ヴィス島 (-とう、クロアチア語:Vis, ギリシャ語:"Issa"、イタリア語及びドイツ語:"Lissa")は、アドリア海に浮かぶクロアチア領の島。スプリト=ダルマチア郡に属する。クロアチア本土から最も遠く離れた島である。面積は90.26平方キロメートル、人口3,617人(2001年調査)。島内で最も標高が高いのはフム(Hum)で、587メートルである。島には2つの町と、小さな自治体がある。中心の町ヴィス(Vis、人口1,960人)、コミジャ(Komiža、1,677人)は、どちらも海岸部にある。内部の小さな居住地はポドセリェ(Podselje)、マリニェ・ゼムリェ(Marinje zemlje)、ポドシピリェ(Podšpilje)、そしてポドストラジェ(Podstražje)である。ヴィス島には新石器時代から人が定住していた。紀元前4世紀、シラクサの僭主老ディオニシウスが島に植民地イッサ(Issa)を建設した。のち、イッサは独立した都市国家となり、独自の通貨と他所への植民地を持つまでになった。紀元前1世紀、島はイリュリア人の一つリブルニア人()に占有された。東ローマ帝国時代にはダルマチアの一部となり、925年にクロアチアの君主トミスラヴ1世が、当時イエス(Ies)と呼ばれた島の支配権を引き継いだ。クレシミル1世(Krešimir I)が死んだ後、継承戦争が勃発し、セルビア公チャスラヴ・クロニミロヴィッチ()配下のパガニア人(南ダルマチア地方に定住していたスラヴ人の一つ)が948年に島を手に入れた。しかし、パガニア人が支配できた期間は短期に終わり、東ローマ人らが支配権を回復した。セルビアの支配者ステファン・ネマニャと弟のストラチミルは、1184年と1185年の2回にわたってヴィス島に攻め込んだ。中世に入ると支配者がたびたび入れ替わり、ヴェロ・セロ(Velo Selo)という主要な定住地をつくったヴェネツィア共和国の支配下に、長く置かれた。ヴェネツィア時代、そしてオーストリア帝国に支配された間、島の名前はリッサ(Lissa)であった。後になって、海岸部の定住地が人口を増していった(現在の町ヴィス)。行政上ヴィス島は数世紀の間、フヴァル島とひとくくりの自治体となっていた。ヴィス島北部の海に面した地は、2度の戦闘の舞台となった。第二次世界大戦中、ヴィス島はユーゴスラビア抵抗運動の指導者ヨシップ・ブロズ・ティトーの潜伏する場所の一つであった("ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議#第2回会合を参照")。戦後、ユーゴスラビア人民軍は島を主要海軍基地の一つにした。クロアチア独立後、海軍施設のほとんどを再利用せず、多くの打ち捨てられた建物は公共の目的で利用されている。島の主要産業は農業(ブドウ栽培が主)、漁業、水産品加工業、観光である。島の耕地のおよそ2割はブドウ畑が占める。土地原産のワイン用ブドウ種が島内で栽培される。ヴィス島周囲の海は魚の種類が豊富で、特に青魚(イワシ、サバ、アンチョビ)が水揚げされる。17世紀のコミツァ漁民は、Falkušaという地元伝来の漁船を発達させ、20世紀半ばまで用いていた。
出典:wikipedia
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