LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

カサブランカ (映画)

『カサブランカ』()は、1942年製作のアメリカ映画。第二次世界大戦にアメリカが参戦した1942年に製作が開始され、同年11月26日に公開された、親ドイツのヴィシー政権の支配下にあったフランス領モロッコのカサブランカを舞台にしたラブロマンス映画。監督はマイケル・カーティス。配給はワーナー・ブラザーズ。1943年に第16回アカデミー作品賞を受賞。監督のマイケル・カーティスは監督賞を、脚本のジュリアス・J・エプスタイン、フィリップ・G・エプスタイン、ハワード・コッチの三名が脚色賞を受賞した。文化的、歴史的、芸術的に重要なフィルムを保存するために、1989年に始まったアメリカ国立フィルム登録簿(National Film Registry)で最初にセレクトされた25本の1本である。アメリカ映画協会(AFI)が1988年から始めた、AFIアメリカ映画100年シリーズでは以下のとおりである。アメリカ映画ベスト100(1998年)の2位、スリルを感じる映画ベスト100(2001年)の42位、情熱的な映画ベスト100(2002年)の1位、アメリカ映画主題歌ベスト100(2004年)の2位(『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』")、アメリカ映画の名セリフベスト100(2005年)の5位(「Here's looking at you, kid.(君の瞳に乾杯)」)、感動の映画ベスト100(2006年)の32位、アメリカ映画ベスト100(10周年エディション)(2007年)では、順位を一つ落としたものの3位。65年経てもなお、不滅の人気を誇るロマンス・フィルムである。なお、映画スターベスト100(1999年)の男性1位にハンフリー・ボガート、女性4位にイングリッド・バーグマンが選ばれている。また、ヒーローと悪役ベスト100(2003年)の4位には、ボガートの演じたRickが選ばれた。米脚本家組合(WGA)は、1930年以降の映画の中より「偉大な脚本歴代ベスト101」の1位として選出した。なお、製作サイドも戦時情報局も、「この作品はプロパガンダ映画である」とは正式には一言も表明していないものの、下記のようなあきらかな反枢軸国(ドイツとヴィシー政権)シーンが多くちりばめられていることもあり、アメリカのエンターテインメント業界誌である「バラエティ」誌は、当時この映画を「見事な反枢軸国プロパガンダである」と評している 。ラブロマンス映画ではあるものの、アメリカも参戦した第二次世界大戦における国際的な問題を中心に置いて製作された作品であることもあり、上記のようにプロパガンダ的要素がふんだんに含まれている。作品内ではアメリカの敵国の1つであったドイツ人を徹底的に悪役として扱っているだけでなく、ドイツ軍に占領されたフランス本土と、北アフリカなどのフランスの植民地における親独政府であったフィリップ・ペタン率いるヴィシー政権を暗に非難し、ヴィシー政権に抵抗していた「自由フランス」を支持する「反独シーン」が多く登場する。なおドイツの同盟国であったイタリアは、カサブランカ駐在のイタリア軍将校が空港にシュトラッサー少佐を迎えに行くものの相手にされないなど、軽んじて扱われているが、一方カサブランカで事業を営むイタリア人事業家のフェラーリがリックの潜在的な協力者となるなど、軍民で相反する扱いとされている。なお枢軸国の主要構成国の日本は、太平洋戦線から遠く離れたカサブランカを舞台にしたこの作品内では扱われていない。1941年12月、親ドイツのヴィシー政権の管理下に置かれたフランス領モロッコの都市カサブランカ。ドイツの侵略によるヨーロッパの戦災を逃れた人の群れは、中立国のポルトガル経由でアメリカへの亡命を図ろうとしていた。アメリカ人男性のリック(ハンフリー・ボガート)は、パリが陥落する前に理由を告げずに去った恋人イルザ・ラント(イングリッド・バーグマン)と、彼が経営する酒場「カフェ・アメリカン」で偶然の再会を果たす。パリの思い出である『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』が切なく流れる。彼女が店を去って再び過去の痛みに苦しむリック。彼女の夫で、現在はドイツに併合されたチェコスロバキア人のドイツ抵抗運動の指導者ヴィクトル・ラズロ(ポール・ヘンリード)は現地のオルグと接触、脱出のチャンスをうかがっていた。フランス植民地警察のルノー署長(クロード・レインズ)は計算高い男だが、流れに逆らうように異郷で生きるリックにシンパシーを感じ、かつてスペインのレジスタンスに協力したリックに、ラズロには関わるなと釘を指す。現地司令官であるドイツ空軍のシュトラッサー少佐は、ラズロを市内に閉じ込める。イルザは、夫を助けられるのは闇屋のウーガーテ(ピーター・ローレ)からヴィシー政権の発行した通行証を譲り受けたリックしかいないと、必死に協力をお願いする。そして通行証を渡そうとしないリックに銃口さえ向ける。しかし引き金を引くことが出来ないイルザ。二人はお互いの愛情を確かめ合う。リックは、ラズロとイルザが通行証を欲しがっている事実をルノー署長に打ち明け、現場でラズロを逮捕するようにと耳打ちする。手柄を立てるために、約束の閉店後の店にやってきたルノーだが、リックの本心は、二人を亡命させるためにルノーを空港まで車に同乗させて監視の目を欺く点にあった。シュトラッサーを射ち殺してでも彼女を守ろうとするリックは、過去の痛みに耐えていた彼ではなかった。愛を失っても大義を守ろうとしたリックを前にして、実はレジスタンスの支援者であったルノーは、アフリカ内のレジスタンスの支配地域へ逃げるように勧めて、見逃すことにする。二人の未来に希望を持たせながら、彼らは宵闇の中へ消えていく。アメリカ映画協会 (AFI)選定の 「アメリカ映画の名セリフベスト100」(2005年)の中に以下のセリフがランクインしている。『カサブランカ』が製作された1942年はアメリカにおいて映画産業が戦時体制の重要な柱の一つとされた年である。1940年代前半はスタジオ・システムと呼ばれた製作、配給、上映の資本統合が継続していた黄金期である。ハリウッドの映画資本は、政府側の戦時要請よりも利潤追求を優先していたが、第二次世界大戦へのアメリカの参戦により協力体制をとっていくことになる。この背景には、アメリカ映画の主要な海外市場であったドイツや日本などの枢軸国がアメリカと交戦状態にあった上に、多くの市場がこれら枢軸国による占領により閉された点もある。スタジオ・システムが独占禁止法違反であると裁判で負けるのが確実になってきた点もある。しかし何よりも大恐慌の余波が襲っていた1930年代後半の孤立主義や、『怒りの葡萄』(1940年)のような名もなき労働者への賛歌は終わろうとしていた。時代の要請により、アメリカ人もヨーロッパへ関心をもたざるを得なくなっていた。また戦争は、大衆の好むメロドラマの枠を広げるには格好の題材でもあった。評論家にも懐疑的な孤立主義者が大義に目覚めていく姿が、アメリカを投影しているとする見方がある。山本武利や里見脩といったマスメディアと戦争の研究者は、本作とかつて存在した政府機関である戦時情報局()が主体となった、「ホワイトプロパガンダ」と呼ばれる宣伝工作との関連を紹介している。ルーズベルト大統領を中心に政府機関トップを横断した『心理戦局』は、その活動を始め、セクションの一つである陸軍でもジョージ・C・マーシャル参謀総長の強引な命令によりフランク・キャプラが責任者にされた。ジュリアスとフィリップのエプスタイン兄弟も、本作の脚本を途中にしたままワシントンへ移り、プロパガンダ映画『Why We Fight』へ駆り出されている。大戦後は再びアメリカ映画がヨーロッパ諸国で配給されるが、マーシャルの名前がつけられた欧州復興支援『マーシャル・プラン』により売上をアメリカへ持ち込めなくなった。これも一因としてヨーロッパ・ロケの映画が製作される。『ローマの休日』(1953年)もその一本だが、本来はキャプラが監督するはずだった。戦争中は戦意高揚映画を作らされ、大戦後は冷戦の影響により、1948年より始まった赤狩りの猛威に晒されたハリウッドで、自信を失っていたキャプラは、ハリウッド・テンのドルトン・トランボの脚本と知って、友人ウィリアム・ワイラーへ譲った逸話がある。リベラル派の多かった戦時情報局(OWI)は、1945年の戦争終了時に国務省に統合されることになる。製作のハル・B・ウォリスは、アフリカを舞台にした郷愁漂うラブ・ロマンスを意図していた。高校教師であったマレイ・バーネットとジョアン・アリスンによる上演されなかった戯曲『皆がリックの店にやってくる』をスクリプトとして、ウォリスはワーナーで製作を始めていく。監督のマイケル・カーティスはヨーロッパでのキャリアもあるユダヤ系ハンガリー人、カメラ(メイン)のアーサー・エディソンは『西部戦線異状なし』(1930年)でアカデミー撮影賞を受賞しているベテラン、脚本に参加したハワード・コッチは『宇宙戦争』(オーソン・ウェルズによるラジオ放送)に参加した劇作家である。ハリウッドは、以前からヨーロッパの映画産業から人材を引き抜いてきたが、この時代にも戦地を逃れた思想家、作家、写真家といった多くの人間が集まり、互いに影響を与え合っていたとされる。本作の俳優もスウェーデン出身のバーグマン、オーストリア出身のヘンリードがいる。イングリッド・バーグマンへの出演オファーは次のようなものだった。ハル・ウォリスが動いている間にワーナー側は主役のリック役をボガートから別の役者へ振り替えようとした。その中にはロナルド・レーガンの名も上がっていたが、会社の動きを悟ったハル・ウォリスは再びボギーを主役に持ってきた。クランクインの段階で脚本は完成しておらず、書き上げられたシーンを片端から撮影していくという方法が採用された。エプスタイン兄弟はキャプラに引き抜かれる形でワシントンに移り戻ってくるまでの間はハワード・コッチ一人に責任が負わされることになる。この混乱にボガートはいらついて楽屋でボヤいていた。。脚本の上がりによって出番が決まるため、ボガートの撮影がないときも珍しくなかったが、「今日の出番は一度だけ、むこうからこちらへ歩いてきて、うなずいてくれればいい」とカーティスから指示された。「それは一体何のシーンで、何に対してうなずくんだ?」と聞いても、カーティスにもそれはわからないということだった。この時撮影されたカットは、リックの「カフェ・アメリカン」で、客たちが「ラ・マルセイエーズ」を合唱するシーンで使用されたと言われている。ラズロを演じたポール・ヘンリードは、祖国オーストリアやイギリスの混乱にも悩まされていたが、大体亡命しようかと切羽詰まった女連れの男が、映画から出てきたような「白い麻の背広」なんか着る余裕はないだろうといらついて、楽屋でボヤいていた。。バーグマンの演じるヒロインが、ボガートとヘンリード、どちらと結ばれることになるかも、撮影直前になっても決まらなかった。ヒロインの気持ちがわからないため、監督にどのようになるのか聞いたが、監督は木で鼻をくくったような対応をした。そもそも芸術家タイプに惹かれるバーグマンを、徹底した職人のカーティス監督は最初から嫌っていた。このようなことはバーグマンをして「本当に困った」と途方にくれさせた。結局、二通りのラスト・シーンを撮影して、良い方を採用しようということになったが、先に撮影した方がスタッフの評価も高く、そのまま使用されることになった。これが現在知られているラスト・シーンである。バーグマンはこの映画を失敗作と考えて、長年忘れ去っていた。1974年にバーグマンがロサンゼルスでの講演に招聘されたが、その講演前にこの映画が上映された。映画が終わり、演壇に立ったバーグマンは「こんなに良い映画だったんですね」と述べた。ポール・ヘンリードの演じるラズロは汎ヨーロッパ提唱者で、「EUの父」と呼ばれるリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーを投影しているとする説がある。リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーは1922年にフリーメイソンになった。本作は、作品中に著作権表記があるものの公開時期が古く、リニュー(著作権更新手続き)が行われなかったことから、公開当時のアメリカの法律(方式主義)により権利放棄とみなされ、アメリカにおいてはパブリックドメインとなった。ワーナー・ブラザーズは、オリジナル・ネガフィルムから製作したデジタルリマスター版の正規盤DVD・BDを、ワーナー・ホーム・ビデオから発売している。また、日本では著作権の保護期間が完全に終了(公開後50年と監督没後38年の両方を満たす)したことから、パブリックドメインDVDも複数の会社から発売されている。2009年11月 - 2010年2月には、宝塚歌劇団宙組の公演により、世界で初めてミュージカル化された。脚本・演出は小池修一郎、主演は大空祐飛。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。