鉄原郡(チョルォンぐん、てつげんぐん)は、朝鮮半島中部の江原道にある郡である。軍事境界線を挟んで、韓国と北朝鮮の双方に同名の行政区域がある。江原道の中西部に存在し、京畿道に接する。江原道では少ない平地である鉄原平野に位置する。この平野は周囲を高い山脈に囲まれた溶岩台地であり、平坦で水も豊富なことから穀倉地帯として知られていた。朝鮮半島を横断する軍事境界線の中央部にあたる。人間による開発の手が及ぶことがなくなった軍事境界線付近は、渡り鳥の飛来地としても有名である。北朝鮮国境に近く、韓国で最も寒さの厳しい地域であり、厳冬期には-20度を下回ることも少なくない。古代には高句麗に属した領域で、鉄円または毛乙冬非と呼ばれた。統一新羅時代に景徳王によって鉄城に改称された。新羅末の動乱期には弓裔が鉄円(鉄原)に首都を置いた。高麗が建国されると鉄原と改められ、次いで東州と改められた。朝鮮王朝時代以来、鉄原には都護府が置かれ、付近の行政の中心となり、江原道に属した。植民地時代は郡内を京元線が貫き、鉄原駅からは金剛山電気鉄道が分岐して金剛山観光の拠点となっていた。鉄原邑には京城地方法院鉄原支庁・鉄原中学・鉄原高女・鐘紡の工場があり、江原道北部地域の交通・行政・農商工業の中心であった。日本が敗戦を迎えると、38度線以北であったこの地にはソ連軍が入り、全域が北側の統治体制の下に置かれた。朝鮮戦争時、特に双方が休戦交渉に向けて有利な状況を確保しようとした戦争末期において、鉄原・金化・平康を結ぶ地域は「鉄の三角地帯」と呼ばれ、寸土を争う激戦地となった。鉄原のかつての中心部は、現在の韓国側の領域にあるが、激戦によって廃墟と化した。南北ともに、旧中心部から離れた場所に「鉄原」の名を持つ町を再建している。韓国側では鉄原駅跡に旧鉄原を描いた看板が立てられ、往時がしのばれている。1931年の鉄原邑昇格以降、以下の邑面が置かれていた。旧鉄原邑が壊滅したあと、葛末邑に新たに作られた中心市街は、新鉄原と呼ばれている。現郡域の西側半分が旧鉄原郡で、東側は旧金化郡の南部にあたる。郡域が東西に伸びたため、軍事境界線の全長の約28%が郡を通過することとなった。4邑7面からなる。郡庁は葛末邑新鉄原里にある。郡守はチョン・ホジョ()農業地帯で、鉄原五台米とよばれるブランド米の生産で知られる。郡庁公式サイトによれば、人口は1995年に約65,000人とピークを迎えたが、離農によって減少している。戦跡をめぐり国防意識を高める「安保観光」が行われている。北朝鮮側の「鉄原邑」は韓国の鉄原邑(朝鮮戦争前の郡庁所在地)から大きく離れた場所にあり、新羅時代から安峡と呼ばれた地であった。李氏朝鮮時代は一時安朔と呼ばれた。1952年の行政区画再編で周辺地域を編入した関係で、郡域は朝鮮戦争前に比べて西側に移動している。おおむね1914年以前の安峡・朔寧(西面・南面を除く)に該当し、元からの鉄原郡だった部分は北面の大部分と於雲面の一部のみである。1邑・36里を管轄する。この節の出典
出典:wikipedia
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