ハンク・オーデイ(Henry Francis "Hank" O'Day、1862年7月8日 - 1935年7月2日)は、1880年代に活躍したアメリカメジャーリーグの野球選手、及び監督。後に1920年代までメジャーリーグの審判員を務めた。イリノイ州シカゴ生まれ。右投げ、打席左右は不明。ナショナルリーグで選手・監督・審判の3つの職歴を経験した唯一の人物である。1884年にアメリカン・アソシエーションのトレド・ブルーストッキングの投手として出場、トレドでは36勝を挙げたトニー・マレーンとともに投手の二枚看板を期待され41試合に登板したが、成績は9勝28敗と振るわなかった。トレド球団が一年で破綻すると、1885年にピッツバーグ・アレゲニーズで12試合に登板、翌1886年はデトロイト・ウルバリンズに居たものの出場機会はなく、9月にワシントン・ナショナルズに金銭で移籍した。ナショナルズでは1887年に8勝20敗、1888年に16勝したもののリーグ最多の29敗を喫する。最も勝ち星を挙げたシーズンは、オーデイが選手として出場した最後の年の1890年のことで、この時はプレイヤーズ・リーグのニューヨーク・ジャイアンツで22勝13敗の成績を残した。オーデイは選手時代にも審判に欠員が出た場合の代役を任せられることがあり、1890年までに6試合の審判経験があった。オーデイは、メジャーリーグ史上初めて「代打」を送られた選手でもある。1889年9月10日の試合中オーデイは負傷し、打席に立てなくなったために、ミッキー・ウェルチが替わりに打席に立った(怪我などの理由なく代打を出せるようになったのは3年後の1892年のことである)。オーデイはプレイヤーズ・リーグ参加から5年後の1895年に75試合の審判を務め、この年以降審判員として本格的に活動しはじめる。ナショナルリーグでの審判歴は1927年まで30年以上に及ぶが、この間1912年と1914年の2年は、シンシナティ・レッズとシカゴ・カブスの監督をしていたため、審判としては試合に出場していない。2年間の監督時代の戦績は2年ともほぼ5割だった。審判としてのオーデイは、他人がどれだけ非難しようが、勇気をもって正しい判定を下す人物として評価されていた。その最たるものが、1908年9月23日に行われた、ニューヨーク・ジャイアンツ対シカゴ・カブス戦での、"マークルズ・ボナー"の判定であろう(フレッド・マークルの項を参照)。ジャイアンツのサヨナラ安打に歓喜した一塁走者のマークルが、フォースプレーにもかかわらず二塁を踏まずにベンチを下がったことをカブスのジョニー・エバースがアピールし、この試合主審だったオーデイはマークルにアウトの判定を下し、その試合を引き分け再試合と宣告した。ジャイアンツの監督だったジョン・マグローは、「オーデイがペナントを奪った」と非難したが、判定が変わることはなかった。ただこの判定には伏線があり、このプレーの二週間前、オーデイはカブスとパイレーツの試合で全く同じ状況(サヨナラ安打で一塁走者が二塁を踏まずにベンチに下がったことをアピールされる)に遭遇している。その時はプレーをよく見ていなかったためエバースのアピールを認めていなかった。オーデイはナショナルリーグの審判を1927年まで務めた。出場試合数3986試合は引退当時史上3位の試合数で、主審試合数2710試合と10度のワールドシリーズ出場はビル・クレムについで史上2位の記録である。1935年にシカゴで死去。にベテランズ委員会の選考により、アメリカ野球殿堂入りを果たした。数字の後の"*"は、記録不明箇所があることを示す。在籍:ナショナルリーグ(1888年,1889年,1895年~1927年)
出典:wikipedia
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