道頓堀角座(どうとんぼりかどざ)は、江戸時代は「角の芝居」とも呼ばれた芝居小屋であった。戎橋側から浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座の5つの芝居小屋を「五つ櫓」(いつつやぐら)又は「道頓堀五座」と呼んだ。1758年(宝暦8年)、歌舞伎の舞台に不可欠である「回り舞台」が初めて採用され、以降全国的に広まる。1920年(大正9年)松竹の経営に移る。以降松竹系の演劇興行が行われたが、戦災で焼失。戦後「SY角座」となり洋画専門の映画館として復興した。1958年(昭和33年)、演芸プロダクションの新生プロダクション(勝忠男代表)と上方演芸(秋田實代表)は、それまで芸人を供給していた千日前の歌舞伎地下演芸場が4月一杯で閉鎖される事となったため、代替の出演場所を探して松竹を頼る事となった。松竹は角座を演芸場に改装の上5月に再開場、大規模な映画館の設定をそのまま生かして演芸場に転用した事で、従来の演芸場にはない1000席規模の「マンモス演芸場」が誕生した。さらに芸人供給元の新生・上方両社は松竹の出資を受けて合併、松竹新演芸(後の松竹芸能)が発足した。演芸場となってからの角座は、引き続き松竹が経営し興行を行ってはいたが、実際の番組編成や芸人の配給等一切は松竹芸能が執り仕切っていた。このため、松竹芸能の盛衰と運命を共にする事となり、1960年代~1970年代は上方演芸の殿堂として隆盛を誇っていたが、1980年代の漫才ブームでは一転して吉本興業の花月劇場チェーンに水を空けられる結果となった。この事態に対応すべく、表記を「KADOZA」と改め、場内の提灯を取り外して出演者も若手芸人に絞る(それまではかしまし娘など大ベテランのホームグラウンドだった)といったリニューアルを断行したが、結果は裏目に出てしまい客離れが加速。以降ジリ貧状態が続いた末1984年(昭和59年)に閉鎖される。1986年(昭和61年)、飲食店を含めた複合ビルとして改築され、松竹系の映画館「角座1」「角座2」(当初「SY角座」「松竹角座」)として再開場。以降、映画興行を継続してきたが、なんばパークス(大阪難波の大阪球場跡地を南海電気鉄道が再開発した一大複合施設)に松竹がシネマコンプレックスを設ける事となったため、競合を避けるべく2007年(平成19年)4月18日をもって閉鎖され、劇場の歴史に一旦終止符を打った。なお、2004年(平成16年)1月1日より角座ビル地下一階の一部を松竹芸能が賃借して、「ライブスペースB1角座」として演芸場を復活させた。しかし、松竹本社が角座ビルそのものの土地建物を売却する方針を固めた事から、2008年(平成20年)5月31日の昼夜の興行を最後に「B1角座」は閉鎖された。しかし、松竹芸能は2011年(平成23年)5月14日に、同社の東京での初の劇場として、新宿区の元・小劇場「THEATER/TOPS」跡に、「松竹芸能 新宿角座」をオープンし、所在地は大きく異なるものの、演芸の「角座」の名跡を復活させた。2013年(平成25年)7月28日、角座ビル跡地にダイハツ工業がメインスポンサーとなった「松竹芸能 DAIHATSU MOVE 道頓堀角座」が再開場した。座席数は全126席で、B1角座より幾分少ない。建物については、当面は5年間の運用を前提としているため簡素な造りのものとされ、建築費の削減が徹底されている。同建物内には演芸場に加え松竹芸能の本社も入居する他、俺のフレンチ・イタリアン等が入居する別棟と、イベントスペースを兼ねた「角座広場」を備える。開場から全盛期の頃の出演者他多数他東京から8代目桂文楽、6代目春風亭柳橋、2代目桂小文治、4代目柳亭痴楽、古今亭志ん朝等が出演。特に4代目痴楽は出演が多かった。ABCテレビが優先中継権を持っており、場内の提灯も提供していた。※ 座席数はすべて閉館時のもの。
出典:wikipedia
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