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霜月 (駆逐艦)

霜月(しもつき)は、日本海軍の駆逐艦。一等駆逐艦「霜月」は、秋月型駆逐艦の7番艦である。艦名は陰暦11月の雅称。秋月型1番艦「秋月」を修理する際、三菱長崎造船所で建造中の「霜月」艦首を「秋月」に移植したため、本艦の完成は1944年(昭和19年)3月31日となった。竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入され訓練に従事。その後、駆逐隊に所属しないまま小沢機動部隊、続いて第十戦隊に編入され、6月下旬のマリアナ沖海戦に参加した。同年7月15日、姉妹艦「冬月」と共に第41駆逐隊を新編。10月下旬、捷号作戦にともなうレイテ沖海戦では小沢機動部隊としてエンガノ岬沖海戦に参加した。その後、南シナ海で第三十一戦隊旗艦として行動中、米潜水艦カヴァラの雷撃により沈没した。1941年(昭和16年)度(マル急計画)仮称第360号艦。三菱重工業長崎造船所で1942年(昭和17年)7月6日に起工。1943年(昭和18年)3月5日、空母「大鳳」および夕雲型駆逐艦11番艦「藤波」と本艦等に艦名が与えられる。さらに3隻(大鳳、藤波、霜月)等は艦艇類別等級表に登録された。4月6日、佐世保鎮守府司令長官南雲忠一中将(ミッドウェー海戦時の第一航空艦隊司令長官)は長崎市に出張。4月7日、本艦は進水。機関の搭載を待っていたが、製造が遅れていた。7月5日、艦首切断状態の秋月型駆逐艦1番艦「秋月」(同年1月18日大破)が長崎に入港してきた。同艦の修理を実施するにあたり、当初は1944年(昭和19年)1月末に修理が終わるスケジュールが立てられていたが、復旧工事が急ぐため「霜月」の75番フレーム(船首楼最後部)より前を切断し、「秋月」(舞鶴海軍工廠建造艦)と結合させた。その甲斐あって、「秋月」は10月31日に修理が終わり、早期に戦列に復帰した。この工事の影響により本艦の艦首はもう一度作り直され、12月に完全な船体となった。1944年(昭和19年)3月4日、日本海軍は睦月型駆逐艦1番艦「睦月」艦長(第二次ソロモン海戦における同艦沈没時)、陽炎型駆逐艦17番艦「萩風」艦長等を歴任した畑野健二少佐を霜月艤装員長に任命する。3月5日、霜月艤装員事務所での事務を開始。3月31日、竣工。本籍を横須賀鎮守府と定められる。畑野中佐(艤装員長)は制式に霜月駆逐艦長に補職。おもな初代幹部は、新野尾又雄大尉(航海長)、田崎正一大尉(砲術長)、後宮俊夫中尉(水雷長)、吉崎栄司機関大尉(機関長)。艤装員事務所は撤去された。1944年(昭和19年)3月31日の竣工と共に、本艦は訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完海軍少将・海軍兵学校41期:旗艦「野分」)に編入される。瀬戸内海に回航され訓練に従事するも、引き渡し当初から砲塔の旋回が重すぎたため、4月4日から呉海軍工廠で修正工事を行う。また、配属された乗員のレベルが極めて低い事も報告された。4月7日、第十一水雷戦隊旗艦は「野分」から「霜月」に変更。4月9日、旗艦は「霜月」から伊勢型戦艦2番艦「日向」に替わった。5月1日、第十一水雷戦隊旗艦は長良型軽巡洋艦3番艦「名取」となる。5月3日、本艦は臨時に第十一水雷戦隊旗艦となり、各艦(名取、霜月、秋霜、長良、時雨、速吸)は瀬戸内海で訓練を実施。同日、霜月以下4隻(軽巡《大淀》、駆逐艦《霜月、松風、夕凪》)は連合艦隊長官豊田副武大将直率となる。横須賀で「大淀」と合流することを命じられたため、「霜月」は呉を出港して横須賀に向かう(5月8日出発。5月9日到着)。なお出撃を前に、高間少将(第十一水雷戦隊司令官)は連合艦隊、第二艦隊、小沢機動部隊、第二水雷戦隊、第十戦隊など各方面に対し「秋霜と霜月は訓練が十分ではないから、今度も指導に関し配慮してほしい」と要望している。5月23日、特別任務を終え、神風型9番艦「夕凪」とともに瀬戸内海に戻った。訓練部隊の指揮下に入る。同時期、竣工した秋月型駆逐艦8番艦「冬月」(舞鶴海軍工廠)が第十一水雷戦隊に編入される。内海西部に移動後、第十一水雷戦隊麾下各艦(名取、長良、清霜、霜月、冬月、松)等は諸訓練を実施した。本艦は6月6日付で第一機動艦隊(司令長官小沢治三郎海軍中将・海兵37期)に編入され、次いで6月10日付で第十戦隊(司令官木村進海軍少将・海兵40期)に編入される。佐世保に回航され、第一機動艦隊宛の機銃その他の物件を搭載し、同地を出撃する。6月14日、ギマラスへ進出途上の第一機動艦隊と合流し、マリアナ沖海戦に参加する。6月19日、小沢長官直率の甲部隊では第一航空戦隊の空母2隻(大鳳《米潜アルバコアによる》、翔鶴《米潜カヴァラによる》)が沈没。海戦第二日目の6月20日、小沢長官直率の甲部隊(空母《瑞鶴》、第五戦隊《妙高、羽黒》、第十戦隊《矢矧、磯風、浦風、初月、若月、秋月、霜月、朝雲》)は輪形陣を形成。「霜月」は2機撃墜を報じ、被害なく切り抜けた。6月22日に中城湾に寄港の後、6月24日に柱島泊地に帰投。6月28日、秋月型2隻(霜月、若月)は当時の連合艦隊旗艦である軽巡洋艦「大淀」を護衛して横須賀に向かった。横須賀に到着後、横須賀海軍工廠で機銃増備と13号電探の設置工事が行われた。7月5日、秋月型2隻(若月、霜月)は横須賀を出港して呉に移動。呉に到着後は遊撃部隊乙部隊に加わり、第十戦隊(旗艦《矢矧》、第17駆逐隊《磯風、浜風 》、秋月型2隻《若月、霜月》)は軍艦3隻(戦艦《長門・金剛》、重巡《最上》)を護衛して7月8日に呉を出撃する。乙部隊は沖縄本島に配備される陸軍部隊を中城湾で降ろす。次いでマニラで軍需品を陸揚げしたあと、7月20日にリンガ泊地へ到着した。本艦がマニラ停泊中の7月15日、日本海軍は秋月型2隻(7番艦霜月、8番艦冬月)により第41駆逐隊を編成する。駆逐隊司令は陽炎型8番艦「雪風」艦長等を歴任した脇田喜一郎大佐。司令駆逐艦は「冬月」。本艦はリンガ泊地で訓練を行っていたが、連合艦隊より輸送船団を護衛しての内地帰投を命じられる。8月4日に昭南(シンガポール)を出港するヒ70船団に加わって日本本土に向かった。8月4日(8月5日)、ヒ70船団は護衛艦(巡洋艦《香椎》、空母《神鷹)》、秋月型《霜月》、海防艦《千振、佐渡、第十三号、十九号》)とタンカー8隻でシンガポールを出発。元水上機母艦衣笠丸(大阪商船、8,407トン)、タンカーのせりあ丸(三菱汽船、10,238トン)などが加わっていた。途中でマニラから来た軽巡「北上」を船団に加え、8月15日に門司へ戻った。「神鷹」は呉へ、「北上」は佐世保へ、「霜月」は横須賀へ、それぞれ回航された。同時期、アメリカ軍機動部隊が硫黄島や小笠原諸島に空襲を敢行、これに対処するため連合艦隊は雲龍型航空母艦1番艦「雲龍」を基幹とする『急襲部隊』(指揮官小西要人雲龍艦長)を編制した。空母「雲龍」、長良型軽巡洋艦2番艦「五十鈴」、第41駆逐隊(霜月、冬月)という戦力である。第41駆逐隊は速やかに「雲龍」と合流するよう命じられた。急襲部隊は第三航空艦隊(7月10日編制。長官吉良俊一中将)の指揮下に入り、「雲龍」は東京湾に進出。合流した第41駆逐隊(冬月、霜月)も訓練に従事した。「雲龍」が出動する事態は生起せず、9月下旬には機動部隊に復帰命令が出される。9月26日、横須賀を出発、瀬戸内海に回航。27日、3隻(雲龍、霜月、冬月)は呉に到着した。翌日、「雲龍」は第一機動艦隊に、第41駆逐隊(霜月、冬月)は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)に編入された。10月9日、第41駆逐隊(冬月、霜月)は横須賀に移動。軽巡「大淀」と合流する。3隻(大淀、冬月、霜月)は10月12日に横須賀を出港、大分に向かう。出港後間もなく、アメリカの潜水艦トレパン ("USS Trepang, SS-412") の雷撃で「冬月」は艦首垂下の損傷を蒙る。脇田喜一郎大佐(41駆司令)は司令駆逐艦を「冬月」から本艦に変更。「冬月」は呉海軍工廠で修理することになり、レイテ沖海戦に参加できなくなった。10月14日、第十一水雷戦隊、第41駆逐隊、第61駆逐隊は機動部隊本隊に編入された。10月17日、アメリカ軍がフィリピン、レイテ湾のに上陸し、日本軍は捷一号作戦を発動した。この作戦は小沢中将率いる機動部隊が囮となって第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)をひきつけ、その隙に第二艦隊司令長官栗田健男中将(海兵38期)率いる第一遊撃部隊(第二艦隊)主力および第五艦隊司令長官志摩清英中将率いる第二遊撃部隊(第五艦隊)がレイテ湾に突入し、アメリカ軍の上陸部隊を撃破するというものであった。10月20日夕刻、小沢機動部隊(第三航空戦隊)の空母4隻《瑞鶴、瑞鳳、千代田、千歳》、第四航空戦隊の航空戦艦2隻《日向、伊勢》、巡洋艦3隻《大淀、五十鈴、多摩》、秋月型駆逐艦4隻《初月、秋月、若月、霜月》、松型駆逐艦4隻《桑、槇、杉、桐》)は豊後水道を出撃。10月24日、第四航空戦隊(日向《旗艦》、伊勢)、秋月型4隻(初月、秋月、若月、霜月)は前衛を構成し、夜襲を試みるも成果なく、10月25日朝に本隊に合流した。同日、松型2隻(桐、杉)は小沢機動部隊から分離、沖縄に退避した。10月25日朝、小沢機動部隊は沖で第38任務部隊の艦載機による空襲を受けた(エンガノ岬沖海戦)。本艦は瑞鳳型空母2隻(千歳、千代田)の警戒艦に指定されており、第二群(空母2隻《千歳、千代田》、戦艦《日向》、巡洋艦《五十鈴》、駆逐艦《霜月、槇》)の陣形において、「千代田」左後方に位置して第一波攻撃の艦載機を迎え撃つ。9時37分、空母「千歳」が沈没。本艦は千歳乗員の救助を開始するも、レーダーで第二波攻撃の艦載機飛来を探知、カッターボート2隻を卸して対空戦闘をおこなう。第三波攻撃では「日向」とともに再度「千代田」の援護を務める一方、ふたたび千歳乗員の救助を試み、「五十鈴」と共に救助作業を実施。本艦は千歳乗組員121名を救助した。この間、小沢長官は「瑞鶴」から「大淀」に旗艦を変更。その後、日向以下各艦は「千代田」を援護していたが、千代田救援を2隻(五十鈴、槇)にまかせ、3隻(日向、霜月、桑)は北方に向かった。17時26分、「霜月」は至近弾複数発を浴びて船体外板が損傷し、重油が流出した。2分後にはさらに至近弾二発を浴びて左に5度傾斜し、最大速力が31ノットに減少した。高角砲弾595発と機銃弾8,640発を消費し、人的損害を軽傷者2名のみにとどめて対空戦闘を切り抜けた。その頃、2隻(軽巡《五十鈴》、駆逐艦《若月》)は、当時まだ沈んでいなかった「千代田」救援のため南下、また「初月」や「桑」が生存者救出に従事していたところ、米軍第38任務部隊から分離して日本艦隊を追撃中の第34任務部隊(ウィリス・A・リー中将)中の巡洋艦部隊(ローレンス・T・デュボース少将)と交戦することになった。第61駆逐隊司令天野重隆大佐は他艦を逃がすため司令駆逐艦「初月」を反転させ、米艦隊に撃沈される(天野司令、初月艦長戦死)。一方、初月・五十鈴が敵艦隊と交戦中の報を受け、4隻(日向、伊勢、大淀、霜月)は反転して再度夜襲を試みる。しかし、合流してきた「若月」からの報告により敵艦隊と入れ違いになった可能性があると判断され、北上した。10月26日朝まで敵艦隊を求めたがついに遭遇せず、奄美大島へ向かうよう指示される。10月27日に奄美大島に到着し、応急修理を実施。同時に、マニラ方面に進出する長10cm砲装備の2隻(大淀、若月)に弾薬を供給する。小沢長官以下機動部隊司令部は「日向」に移乗。各艦(日向、伊勢、五十鈴、霜月、桑、槇)は10月28日に奄美大島を出港し、翌29日に呉に帰投した。10月29日から11月7日まで呉海軍工廠で修理が行われた。本海戦で第61駆逐隊の秋月型2隻(初月、秋月)が沈没した。奄美大島停泊中の10月27日附で、第41駆逐隊と第61駆逐隊は第二遊撃部隊(第五艦隊)に編入されていた。内地帰投後、第一機動艦隊旗艦は「日向」から雲龍型航空母艦1番艦「雲龍」に変った。11月4日、「霜月」は多号作戦支援部隊に編入される。第三十一戦隊は旗艦の長良型軽巡洋艦2番艦「五十鈴」と、駆逐艦部隊(秋月型2隻《霜月、涼月》、松型駆逐艦《桑、桐、杉、桃、梅》)を以って、南方に進出する第四航空戦隊(司令官松田千秋少将)の航空戦艦2隻(日向、伊勢)を護衛することとなった。だが出撃直前に姉妹艦「涼月」の修理艦首部分で漏水事故が発生。同艦は「霜月」に同行できなくなった。11月8日、第四航空戦隊(日向、伊勢)、護衛部隊(五十鈴、霜月、桑、桐、杉、桃、梅)は内地を出発。単艦で内地へ向かう「護国丸」とすれちがいつつ南下。11月11日から12日にかけて、馬公市に寄港。同時期、マニラが大規模空襲を受けていたため、第四航空戦隊部隊は新南諸島に移動して待機した。航海中の11月15日、第十戦隊と第61駆逐隊は解隊される。61駆所属の2隻(涼月、若月《同艦は11月11日の多号作戦で沈没。書類上の措置》)が第41駆逐隊に編入され、41駆の秋月型4隻(霜月、冬月、涼月、若月《沈没》)は第二水雷戦隊に編入された。翌日、霜月以下各艦は南西方面部隊の指揮下に入る。11月17日、マニラに向かった第三十一戦隊(五十鈴等)と別れた第四航空戦隊(日向、伊勢、霜月、梅、桐)は南沙諸島長島に到着して、からやってきた「大淀」、妙高型重巡(足柄、羽黒)、戦艦榛名、第一水雷戦隊などの艦艇と合流。11月19日、日向・伊勢・榛名などとともに長島を出港し、11月22日にリンガ泊地に到着する。この間、マニラ方面で行動していた「五十鈴」が11月19日にアメリカの潜水艦ヘイク ("USS Hake, SS-256") の雷撃で損傷し、昭南(シンガポール)、次いでスラバヤに下がって修理が行われる事となった。これにともない、第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将・海兵40期)は旗艦を変更することになる。11月20日、多号作戦で「島風」沈没時に戦死した早川幹夫少将の後任として、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(旗艦「霞」)が第二水雷戦隊司令官に異動(同日附で第一水雷戦隊解隊)。「霜月」は11月22日付で多号作戦第二警戒部隊に編入、第三十一戦隊の指揮下に入り、昭南に回航。11月24日、第三十一戦隊旗艦となった。11月24日午後1時20分、駆逐艦2隻(秋月型《霜月》、松型駆逐艦4番艦《桃》)は昭南(シンガポール)を出撃し、ブルネイ湾(ボルネオ島)に向かった。ところが、11月25日午前4時45分に地点もしくは地点に差し掛かったところで、アメリカの潜水艦カヴァラ ("USS Cavalla, SS-244") の雷撃に遭った。カヴァラは目標を那智型重巡洋艦と判断し浮上攻撃で魚雷を4本発射、うち2本が左舷に命中して「霜月」は沈没した。霜月乗員のうち46名は「桃」に救助されたものの、駆逐艦長畑野健二中佐以下残る乗員全員が戦死。救助された霜月乗組員も、32名が海軍陸戦隊としてフィリピン地上戦に投入されたとの記録が残る。同日に、本艦座乗中の江戸少将(戦死により海軍中将)以下第三十一戦隊司令部も全滅した。後任の第三十一戦隊司令官には、戦艦「扶桑」艦長等を歴任した鶴岡信道少将が補職されている。10月から11月にかけて、秋月型駆逐艦は本艦以下4隻(秋月、初月、若月、霜月)が沈没、2隻(涼月、冬月)が被雷損傷するという損害を蒙った。レイテ沖海戦以来「霜月」と行動を共にしていた伊勢型戦艦2番艦「日向」では、霜月沈没の報をうけて悲嘆と憤りが艦内に満ちたという。1945年(昭和20年)1月10日、秋月型2隻(若月、霜月)は帝国駆逐艦籍、秋月型駆逐艦、第41駆逐隊のそれぞれから除籍された。。

出典:wikipedia

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