『ブリトン人の歴史』(ブリトンじんのれきし、)は、イングランド、アングロサクソン朝の七王国時代に編纂された、ケルト系ブリトン人が国を支配していた時代についての歴史書。原書は828年後まもなく成立。伝ネンニウスの著。アーサー王伝説に関する最古級の資料として重視されている。従来出版されてきた編書・訳書では伝ネンニウス作とされてきたが、これに関しては疑義があり、近年では作者不明の著書として扱う傾向が顕著になっている(#作者と年代の特定の節は後述する)。原作の写本は、11世紀以降、40点ほどが現存している。作中では、ブリテン島の開拓がトロイアからの渡来人によっておこなわれたとし、ブリテンの国名も、アイネイアースの子孫ブルートゥスにちなんで命名されたと説く。また、「ジェフリー・オブ・モンマスが、『ブリタニア列王史』を創作するときに使用した一大資料」でもあり、こうしたトロイア起源説などブリテン先史の部分は、そのまま中世の英国の史書(例:Brut of England こと The Chronicles of England, 1400年頃)に引き継がれている。この作品はまた、アーサー王に関する具体的な内容を確認できる最古の資料としても重要視され、アーサー王が戦ったという12の会戦を記録する(うち2つの会戦は『カンブリア年代記』で年代が特定できる)。『ブリトン人の歴史』の作中では、伝説のアーサーは一介の「軍の指揮官」 ("dux bellorum") または「戦士」("militis") にすぎず、「王」とされてはいないことも(その作成期の古さの傍証として)留意すべきである(#アーサー王伝説の節を参照)。また、ある会戦ではアーサーが聖母マリアの像を肩に担いだという描写があるが、近代の解説者は、アーサーの盾にマリア像が掲げられていたという意味であるはずを、ウェールズ語では「肩」と「盾」の単語が近似するため取り違えのだ、と考察している校訂版の編者であるラテン学者テオドール・モムゼンは、作品を次のようなように序・七部に分けた。前述したように『ブリトン人の歴史』では、アーサーは王とされず、軍事指揮官であり、身分もそう高くはないと説明されている。編者モムゼンの分類では、アーサー本人に関する記述は、たった一章(§56章)のみである。だが広義にみれば、作中に登場する「マーリン・アンブロジウス」(§42章)(もっとも「マーリン」の名は使われないが)はもちろん、ヴォーティガン王(§31-49章)も、立派なアーサー王伝説の重要人物らである。ヴォーティガンがブリテンの国王に即位し、ウォーデンの血筋をひくホルサとが率いるサクソン人を招きいれた。「キリスト受難より447年(+35=西暦482年)」のことである(31章)。ブリタンニアへ来たガリアの司教の聖人伝。ヴォーティガン王は、自らの娘と通じて(婚姻して)子をなしたが、このことを僧侶のゲルマヌスになじられると、娘をそそのかし、僧侶こそがその父親だ、と偽証させた。しかしゲルマニウスは動じず、その子にたいし、「そなたの父となってしんぜようぞ、坊よ。そしてカミソリとハサミと櫛を(お前が)もってくるまで、お前を手放すまいぞ。お前にはおまえの実父にこれらのものを渡す権利があるのじゃ」と言った。すると坊は、ヴォーティガンのところにいき「お父様はあなたです。私の髪を切ってください」と言った。王は赤面し、怒りをあらわに立ち去った(つまり、ブリトンでは、上述のように、男の子が一人前になると、元服の儀式として、父親による髪切りの典礼がおこなわれていたことがわかる。ウェールズの物語『キルフッフとオルウェン』でも、主人公がアーサー王に髪切りの儀式を願い出る)。ヴォーティガンはスノードン山の近くにディナス・エミリュス(Dinas Emrys)という城砦を築こうとしたが、うまくいかなかった。これを解決するために彼はアウレリウス・アンブロシウスと戦ったという。モンマスのジェフリーはこの話を彼とマーリンの話に置き換えている。56章にアーサー王が関わったとされる12の戦いを並び立てた詩の要約と思われるものがあるが、いくつかはアーサー王との関連性がはっきりとしない。ここに書かれる戦場は、ほとんど場所の特定ができていない。は、スコットランド南部をかつて覆った広大森を指すとされる。グルニオンとはウィンチェスターの事ではないかとしばしば指摘される。「地域(レギオン)の都市」が指すところとしては現イングランド北部のチェスターないしウェールズ南部のカーレオン(Caerleon)だと思われている。ブレグオインとは英語に直すと「白き丘」、すなわちダービーシャーのホワイト・ピーク(White Peak)の可能性が挙げられている。バドン山についてはイギリス国内でいくらでも候補が挙がっている。『ブリトン人の歴史』の『ブリトンの驚異について』 "De mirabilibus britanniae"(略して『驚異』 "Mirabilia")は、ブリトン各地に所在する、14ないし13の驚異的な名所を挙げた列記文である。続いてアングルシー島 ("Menand insulae") の驚異と、アイルランドの驚異を少数挙げている。 『驚異』はじつは、もともとの作品にはなかった部だと考えられているが、本篇からあまり時を経ずして成立したと考えられており、多くの写本に付帯しているが、『驚異』を欠いた写本もある。『ブリトン人の歴史』、驚異の部、§73章には、アーサー王関連の驚異が2件、紹介されている。(* 注:ハーレー本では、アーサーの息子の名はアニルAnirであり、一昔前の書籍ではそちらの綴りが使われてきたが、近年では異本読みのアムルAmr(ウェールズ語形の Amhar により近い)を採用するようになっている。また、猪名も同様にハーレー本Troyntよりも異読みTroitの方が好ましい。これらはフレッチャー(1906年)らの指摘による。)『ブリトン人の歴史』が作品として成立した年代は、828-830年と特定されている。作中の第16章に「メルメヌス(Mermenus) 王の在位4年目」とあるので、作品はこれ以前ではありえない。これはグウィネズ国王のこととされ、在位4年目は、史家のあいだで古くとも828年とされるので、遡及可能な年代上限がこれで特定される。次に第4章に、執筆当時が「キリスト受難より796年目、その受肉(降誕)より831が経過ししている 」とあるのも、上の年代とほぼ合致する 。『ブリトン人の歴史』の一部の写本群には、ネンニウスによる序文、あるいはネンニウスによる弁明文 (apolgia) が述べられているため、この作品は、便宜上、伝ネンニウスの作、とされてきたが、早期の編者たちにも、この作品が必ずしもネンニウスを原作者に特定できないことはわかっていた。実際、作品が伝わる写本でも、様々な人物が作者とされている。これは以下に述べる。この作品の的な研究者、()は、「ネンニウス序文」は後世の偽作であると断定し、これはネンニウスのような作者が単独で著したものではなく、次第に加筆がされるうちに、のちの作品の姿を形成していった無名の作だと提唱する。ダンヴィルの見解支持がいまや趨勢になっているが、異論も唱えられている。過去にネンニウス作者説を論じたものに、リーバーマン () がある。近年では、『ブリトン人の歴史』を紹介または解説するときに、「古編者が手当たり次第の資料を積み上げて作成したものだ」と述べるのが慣例のようになっている。この文句は「ネンニウス序文」のL系統本で「ネンニウスの弁明文 (apologia)」と題される文章からとられている (編訳にも掲載)。以下意訳する。考古学者 (1971年)は、この序文を引用して作品を「積み上げ "heaped together"」と称して説明したが、この時期を境に、この表現を使う例が増えたようである。しかしアルコックよりも古い用例も散見される。このほかにも編纂者の意図にあったのは、中世アイルランドではすでに作成されていた偽史『アイルランド来寇の書』等にならい、史料と「同期をとった(シンクロナイズした)」史書仕立ての文献を、伝説をもとに作り出すことであった。
出典:wikipedia
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