年に深川八幡宮の祭礼の際、非常な雑踏のために永代橋が破壊し、多数の死傷者を出してしまう。このため、3橋を民間にまかせておいてはならないという議論が浮上してきた。その頃、菱垣廻船で大坂から荷物を引き受けていた江戸の十組問屋が、株仲間免許を願い出た。これは冥加金10200両を上納し、これをしばらく貸し下げることを求め、これを三橋会所の元金に組み入れ、貸し付けをいとなみ、その利子で三橋の修繕をしたいと願い出たものであった。文化6年にその願い出が許可されてから、橋銭の徴収は中止された。十組仲間は、江戸の定飛脚問屋・大阪屋茂十郎(杉本氏)が頭取となって組織されたが、茂十郎の計画はつぎのようなものであった。以上のように、すこぶる大がかりなものであった。当初、十組問屋は順調に発展し、茂十郎は、十組問屋頭取や、町方御用達となる。さらに、3人扶持を賜って、名字を許され、奉行所では地割役に次ぐ立場にもなった。十組はその後、朝鮮人来聘につき、対馬まで菱垣船12艘を無賃で差し出し、文化7年・8年の米価下落のときには、買持米に尽力するなど、功労少なからずであった。そして、文化10年には株札下付となった。当時の株数は1995株、軒数で1271軒、これが65組に分かれるようになった。株数が定まると、新規加入者は明株(あきかぶ)を引き受けるほかなかった。無株の者が荷主と取引すると、問屋から訴えてその営業を停止させた。三橋会所の買付金の中に、幕府から冥加金を貸し下げることは、文化6年8月に初めての冥加金を納めたとき、3箇年間据え置き、4箇年目返還の条件でその半額を貸し下げ、同年10月に残りの半額貸し下げた。ただし、翌文化7年および、それ以降の貸し下げ回数や期日はあきらかでない。三橋架け替え修繕の褒美として、室町3丁目に町屋敷を下されたため、その地代は会所の収入であったと考えられる。三橋会所の資金は、幕府の貸し下げ金と三橋手当積立金および差加金の3口で、文化8年におよそ70000両であった。会所では事務をとらず、寄合を口実に、坂本町の料理茶屋・伊勢屋太兵衛方へおもむき、酒食をこととした。その1ヶ月の支払いは30両から100両ほどで、同店では、十組以外の客を断ったほどであった。やがて、茂十郎の上納金使い込みや、室町拝領屋敷取計方の不正が暴露され、文政2年6月に三橋会所は廃止される。茂十郎は、町方御用達および十組頭取をとりはなたれた。以後、三橋の経費は町年寄の手で冥加金から支出した。しかし、天保の改革で十組問屋は解散を命じられ、冥加金上納は中止された。それ以後は、町方付属地助成地の地代で、三橋の修繕を行った。毎年、金724両の予定額であったが、これは修繕費である。架け替え費は、町会所の積金から支出することになり、明治時代にいたった。
出典:wikipedia
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