羽賀 準一(はが じゅんいち、1908年(明治41年)9月11日 - 1966年(昭和41年)12月11日)は、日本の剣道家。中山博道の道場有信館の高弟で、神道無念流剣術、夢想神伝流居合を学び、中倉清、中島五郎蔵と共に「有信館三羽烏」と呼ばれた。第二次大戦後も神道無念流剣術の流れを汲む戦前のままの剣道を続け、異色の剣道家として知られた。羽賀の剣道は現在、一剣会羽賀道場、日本剣道協会に受け継がれている。米穀店兼自転車店を営む父藤一、母チエの子として広島県比婆郡東城町(現庄原市)で生まれる。8歳のときに父が死去する。1921年(大正10年)4月、尋常小学校卒業とともに大阪の木工所へ丁稚奉公に出るが、重労働がたたり数年後に肺結核を患う。奉公先を後にして、母の再婚先の養父のもとで少年時代を過ごした。18歳の頃、陸軍戸山学校で助教を務めていた矢吹益一が帰郷し、在郷軍人会や青年団に剣道の指導にあたった。羽賀は矢吹から剣道を習い始め、矢吹が東京に戻ると羽賀も上京し、中山博道の道場有信館に入門した。宮内省皇宮警手に任官し、皇宮警察の道場済寧館で剣道の稽古に励んだ。1930年(昭和5年)、大日本武徳会から精錬証を授与され、同年済寧館で開かれた台覧試合にも出場した。剣道を習い始めてからわずか3年半、21歳での精錬証(現在の錬士相当)取得は当時でも異例のことだった。有信館に中倉清が入門した日、新参のくせに横柄な口のきき方をする中倉を、中島五郎蔵が懲らしめようとして、羽賀をけしかけて対決させた。ところが、羽賀と中倉は互角の格闘をして決りつかない。そこで、仕掛けた中島が入って止めた。これを機に3人に友情が生まれ、「有信館三羽烏」と呼ばれるようになる。1931年(昭和6年)、皇宮警察から警視庁に移籍し、剣道助教に就任するが、その気性の激しさから酒に酔ったあげく喧嘩を繰り返し、警視庁での立場は苦しいものになっていった。1934年(昭和9年)、有信館の兄弟子である内務官僚増田道義の招きで、朝鮮へ渡り、京城本町警察署に勤務した。京城帝国大学予科、京城法学専門学校、龍山憲兵隊の師範を歴任した。1945年(昭和20年)の終戦後、占領軍指令により大日本武徳会は解散し、武道は禁止され、師の中山博道も有信館を手放した。羽賀は剣道の命脈を保つため、鉄材商・土建業で働きながら、道場を転々として稽古を続けた。再び警視庁や各県警察から剣道師範として誘われたが、羽賀は断り通した。1952年(昭和27年)、全日本剣道連盟が発足。文部省の国民体育館で剣道講習会が行われるようになり、羽賀も参加する。羽賀を慕うものが多く集まり、やがて「羽賀道場」と呼ばれるようになった。羽賀は全日本剣道連盟の役職に就くことなく、後進の育成に力を注いだ。1954年(昭和29年)には千代田区神田に剣道具店「梅田号」を再興。稽古の後には決まって梅田号で、弟子たちとその日の稽古のことについて歓談した。戦後も神道無念流剣術の流れを汲む剣道を続け、大きく振りかぶっての渾身の打突、体当たり、投げ技、組討ちなどの荒技を奨励した。羽賀の稽古は、相手が殺されるのではないかと思うほどの激しさがあったといい、実際に肋骨を3本折られた者もいる。羽賀自身も我が身を打ち込み相手として積極的に弟子に提供し、毎朝の稽古の後には体中がアザだらけとなっていた。没後、全身に骨折の痕が見付かり、まさしく剣道と後身の育成に我が身を奉げたと言えるものであった。羽賀の没後、弟子たちは衆議院議員でもある園田直を中心として、一剣会羽賀道場を設立した。また、後に一剣会羽賀道場から分かれる形で、日本剣道協会も設立された。羽賀の弟子たちは、全日本剣道連盟の試合では禁止されている投げ技や組討ちを行う、戦前のスタイルを残した稽古を続けている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。