内山 愚童(うちやま ぐどう、1874年5月17日 - 1911年1月24日)は、日本の仏教者・僧侶(曹洞宗林泉寺住職)・社会主義運動家。幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人。新潟県北魚沼郡小千谷町(現・小千谷市)において、宮大工で木形職人であった父・直吉、母・カヅの長男として生まれる。幼名は慶吉。1885年(明治18年)、小千谷小学校卒業。1890年(明治23年)10月、父が死去する。内山は本来、長男として家業を継ぐはずであったとされるが、1893年(明治26年)頃、小千谷を出郷した。井上円了の住み込みもしていたとの説もある。1897年(明治30年)4月、神奈川県愛甲郡小鮎村(現・厚木市上古沢)の宝増寺の住職、坂詰孝童のもとで得度し、天室愚童を名乗った。1899年(明治32年)、曹洞宗第十二学林卒業(第二学林卒業との説もある)。1904年(明治37年)2月、神奈川県足柄下郡温泉村大平台(現・箱根町大平台)にある林泉寺の住職となった。1903年(明治36年)11月、幸徳秋水、堺利彦らによって平民社が結成され、機関紙として『平民新聞』が創刊された。社会主義者としての内山の名は、翌1904年(明治37年)の『平民新聞』第10号(1月17日)の「余は如何にして社会主義者となりし乎」という記事の中で初めて見られる。内山はこの記事で、社会主義を奉じるようになった理由について、「一切衆生悉有仏性」等の仏典の文言が社会主義の主張と一致したためだと述べている。内山は、『平民新聞』紙上で平民社の同志を林泉寺に招き、堺利彦や石川三四郎をはじめとする多くの社会主義者が寺を訪れている。また、同紙に「兵士の母」と題して、日露戦争で徴兵された兵士の母親に同情する、非戦論的な記事を寄せている。『平民新聞』廃刊後も、後継の雑誌『光』や、福田英子によって創刊された『世界婦人』などにおいて、内山の寄せた記事がいくつか確認できる。一方で内山は、林泉寺のある大平台においても社会主義活動を行っていた。石川三四郎によれば、内山は当地の青年たちに期待しており、青年たちに向けて林泉寺で集会を開いたり、『平民新聞』などを回読させることもあったという。青年組合にも関与していたことも分かっている。また、官憲側の資料によれば、児童を集めて無報酬で教育を施し、社会主義思想に基づいた説明を加えることもあった。しかし、児童に読み書き算盤を教えることはあったものの、思想的な話は一切しなかったという証言もある。1905年(明治38年)、真宗大谷派の僧侶伊藤証信によって、無我愛運動が提唱された。この運動に対しては、綱島梁川や徳冨蘆花らの文化人のほか、堺利彦や石川三四郎といった社会主義者からも反響が寄せられたが、特に内山は、伊藤の無我苑への入苑を一時は真剣に考えたほど、この運動に傾倒している。無我苑の機関紙『無我の愛』には、内山から伊藤に宛てられた書翰がいくつか掲載されており、また無我苑閉苑後に伊藤に宛てられた書翰も、複数確認されている。内山が伊藤の無我苑に倣って、「修道苑」を建設する計画を立てていたことも明らかになっている。また、1906年(明治39年)5月、田中正造らとともに谷中村問題に携わっていた石川三四郎は、問題に携わる中で生じた煩悶を鎮めるため、内山の林泉寺を訪れ坐禅を組んでいる。その結果、石川は、「十字架は生まれながら人間の負うたものだ」との回心に至った。林泉寺の住職としては、檀家に対して、葬祭仏事に参加するだけではなく、曹洞宗の教えに触れて処世に生かすよう求める覚書(1906年2月1日付)を提出している。また、寺院株を批判する上書(1904年5月30日・同31日付)を、近隣寺院に書き送っている 。1907年(明治40年)から1908年(明治41年)にかけて、内山は幸徳秋水らが主張する直接行動論に傾倒する。当時の日本社会党は、運動理論をめぐって、議会政策派と直接行動派とに分裂していた。1907年10月、上京した内山は、両派の集会にそれぞれ参加し、当時は議会政策論を唱えていた片山潜に対して批判的な感想を抱いている。1908年8月12日から同14日にかけて、赤旗事件の裁判傍聴のため郷里の土佐より上京してきた幸徳が、その途上、林泉寺を訪れている。このとき内山は、幸徳が翻訳したクロポトキンの『麺麭の略取』の原稿を一読している。同年9月30日、内山は上京し幸徳のもとを訪れ、幸徳に革命の方法を尋ねている。このとき幸徳は、洋書を繙きながら、革命の際に交通機関を破壊することなどの説明をしたとされる。同年10月、内山は天皇の神聖を否定する内容を含むパンフレット『無政府共産』を秘密裏に印刷した。同月末、内山は平民社を訪れ、森近運平より提供された『大阪平民新聞』の読者名簿を頼りに、『無政府共産』を各地の同志に変名で発送した。しかし、『無政府共産』の送付を受けた者の多くは危険を感じて処分し、さらにこれを配布した者5人が不敬罪に問われている。また、同年11月には、『帝国軍人座右之銘』、『道徳否認論』といった秘密出版物も作成している。1909年(明治42年)1月14日、平民社を訪ねた内山は、幸徳、森近らとの雑談の中で、「一場ノ談話」として、革命のために皇太子に危害を加えることを主張したとされる。翌15日には管野スガを訪ね、爆裂弾製造の研究用としてダイナマイトの提供を申し出ている。さらに翌16日には、横浜の社会主義団体である曙会を訪れ、革命実行の決意を糾したり、革命の方法として暴動や暗殺、“倅”(皇太子)を「遣つ付ける」ことなどを述べたとされる。ただし内山自身は、曙会で“倅”云々の話をしたことを否定している。同年4月15日、内山は永平寺の夏安居に参加するため、林泉寺を発った。同17日、永平寺への途上、名古屋の社会主義者、石巻良夫のもとを訪れ、革命の決意を糾したり、“倅”の話をしたとされる。内山は翌18日に永平寺に入ったが、同年5月18日、健康を害したため永平寺を出た。このときより、警察の尾行がつくようになった。同21日、大阪において、『大阪平民新聞』の協力者である三浦安太郎、武田九平に会い、爆裂弾の研究や、皇太子暗殺について話したという。さらに翌22日には、神戸において、『平民新聞』の読書会である神戸平民倶楽部の会員、岡林寅松、小松丑治に会い、皇室を斃して革命を実行することを主張したとされる。しかし、平出修が指摘したように、警察の尾行がつく中でそのような重大な話が行われたとは疑わしく、皇太子暗殺の話などについては、検察側の捏造ないし拡大解釈であった可能性がある。同年5月24日、内山は林泉寺へ帰る途上で逮捕され、同29日、出版法および爆発物取締罰則違反で起訴された。同年7月6日、林泉寺の住職を諭旨退職。1910年(明治43年)4月5日、出版法違反で禁錮2年、爆発物取締罰則で懲役5年の判決が下され、東京監獄で服役することとなった。同年6月21日、曹洞宗は内山を宗門擯斥(僧籍剥奪)に処している。1909年(明治42年)5月に発覚した幸徳事件(大逆事件)に関連して、服役中の内山も同年7月より取り調べを受け、その中で『無政府共産』の著者が内山であることが発覚した。また、天皇暗殺計画を立案したとされる長野の社会主義者、宮下太吉に対する取り調べにより、宮下の明治天皇暗殺の動機の一つに、内山から送付された『無政府共産』があったことが判明した。同年10月18日、大阪や神戸における放言を根拠に、皇太子暗殺を謀議したとして、内山は大逆罪で再逮捕され予審請求がなされた。同年12月10日、事件の公判(非公開)が大審院において開始された。内山は公判において、革命の手段としては暴力的なものではなく総同盟罷工を想定していたこと、皇太子に関する発言などはなかったこと、宮下の計画に関与していないことなどを主張した。1911年(明治44年)1月18日、内山を含む24名の被告人が死刑判決を受けた。同24日、内山ら12名の被告人の処刑が執行された(管野スガのみ翌25日執行)。享年36。宮下・管野・新村忠雄・古河力作の4人は計画犯だということが確実視され、幸徳秋水も計画自体は関知していたという説が濃厚だが、内山を含めた他の7人については、大逆罪に関しては無罪であったという説が強い。遺言により、内山の遺骨は林泉寺の墓地に埋葬されたが、墓碑銘などはなく、自然石だけが置かれた。石川啄木は、内山の火葬の様子を伝えた新聞記事に衝撃を受け、その旨を自身の日記(1月25日条)に記している。被告人が処刑された直後の1911年(明治44年)2月1日、徳冨蘆花は一高において、「謀叛論」と題して事件に対する政府の対応を批判する講演を行った。講演の草稿の中で、徳冨は内山に言及し、事件の始末に走る仏教教団を批判している。社会主義者との関係があった田中正造は、被告人処刑の後、泰然として刑に臨んだ内山の宗教的鍛錬を称える発言を残している。1993年(平成5年)4月13日、曹洞宗により内山の擯斥処分が取り消され、名誉回復がなされた。2005年(平成17年)、林泉寺で愚童忌が行われ、顕彰碑が建立された。また、2013年(平成25年)11月16日には、内山の故郷である小千谷に顕彰碑が建立された。絓秀実と同郷であり、そのことが『「帝国」の文学──戦争と「大逆」の間』を絓が著す動機の一つとなった。このほか、出版法違反・爆発物取締罰則違反で取り調べを受けた際に、横浜監獄で記した手記が残されている。
出典:wikipedia
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