功山寺挙兵(こうざんじきょへい)は、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作ら正義派の長州藩諸隊が、俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター。回天義挙とも。これに端を発する長州藩内の一連の紛争を元治の内乱という。長州は禁門の変・馬関戦争に敗北した。朝廷と江戸幕府は、禁門の変の懲罰として長州へ十五万もの征長軍派遣を決定する。藩存亡の危機を前に、攘夷を志向しこれまで藩制を指導してきた長州正義派と、正義派の藩制指導に反発する椋梨藤太に率いられた俗論派らの争いが激化し、最終的に武力衝突に発展して正義派が勝利し俗論派は撃滅される。ただし実際は正義派・俗論派・征長軍の各勢力内は細かく分派しており事件は複雑な経緯を辿る。長州正義派尊皇攘夷を志向して藩政を指導し、八月十八日の政変ならびに禁門の変にて長州を存亡の危機に陥れる。その後も正義派は藩政改革(主に軍備軍制改革)を主張し、征長軍への対応は、謝罪はすれども責任者の処罰や領地割譲を断固拒否する武備恭順を説いた。しかし俗論派が藩政を握ると、高位の正義派藩士の多くが投獄・処刑される。長州正義派諸隊攘夷方針に従い編成された、長州藩内の様々な身分の者からなる部隊を総称したもの。長州全体が俗論派に牛耳られる中、藩政府の統制を離れ、高杉晋作に賛同して決起し俗論派の萩藩政府を打ち破った。主な部隊に奇兵隊、御楯隊、遊撃隊、八幡隊、南園隊、力士隊などがあり、決起時の総員は750人。うち奇兵隊が400人を占めたと言われる。藩政府の命令や奇兵隊創設者で高位の藩士でもある高杉の命令にも従わず、意思決定は諸隊幹部の衆議によったという。諸隊の大半は正義派に属したが、萩野隊や力士隊の一部は俗論派の萩藩政府につき正義派諸隊と戦った。長州俗論派長州藩内の佐幕派。長州に征長軍が迫る際、正義派を追い落とし藩政を握る。幕府への絶対(純一)恭順を説き、正義派高官を捕らえ大量に処刑するなど非常に強権的な勢力であったという。ただし幕府(征長軍)への絶対恭順を説いていた点は事実であるものの、正義派高官の処刑については幕府(征長軍)が促した為とされる資料もある。鎮静会議員・その他長州藩士長州藩は正義派・俗論派に別れ相争ったと言われるが、かなり多くの藩士のがどちらにも属さず両派の争いを止めようとした。その中でも特に萩にあって長州内部での内戦を止めようとする一派は東光寺派、あるいは鎮静会議員と呼ばれた。また正義派に同情的であっても、私情は私情として、実際の行動は藩政府の指示に従う藩士も多かった。長州藩侯長州藩の最高権力者であるものの、時々に藩政を牛耳る正義派・俗論派の両方の意見に従い、長州藩最大の危機に際して指導力を発揮できなかった。長州支藩長州には複数の支藩があり支藩藩主らは概ね尊皇攘夷思考で正義派に同情的であったが、正義派・俗論派の争いは宗藩である長州本藩の内部抗争であり、積極的な介入は避けた。しかし長州藩内の独立勢力である事は間違いなく、俗論派が長州本藩を掌握し諸隊に圧力をかけると、長州本藩内に居場所をなくした諸隊は許可を得ずに長府藩に移動し、支藩藩主らに正義派への助力を乞うようになる。長州藩岩国領長州岩国領主である吉川経幹は歴史的な経緯から、長州藩主父子を救うため幕府との交渉を担当した。開戦回避のために三家老・四参謀の斬首をしきりに求めた為、高杉は俗論派筆頭・奸臣と唾棄した。ただ征長軍が困難な戦争回避の条件を持ち出す度に、長州本藩の利益と藩主父子の安全を最優先に交渉に臨み、戦争を回避させたのは吉川である。五卿禁門の変の敗北で京都を逃れ長州に亡命し山口に在した七卿落ちの生き残り。攘夷の意志を持ち、諸隊が俗論派に追われて山口を退出する際は長府行に同行した。五卿の長州退去が戦争回避の条件の一部となり九州へ移る際も、最大限正義派の為に行動した。脱藩浪士禁門の変の際に決起し、敗北後は長州軍に帯同し長州に亡命した諸国の脱藩浪士たち。亡命後は五卿の家臣になるか、遊撃隊に入隊するかに別れた。征長軍が長州に迫る際は、他藩にネットワークを持つ脱藩浪士たちは、長州を救うべく他藩へ積極的に和平斡旋をした。五卿が長州から退去する際は、五卿を奉じる脱藩浪士は一緒に九州に移り、遊撃隊の脱藩浪士は高杉晋作の決起に協力した。総員は遊撃隊に入隊した者を含め70人程度であると言われている。征長軍総督府朝廷および幕府より長州征討を命じられ、西国を中心に三十五藩により構成された討伐軍。総督は尾張藩主徳川慶勝で、広島を本営として長州征討に関する全権を委任されていた。副総督は越前藩主松平茂昭で、小倉を本営として九州諸藩を統括した。総勢十五万人という大連合軍であるが、幕閣と総督の意思疎通すら出来ておらず、動員された諸藩の士気も低かった。福岡藩征長軍の一員。福岡藩には多くの攘夷志士がおり、加藤司書は福岡藩の執政に任じられ、藩主黒田長溥も尊王攘夷派と目され、長州藩諸隊から筑前正義派と呼ばれ半ば身内扱いされていた。福岡藩攘夷派は、攘夷を実行した長州を高く評価し、かつ内戦を無益と考え戦争回避と長州藩の赦免に積極的に関与する。また諸隊の状況に同情し内訌戦の回避にも尽力した。薩摩藩征長軍の一員。長州藩は禁門の変で武力衝突した薩摩藩を薩賊と呼び激しく憎んだが、逆に禁門の変における活躍により征長軍での発言力は大きかった。しかし薩摩では先年薩英戦争があり、外国勢力が日本に迫る時に内戦は無益であるとの認識から長州征討回避に動く。とくに西郷隆盛は征長軍総督慶勝の信任を得て戦争回避の交渉を取り仕切り、また福岡藩の熱意に応じ長州内訌戦回避にも尽力した。元治元年9月25日、山口政事堂で藩主敬親臨席の元、君前会議が開かれ、正義派の代表格である井上聞多は武備恭順論・藩政改革を説いた。俗論派の抵抗により会議は紛糾したが、最終的に敬親が武備恭順を長州の国是とする事を言明して終わった。しかし会議からの帰途、井上は暴徒に襲われ重傷を負う。9月26日、禁門の変を阻止出来なかった事に責任を感じていた周布政之助(麻田公輔)が自殺する。聞太襲撃と周布自殺は正義派に大打撃を与える。藩の要職を占めていた正義派は次々解任され、代わって登用された俗論派の幹部らが藩政府を掌握する。また幕府が長州征討を決定し西国諸藩に動員をかけた旨の情報がもたらされると、俗論派は禁門の変を積極的に指導した正義派三家老、福原元僴、益田親施、国司親相を切腹させる事を主張した。これに対し、長州正義派の一つである諸隊の幹部は、三家老切腹反対の建議書を提出した。9月30日、攘夷を理由に山口城へ居を移していた藩主親子の萩への帰還が決定する。諸隊は、俗論派の牙城である萩に帰還せず山口へ残留するよう藩主父子に建議書を提出したが無視された。同日、福岡藩士の喜多岡勇平、薩摩藩士の高崎五六(兵部)が、吉川経幹と開戦回避の話し合いのため岩国新湊に到着する。吉川は山口出張中であったため、高崎は吉川の書状の入手を依頼した。高崎は薩摩藩と長州藩は禁門の変で戦ったが、薩摩に遺恨はなく薩摩藩の捕虜となっていた長州人十人について引渡しの用意があることを伝えた。2藩の関与は、長州に逃れていた久留米藩脱藩浪士淵上郁太郎が、知己の福岡藩士に長州藩の危急を救うための助力を求めたのが始めとされる。長州藩に深入りすることを反対する福岡藩上層部を、加藤司書らは内戦回避は幕朝の為でもあると説得し和平斡旋に乗り出す。ただ福岡藩単独では事態打開は困難と考えたのか、喜多岡を京都の薩摩藩邸に派遣し助力を依頼した。当時京都に居た西郷がこの提案を受け入れ、高崎五六を同行させ岩国に向かわせたとされる。10月3日、敬親は山口を発し萩へ向かう。政務員や俗論派の実戦部隊である撰鋒隊も帯同する。山縣ら奇兵隊幹部は、いまだ山口に滞在していた藩主の息子である毛利元徳に拝謁し、建議書を提出して萩行を止めるよう求めたが受け入れられなかった。10月4日、元徳も山口を発し萩へ向かう。山口に残る藩重役は浦元襄のみとなる。俗論派は萩に移った藩主を手中にし、徐々に萩・山口を掌握してゆく。10月5日、徳川慶勝は就任拒否を続けていた征長軍総督の任を受諾し、大阪にて征長軍の軍議を開くことを周知した。当時、幕政は悪い意味で官僚主義に陥り意思決定が困難で、慶勝の総督就任についても二転三転した挙句、開戦の一ヶ月前に慌ただしく決まった。総数十五万という大軍ではあったが、幕府の優柔不断を見た征長軍の士気は低かった。公爵山縣有朋伝によると同日、俗論派が藩を壟断する状況に危機感を覚えた奇兵隊軍監・山縣狂介は、三田尻に駐屯している奇兵隊を他所へ移動させることを考え、石州国境に至るまでの方々の地形を視察したという。ただし公爵山縣有朋伝は山縣没後に作られた伝記で、功山寺挙兵の段には他資料と矛盾する点がある。10月7日、山口にて福岡藩・薩摩藩の斡旋を知らされた吉川は、部下に書簡を持たせ広島の高崎の下へ派遣し、征長軍との交渉を依頼する。10月9日、正義派の毛利登人、大和国之助、前田孫右衛門、渡辺内蔵太館らが謹慎となる。10月11日、奇兵隊と膺懲隊は、藩政府の命令により、幕軍侵入に備えて徳地の要害に退却した。公爵山縣有朋伝によると同日、山縣らは俗論派の台頭を警戒し、藩政府に無断で奇兵隊・膺懲隊を徳地へ移動させることを検討したとあるのみで、史料に矛盾がある。10月13日、正義派の山縣半蔵、小田村素太郎(後の楫取素彦)、寺内暢蔵が罷免される。10月17日、高杉晋作が政務役を罷免される。10月18日、宮市を通過する吉川経幹に面会した山縣は、拝謁して武備恭順の建議書を提出した。さらに山縣は、但馬の脱藩浪士からもたらされた京都の情勢を吉川に報告した。10月20日、徳地に移動した後、奇兵隊総監である赤禰武人は諸隊に七ヶ条の要目を出し、周辺住民の慰撫と諸隊の綱紀粛正に努めた。さらに諸隊幹部は諸隊の隊員が一人で外出する事を禁じ、隊員に送付される手紙はすべて幹部が検閲した。徳地への移転についても「剛健質実の気象を振作し、誓て文弱氣死の風習をせん」と述べている。公爵山縣有朋伝によると、奇兵隊と膺懲隊が三田尻を引き払い徳地に移ったのはこの日であり、俗論派の影響を避けるために藩の命令を得ず独断で兵を動かしたとされる。さらにこの時、俗論派は山口を未だ掌握しきれておらず、山縣は山口に残留していた所帯方頭人(米銀出納事務を取扱う役職)に面会し、奇兵隊一年分の給与の前払いを依頼し、その給付を受ける事に成功したというが、上述の通り矛盾しており、どちらが正しいかは不明である。同日、幕府は毛利藩主父子の字偏諱と官位を通達する。10月21日、藩政府は諸隊幹部を山口の政事堂に集合させ諸隊の解散を命令した。また出席しなかった奇兵隊、八幡平、眞武隊には解散令を封送した。山口に集められた諸隊幹部はその場で解散を拒否した。諸隊幹部は合議を行い、以後諸隊は藩政府から距離を置き同一行動を取ることで一致する。さらに諸隊は山口に在していた五卿を帯同し、斬首された益田の知行地である須佐へ移り各地へ檄文を出して藩政の転換を図ることを計画する。ただこの時出された解散令は比較的穏当で「身元無者(おそらく脱藩浪士)」についても一箇所に差置、また危急の事態がいつ来るか分からず、全員いつでも復隊できるよう支給はこれまで通り行うとある。俗論派の萩藩政府は正義派高官の追い落としには熱心であったが、身分の低い諸隊には当初注意を払わなかった。10月22日、大坂城にて征長軍は軍議を開き、11月11日までに動員を終え各攻め口に着陣し、1週間後の18日に開戦することを決定した。一方、開戦回避を願う総督慶勝は岩国の吉川に使者を送り、降伏謝罪すれば開戦を回避できる旨を説いた。吉川は、三家老の首を差し出して恭順の意を示したい旨の書状を復命する使者に持たせた。10月23日、高杉晋作は俗論派の台頭に身の危険を感じ萩を脱出した。その際楢崎弥八郎を誘うも楢崎は萩脱出に同意しなかった。後に楢崎は俗論派に捉えられ処刑される。10月24日、大阪にて西郷は征長軍総督徳川慶勝へ、開戦回避の為に長州藩が受諾すべき条件とそれを履行させるプロセスを提示した。慶勝は非常に喜び、その場で西郷へ脇差一刀を与えて信認の証とし西郷は征長軍の参謀格となる。10月25日、萩を脱出した高杉は山口へ赴き井上聞多の病床を見舞った。同日、征長軍総督徳川慶勝が大阪を出発し広島へ向かう。また総督慶勝が大阪を出発する際、江戸幕府は禁門の変の際に捕らた長州人7人を斬首して征長軍の門出を祝した。10月27日、高杉は山口から三田尻を経て徳地へ赴き山縣と面会し脱藩の意図を伝える。高杉は九州を巡って遊説し、各地で同志を募り攘夷を継続することを考えていた。山縣は隊に留まるよう説得したが高杉は拒んだ。二人は夜遅くまで将来の方策を語りあったが、逃げる高杉にも残る山縣にも状況は絶望的であった。山縣は、九州へ赴く高杉に伊藤伝之助らを同行させることにした。高杉は議論の最後に以、下の俳句を書き留めている。 ともし火の 影ほそく見る 今宵かな10月29日、富海より船で馬関に到着した高杉らは白石正一郎邸に向かった。高杉は白石邸にて九州諸藩の浪士たちと会談し、九州で同志を得る計画を練る。11月1日、山縣と会議をしていた松島剛蔵の元へ、山口より出頭の急使が来る。山縣は処刑されると考え留まるよう説得したが、松島は罪に問われるとしても遠島程度で済むはずだと答え山口に向かった。後に松島は捕らえられ処刑される。同日夜、山縣の元に山口より諸隊参謀の福田侠平が来訪した。福田は、俗論派の勢力が日ごとに増大する事を伝え、これに対抗するため諸隊を合じ五卿を奉じて北部の須佐に撤退することを提案し、すでに五卿がこれを了承したことを伝えた。山縣は驚愕し、交通の便のよくない須佐では再起を図ることができないと反対した。代わりに山縣は、山口へ進出した後、五卿を帯同し正義派に同情的な長州支藩である長門長府藩の藩主、毛利元周を頼り馬関に赴くことを提案する。福田は同意し山口へ帰還して諸隊へ山縣の案を伝えた。山口の諸隊は衆議し、俗論派が勢いを増す現状を打破するため、まず全諸隊を山口に集結させることを決した。11月2日、奇兵隊・膺懲隊は徳地を出発し山口へ向かう。同日、高杉は馬関より九州へ渡航した。白石の弟、大場伝七らがこれに同行した。11月3日、西郷隆盛が広島を発して岩国に向かう。11月4日、奇兵隊が山口に到着する。他にも太田市之進が椋野より御楯隊を率いて到着し、伊藤俊輔も馬関より力士隊を率いて到着する。萩藩政府の妨害の為か、萩付近に屯していた南園隊は山口に現れなかった。諸隊幹部は山口に残る藩重役浦元襄の元を訪れ建白書を提出する。建白書の内容は、幽閉中の三家老を許し、藩政を攘夷に戻し、藩主父子は山口帰還し、俗論派を抑えて正義派を登用して武備恭順を目指そうというものであった。この建白書は山口に集結したすべての諸隊の連名で提出された。これとは別に当時山口に留まっていた藩主父子の両夫人の館に建白書の写しを提出し、粗暴な行動に出ないことを約束した。また諸隊隊員は、藩政府が武器庫としていた毛利隆元の霊を祀る常栄寺に赴き、銃器等の引き渡しを強く求めた。武器庫を管理していた役人は解散を命令された諸隊に武器を貸与することは出来ないと巨視した。山縣有朋は、藩政府と全面抗争になるのは得策ではないとして諸隊隊員を制止して止めさせた。この間、山口を掌握していた俗論派は藩主敬親の名前を利用して懐柔を試みたが、諸隊はこれに応じなかった。同日、岩国にて吉川経幹は西郷隆盛と会談する。西郷は、三家老と四参謀を斬首して首を征長軍に提出すれば当面の開戦を回避できると言い、すぐに行動するよう求めた。会談の後、吉川は長州本藩へ向けて家老切腹と、さらに参謀斬首を促した。吉川は、征長軍の開戦日が18日であり、各攻め口には14日に最終命令が発信される事を伝え、その前に総督府に首級を提出しなければならない危急の事態であることを強調し、長州本藩に即座に行動するよう求めた。他にも吉川と西郷は、今後の藩主父子・五卿の取り扱いについても会談したが一致せず、西郷は広島に帰った。また同日、博多に到着した高杉らは筑前藩士月形洗蔵らと面会し、各地へ遊説に向かう。高杉の九州行は、筑前正義派とも称された福岡藩尊王攘夷派が面倒をみた。さらに同日、萩藩政府は長州藩内各攻め口に使者を送り、征長軍と衝突しないよう周知した。11月5日、毛利藩主父子は、山口の五卿に連絡を取り、五卿を通じて諸隊の鎮撫を行おうとするも、攘夷思考の強い五卿は諸隊を支持しており受付なかった。逆に五卿は、藩主父子に正義派を復権し攘夷の意思を捨てないよう手紙を書いた。手紙は諸隊の建白書と一緒に藩主父子の元に届けられ、後日、藩主父子は五卿への返答のために使者を派遣することとなる。11月7日、藩政府は諸隊に対し、藩の解散令に従わない場合は罪を問う旨を布告する。さらに藩主父子は、諸隊総督に親しく諭す所があるため萩へ赴くよう命じる。諸隊は俗論派を警戒して拒否するも、萩藩政府は藩主父子を通じて連日萩への参集を命じる。11月8日、西郷隆盛は吉川経幹へ書状を出し、禁門の変の際に薩摩藩が捕虜とした長州人十人を送還した。11月9日、度重なる藩主父子の命に従い、諸隊は萩へ数人の幹部を送る。毛利敬親は諸隊幹部を召し出し親しく諭したものの、拝謁は形式に終始したため効果を表さなかった。同日、萩藩政府は12日に三家老を切腹させることを最終決定する。これを聞いた太田市之進・山縣有朋ら諸隊幹部が浦の元を訪れ切腹中止を強く求めた。他にも諸隊隊士の中には三家老奪還を公言する者も多くあった。浦が萩藩政府へ山口の諸隊の情勢を伝えると、諸隊の強硬さに驚いた藩政府はすぐに山口に毛利親直が鎮静奉行として遣わした。さらに危急の自体に備え徳山に若干の軍兵が配置される。既に俗論派政府は三家老を切腹させることを決心しており、諸隊が奪還に動いた場合、三家老を斬首して首級を得、征長軍に提出するつもりであったという。11月10日鎮静奉行が山口に到着したのは深夜であったが、危急の事態のため浦は諸隊総督を招集した。しかし諸隊は下級隊士を派遣するだけであり、出席した隊士も建白書を採用するよう求めるのみであった。同日、九州へ渡った高杉は方々へ遊説に向かうが、禁門の変敗走の後であり九州でも佐幕派が勢いを増していて、同志を得るという目標は成功しなかった。またこの時期、高杉は幕府の追跡を逃れるため谷梅之助の偽名で活動したが、尊皇攘夷志士として高名な高杉はすぐに注目されるようになる。高杉は月形洗蔵の紹介で福岡藩平尾村の野村望東尼の元へ身を隠す事となる。11月11日、俗論派は幕府への謝罪のため正義派三家老の福原元僴、益田親施、国司親相を切腹させた。切腹を一日早めたのは、諸隊の奪還を恐れた為と言われる。山口では鎮静奉行毛利親直は再び諸隊幹部を政事堂に招集し、藩主父子の新書を掲げ藩の方針に従うよう迫るも、諸隊幹部らはしきりに建白書の採用を請うのみであった。この時、太田市野進と野村靖之助らが進み出て、幕府が兵器没収を命じたり、領土削減を命じた場合に藩政府はどう対応するか問いただした。鎮撫使は止む終えないと答えた。太田はさらに、藩主父子の身上に、言うに忍びざるの命が下った場合はどう対応するか問うた。鎮撫使の一人である諫早己次郎は、それもまた止む終えないと答えたという。太田は大いに怒り罵倒して政事堂を去った。同日、征長軍副総督越前藩主松平茂昭が小倉に着陣したが、従軍諸藩の軍勢はまったく到着しておらず、兵船の準備も整っていなかった。茂昭は九州諸藩に書状を送り従軍を促す。11月12日、同じく俗論派は禁門の変を指導した正義派の四参謀を野山獄にて死刑に処した。同日、萩藩政府は山口に在していた藩主父子の夫人を萩に移す事を決める。また諸隊の暴発に備えるため、萩居住の藩士に動員をかけ明倫館に兵を集める。さらに山口で諸隊説得にあたっていた鎮静奉行毛利親直にも使者を送り、徳山・岩国に急行し諸隊の暴発に備える事を命じ、毛利親直の兵として明倫館に集合した藩士の中から200人を徳山に派遣することを決定した。11月13日、三家老が切腹したという情報が山口にもたらされ、諸隊幹部は激怒した。さらに諸隊は、諸隊暴発に備え萩藩政府が動員をかけた事を察知する。諸隊は衆議し、山口の地形は寡兵で守ることが出来ないと判断し、長府藩主毛利元周を頼り長府へ赴くことを決め、その旨を文書にして藩政府に提出した。諸隊の戦略としては、五卿を帯同して長府に赴き、正義派に理解のある長府・清末両藩と力合を合わせ、馬関の長州本藩会所を抑えて金米を取り、役人を追い払い、俗論派退治のための義兵を起こすというものであり、この計画は後に高杉晋作挙兵の下地となる。11月14日、広島国泰寺へ急行した長州藩士志道安房が三家老の首級を征長軍総督名代成瀬隼人正と、江戸幕臣戸川安愛へ提出した。さらに志道は四参謀も斬首した旨を伝えた。総督府はこれを受け、従軍する諸侯に「毛利大膳父子事伏罪之姿も相見候付 当月十八日攻懸日限之儀重て一左右相達候迄攻懸可被見合事」と布告し、18日に予定されていた開戦を延期した。同日、高田殿(井上聞多の実家であり山口での三條公住居)の三條に奇兵隊より手紙が届く。内容は、俗論派が諸隊討伐の命を下すようなので、山口では防戦しがたく長府へ移る為、五卿の諸隊との同行を願うというものであった。五卿は衆議の後、これに同意した。また同日、福岡藩士筑紫衛が萩に入り、藩政府へ正義派と俗論派の和解を説き、捕縛されている正義派高官を開放し要職に付けるよう進言した。これは福岡藩士らが、長州の内部抗争は要職を俗論派が占めた為に生じたと考え、正義派と俗論派の均衡がとれれば内部抗争も自然解決すると考えたためとされる。筑紫の案は採用にならなかったものの、これ以降萩藩政府と福岡藩の間に度々密使が行き来し、諸隊も度々福岡に赴くようになる。11月15日、諸隊は、山口を出て長府へ向かう。諸隊は途中、高田殿へ赴き三條実美ら五卿に謁見し、五卿は諸隊の長府行に同行する事となる。武力衝突には至っていないが萩藩政府の統制から逸脱する行動であり、この時点で完全にクーデターである。驚愕した浦は、すぐさま諸隊を追いかけ五卿に留まるよう進言したが聞き入れられなかった。浦は諸隊鎮静を果たし得ず辞表を提出し、家臣には諸隊に与しないよう命じた。また諸隊は、奇兵隊総管赤禰武人を俗論派に捉えられた松島剛蔵ら正義派高官7名の釈放と諸隊存続、武備恭順などを俗論派の藩政府と交渉するために萩へ派遣した。萩行きには時山直八らが随行しており、赤禰武人は正式な諸隊代表という立場であった。11月16日、征長軍総督徳川慶勝が広島に着陣する。11月17日、諸隊と五卿が長府へ到着する。同日、三田尻に駐屯していた忠勇隊が長府に至り諸隊に合流する。長府藩主毛利元周は五卿の到着を歓迎した。功山寺を五卿の滞在所として尚義隊・忠勇隊がこれを警護し、残余の諸隊は功山寺とその周辺の各寺院に分宿する。11月18日、征長軍総督徳川慶勝は三家老の首実検を行った。征長側は総督名代の成瀬正肥、江戸幕閣稲葉正邦、大目付の永井尚志、軍目付の戸川安愛。長州側は吉川経幹、志道安房。参謀の辻将曹と西郷は次室に控えていた。『征長出陣記』ではこの時、永井は戦争回避の条件として、藩主父子を面縛(後ろ手で罪人として引き渡す)、萩・山口城の明け渡しなどを吉川に通知した。吉川は、自身が岩国領主であることを強調し、それらの条件を決める権限はないと断った上で、それらの条件が萩にもたらされれば、防長士民は一致して徹底抗戦するだろうが、今すぐに応える必要があるかと言った。永井は、山口城引渡しは決定事項ではなく、今すぐ応える必要はないと言って吉川を下がらせた。その後永井は西郷に、吉川の回答を告げ意見を求めた。西郷は面縛・開城を戦争回避の条件とすれば交渉は不可能であり武力で征討する必要がある。長州を武力で征討するには半年か一年の年月が必要となると答えた。世の中が動揺している時期でもあり、戦争が長引けば動員した諸侯から異論が出る事は避けられず、そうなれば幕府の威光に陰りが出ると答え、戦争回避の条件を緩和するよう具申した。西郷の助言は大げさではなく、まさにこの時、天狗党の乱が京都に近付いており、徳川慶喜自らが兵を率いて迎撃に向かう事態に陥っていた。実はこれ以前にも征長軍と吉川の間で内々に応答があり、戦争回避の条件として山口城破却、謝罪文の提出、藩主父子と五卿の広島出頭を打診していた。吉川は山口城破却と謝罪文の提出については了承したが、藩主父子の出頭は断固拒否し、五卿の引渡しについても長州藩の顔を立てる形にするよう、福岡藩士と西郷隆盛へ懇願していた。またこの時期、山口の五卿が何者かと一緒に長府に向かったとの情報がもたらされる。広島に居た吉川と総督府は、すべての状況把握ができず、当初五卿を連れ去ったのは脱藩浪士であると認識していた。対処に困る征長軍に対し、福岡藩士喜多岡勇平らは、脱藩浪士を説得し、五卿を九州の五藩で預かる案を提示する。攘夷志士の多い福岡藩士らは、激化する攘夷派の説得に自信があった。五卿の扱いについても、幕府への引渡しでなく勤王色の強い九州諸藩へお移り戴くという形であれば長州の面目も立つ為、吉川も同意した。西郷も薩摩藩を代表して喜多岡の案を推し、尾張藩家老成瀬らも賛成し、最終的に征長軍に帯同した幕閣も了承したため長州の戦争回避の為の三条件が確定した。同日、征長軍は幕府・朝廷へ詳報と開戦時期延期を伝えた。11月19日、幕府征長軍は吉川経幹へ、以下の戦争回避の条件を正式に提示する。一、三老臣の首級は請取 参謀之輩斬首之儀も承届候 五卿之儀も申出之通無遅引可指出候 且右に付附属之脱藩人之始末も早々可申達事一、山口之儀は新規修築之事に付速破却可有之事一、先達て戸川鉾三郎より申渡候追討之御主意之趣に付 吉川監物を以申出候 謝罪之廉々は有之候得共 尚大膳父子恐入之次第自判之書面を以早々可申出候要約すれば、「五卿の引き渡しと附属の脱藩浪士の始末、山口城破却、藩主父子からの謝罪文書の提出」であった。出張幕閣や広島に集結していた諸侯の中には軽すぎる処分に不満を持つ者もいたが、尾張・薩摩という二つの大藩を前に沈黙せざる得なかった。これらの条件について注意すべき点は、最終的な降伏条件ではなく、戦争回避の為の条件だという事である。この時点では総督府の誰もが、戦後落ち着いた時期に長州は減封されるだろうと考えていた。西郷隆盛ですら、長州毛利は東北に数万石で減封すればよいと考えていた。ただ当初より領土削減を戦争回避の条件として持ち出せば短期間での妥結が不可能となるため、この時は総督府側はあえて減封に言及せず、吉川も一切触れなかった。11月20日、総督府は、福岡熊本久留米薩摩佐賀の五藩に、長州より五卿を受け取り、分散して預かるよう命令を下す。また五卿の長州からの受け取り及び各藩への分送は福岡藩が行うこと。さらに実行の際は五藩がよく相談して行い、必要な場合は兵力を以って強行する事を許可した。脱藩浪士についても福岡藩に『便宜の慮置可被有』という命令を出す。これにより五卿九州行についての処置は、内戦回避に積極的な姿勢をみせる福岡藩と薩摩藩に一任される。同時に九州を所管する征長軍副総督越前藩主松平茂昭へ、五卿受領は征長軍の『處分事務外』なので、五藩が五卿請取の際に長州と武力衝突を起こしても、小倉に参集させた諸藩の軍勢を動かしてはならないと命じた。征長軍として長州と戦端を開くのを嫌ったための処置と思われるが、松平茂昭は五卿受領の際に戦闘に至った場合、副総督の責任として傍観できないと反発した。総督府は松平茂昭に対し、『時宜に応じ更に指揮する所あるべし』と改めて返答した。九州諸藩に戦争条件の条件が伝わると、広島と同じく軽すぎると反発が出た。総督府は小倉へ西郷隆盛を派遣し、九州諸藩と副総督松平茂昭を説得することとなる。同日、長府藩から萩へ使者があり、五卿と諸隊の動向を報せ事後策の指示を依頼する。馬関は長府藩領であるが、長州藩は複数の会所を設置し長州藩の出張所とし、馬関総奉行を置いていた。ようは馬関の会所は、長府藩領内の長州藩飛び地の様な存在で、攘夷実行に備えて会所内には多数の武器・金品・糧秣が保管しされていた。諸隊が馬関の会所の武器を奪うことを恐れた萩藩政府は、会所の武器を回収し萩に回送するよう命じた。しかし馬関総奉行である根来上総は、征長軍が眼前にある事もあり、危急の事態の際の便を考慮して萩には送らず、武器は長府藩内へ移した。諸隊は長府・清末の両支藩を頼りにしており、長州藩の領分である馬関の会所は襲撃できても長府藩を攻撃することは出来ないからである。また長府藩がいくら諸隊に同情的であっても、宗藩である長州本藩から預けられた武器を諸隊に渡すことは出来ないからでもあった。また同日、野村望東尼の元に潜伏していた高杉は、月形洗蔵より長州正義派の家老が切腹された旨の手紙を受け取る。高杉は長州へ帰還し、俗論派を打倒する事を決意する。しかし多数の間者や征討軍に囲まれる長州への帰還は困難を極めた。月形らが帰国の世話をし、高杉は町人に変装して帰国することとなる。望東尼は変装の衣服の用意を徹夜で行い、高杉に以下の歌を添えて送り出した。 まごころを つくしのきぬは 国のため 立ちかへるべき ころも手にせよ高杉はこの心遣いに感激した。後に野村望東尼が乙丑の獄において、高杉ら脱藩浪士を匿った罪で姫島へ流刑になった際は人を遣わして奪還している。またその後に病に倒れた高杉を看病し、最期を看取ったのは望東尼であった。11月22日、藩政府は諸隊鎮静御用掛として杉孫七郎を長府に派遣した。杉は若干の金銭を諸隊に与えたが、五卿の筑前退去を要求すると諸隊は激高して拒否した。11月23日、小倉に滞在する西郷は、五卿とその周辺の動向を観察し、五卿を守護するのは脱藩浪士のみではなく諸隊も含まれる事や、小倉に参集した諸侯が疲弊している事などを把握した。西郷は九州諸藩とも度々衆議を行い、五卿の長府退去について方策を話し合った。その結果、福岡藩による説得を第一とし、説得が決裂した場合にのみ武力行使をして五卿を奪還することが決められた。11月25日、藩政府は椙杜駿河を長府へ派遣し、再度藩命として至急五卿を筑前に移送すべきことを伝えるも、諸隊は再び拒否した。同日、毛利元周の世子と清末藩主毛利元純が五卿に拝謁した。五卿は支藩藩主らに正義派を庇うよう諭したという。拝謁の後、毛利元周は諸隊に軽挙を慎むよう布告し、その後支藩藩主ら三人は萩へ向かった。この時の支藩藩主らの萩行きは、藩主父子へ藩政が俗論派に傾きすぎている事を説き、正義派の赦免・復権を求める為であったとされる。しかし萩を訪れた支藩藩主たちは、藩主父子を握った俗論派から、長州本藩の命として五卿九州行と諸隊恭順の為に働くよう言い渡される。同日、高杉晋作が筑前より馬関へ帰還する。この時、諸隊幹部は赤禰武人や支藩藩主らが藩政府との調停に失敗した場合に備え、長州各地に派遣された俗論派に与する代官を暗殺する計画を建てていた。これを聞いた高杉は、兵力が分散することや全員一致しての決起にならないこと、さらに暗殺という姑息な手段を取るべきでないとして反対した。そして高杉は、事態を傍観すれば諸隊からの脱走が増加し自然解隊の恐れがあるため、諸隊が一致して即座に挙兵すべきであると諸隊に説いた。事実この時、俗論派政府は書体の自然解散を目論み諸隊の家族に圧力をかけていた。長府に駐屯する諸隊隊員たちは「萩及ビ其他ヨリ、親戚或ハ知人密カニ長府来リテ、或ハ利害ヲ説キ、或ハ父母兄弟妻子憂苦ノ情態ヲ述ベ、又ハ恐嚇シテ諸隊ニ在ル者ヲ誘イ帰レル者多ク、人々相互ニ疑懼ヲ懐ク」という状況に陥り、多数の隊士が脱落した。また諸隊と行動を共にしている脱藩浪士たちの間にも、攘夷を捨て幕府恭順に傾く長州藩を見限り、長府を去る者が出るようになる。諸隊幹部は高杉の意見を取り入れ暗殺計画を中止したが、支藩藩主や赤禰武人らが萩で政府と交渉をしている最中でもあり、即時挙兵には同意しなかった。同日、敬親父子は幕府へ恭順の意を示すため萩城を出て天樹院に蟄居した。11月28日、総督府は尾張藩士横井一太郎らを山口に派遣し、山口奉行内藤仁右衛門がこれに応対した。横井らの山口行きは戦争回避の条件の認識共有と長府・清末藩の状況確認のための巡回を目的としていた。しかし長府には萩藩政府に反抗する諸隊があり、萩藩政府は横井らを終始酒宴でもてなし山口に留めた。山口に留まった横井らは条件の履行について、山口城破却は屋上の瓦を取り除くのみでよい等のアドバイスをして広島に帰った。12月1日、福岡藩士越智小平太、真藤登、喜多岡勇平が長府(現在の下関市長府)の五卿を訪れ、朝廷及び幕府の命令により九州の五藩が五卿を預かるという申し入れをしたが、五卿も諸隊も断固拒否した。越智は諸隊の様子について、『過激輩は昨今にては髪も延し候て長さ肩を過ぎ 眼色は血走り死を決候気色にて』と述べている。越智らは、長州復権のためにも力を惜しまない事を五卿と諸隊幹部に説いた。さらに勅命が出たこと、五卿の家族も望んでいること、内戦を回避すべきこと等をしきりに説いて九州への移動を受け入れるようせまった。諸隊幹部は、福岡藩の義は忝なく思うが、薩賊と協力し征長軍が解かれない現状では、謀略でないか疑ってしまうと率直に語った。また主君が朝敵と称せられ、奸臣が周りを囲んで居る現状において、五卿まで去られては長州を回復することができないと言った。喜多岡は諸隊幹部の率直さに感動したものの、交渉自体は暗礁に乗り上げてしまい、説得を諦め小倉へ帰った。12月3日、今度は福岡藩の月形洗蔵が功山寺に赴き、五卿の筆頭、三條実美と面会した。喜多岡は諦めたが月形は諦めずに粘り強く交渉した。また五卿が九州に渡れば、福岡藩と薩摩藩は五卿と長州藩の赦免に必ず力を尽くすと約束し、さらに他の条件は履行されている言を伝える。この日、三條は多少軟化した。九州へ行ってもよいが長州藩内が内戦寸前であり、世話になった長州藩の危急を放置したまま九州へは渡れない。長州藩の騒動が収まれば九州へ行くと言い、九州に行く場合は五人別々ではなく全員一緒でありたい等の要望も出した。同日、五卿の従者である中岡慎太郎が小倉に赴き、五卿帯同の脱藩浪士は五卿の九州行きについて、条件付きながら賛成すると伝えた。条件としては長州藩の面目を立てる事であり、現状では征長軍の兵威を恐れて五卿を差し出したと形となり面目が保たれない。征長軍解兵後であれば五卿の九州行に賛成する事を伝えた。五卿と脱藩浪士の変化に力を得た月形は、残る諸隊を説得するため筑紫衛を萩に送り萩藩政府と諸隊との和解の仲介を目論む。小倉に滞在していた西郷は、五卿の要望と中岡の条件について総督府と交渉するが、まず受け入れられるだろうと語った。この頃の西郷は、優柔不断で朝令暮改な幕閣や、練度も士気の低い諸藩の様子を征長軍内で目の当たりにし幕藩体制の限界を感じていた。また福岡藩士は、長州の保全と薩摩との和解こそ攘夷派の最重要問題と考え、しきりに西郷に説いた。この時期を前後して西郷は長州の減封について発言しなくなり、長州の赦免に積極的に発言するようになる。さらに西郷は長州内訌戦の阻止についても、福岡藩士と協力するようになる。12月5日、長州藩より総督府へ藩主父子からの謝罪文書が提出された。同日、長州藩は、薩摩から先月送還された長州人捕虜に対する厚遇に謝するため、山田重作に金品を持たせて薩摩藩に派遣した。12月7日、萩に赴いた筑紫は、天樹院にて藩主父子に拝謁し、五卿の九州行のプロセスを説明した。そして筑紫は、正義派重鎮として野山獄にいた前田孫右衛門、楢崎弥八郎を解放し、諸隊説得と薩摩藩応接の任に付けるよう申し出た。おそらくこの案は福岡藩士と長府の諸隊が打ち合わせて決めた、諸隊の五卿九州行き承諾の為の条件であったと思われる。毛利敬親はこれを政府に検討させたが俗論派は拒否し、筑紫の仲裁は不発に終わった。12月8日、赤禰武人が萩より長府に帰還した。赤禰武人は、藩政府は「五卿が安全に九州へ移った場合、諸隊の存続ならびに藩士への取り立てる事」を約束したと伝え、萩藩政府に恭順するよう諸隊幹部に言った。公爵山縣有朋伝によれば、建言書で求めた武備恭順や藩政改革については無回答であり、また野山獄に収容された正義派高官についても回答なかった為、談判は失敗と見なされたようである。赤禰の談判の内容に満足出来なかった山縣ら諸隊幹部は衆議を行い、事後策として五卿の内の一人を奉じて萩へ赴き、藩主へ正義派高官の釈放や武備恭順を直訴する案を検討する。赤禰武人はこれに反対し、正義派と俗論派の和解を目指す両派混同論をしきりに説いた。また独断専行の多い高杉の帰隊を拒否した。しかし諸隊幹部は高杉を歓迎しており、この点において赤禰は無視されたという。防長回天史によれば同日、萩藩政府は福岡藩の斡旋に謝辞を示すため福岡藩へ使者を送った。とある諸隊隊士はこれを知り、月形ら福岡藩士に俗論派の使者を暗殺するよう依頼した。このように正義派の俗論派に対する不信感は拭い難く、五卿の九州行きは拒否され続け、月形と諸隊の話し合いは平行線を辿る。月形は事態打開のため、小倉の西郷に馬関へ赴くよう依頼する。上記のように功山寺挙兵の後に編纂された史料には、諸隊が俗論派・征長軍(福岡藩・長州藩)の説得を受け入れなかったとするものが多い。ただし研究者の中には、複数の諸隊が両派混同論を受け入れ藩政府に恭順したとする者がいる。残された史料から推察すれば、多くの諸隊が一度は藩政府と征長軍の説得を受け入れ恭順した可能性が高い。同日、総督府広島本営は諸侯の幹部を参集させ、長州の戦争回避の条件履行がスムーズに行われていることを説明した。ただ軽すぎる処分に反発していた越前藩や熊本藩は、総督府に戦争回避の条件が履行されているか確認するよう求めた。総督府は尾張藩士と江戸幕閣を巡見使として派遣し、長州藩内を査察して、条件が履行されているか確認することとなる。12月11日、西郷隆盛は小倉を発し馬関に至り、月形および『諸隊の長官』と『謀議』した後、すぐに小倉に引き返す。この『諸隊の長官』が誰であるか不明であるが、赤禰武人である可能性がもっとも高いとされ、『謀議』とは諸隊説得についての相談であったと思われる。12月12日、月形はさらに五卿の元を訪ね西郷との『謀議』の内容を伝える。この会議の後、五卿は九州行きに同意した。上述の通り謀議の内容は不明であるが、三條は月形へ『極密談合之件々 委細聞届候 当藩内輪之紛乱鎮静之効験相立次第 筑藩へ渡海之儀令決定候』と書き残しており、赤禰らの諸隊説得が成功しつつあった事を示唆している。この時期の『小倉在陣日記』にも、『近頃長州の内にて奇兵隊之者 萩方と五卿附属方と二ツに相別れ』とあり、奇兵隊が分裂し、萩藩政府側についた者がいた事を示している。月形は小倉の西郷に急使を送り、五卿が九州移送を同意したことを伝え、西郷は月形へ返答の使者を送り、五卿に九州移送の日取りを決めるよう求めた。五卿退去と諸隊恭順の空気が広まる中、一人高杉のみが信念を変えず俗論派と戦うことを主張した。高杉は俗論派政府をまったく信用しておらず、正義派と俗論派の仲介を行う赤禰も信用しなかった。高杉は諸隊の消極姿勢を見て憤激し、度々決起を提案したが諸隊幹部は拒否した。消極的な諸隊に業を煮やした高杉は、少数の賛同者とともに決起し、諸隊全体をそれに続かせようと画策する。高杉は即時挙兵に賛同する御楯隊率いる太田市之進、伊藤俊輔率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊のみで功山寺にて挙兵し、馬関にある長州本藩の会所を占領する計画を建てる。挙兵日は赤穂浪士の吉良邸討入と、吉田松陰が東北遊学の為に危険を冒して脱藩した日である12月14日と定め、高杉らは決起の準備を開始した。挙兵に際して自らを死を覚悟して義のために戦った赤穂浪士や初めて清水の舞台から飛び降りた師の覚悟を挙兵する自らになぞらえていた為と言われている。同日、総督府は吉川に、近日中に戦争回避の条件の確認のための巡見使が長州に入ることを通告した。先発として尾張藩士長谷川敬が萩に向かう。その後、幕閣である戸川安愛を筆頭として軍装した560人の大勢が、山口を経て萩を訪問する予定であった。吉川は、長州内での偶発的な衝突を懸念し、息子を人質とする代わりに巡見使派遣中止を総督府に願い出る。総督府は拒否したが、吉川はなおも食い下がり軍装ではなく平服での巡見を懇請した。総督府は譲歩し、巡見使は平服で長州藩領に入る事となった。12月13日、高杉の挙兵計画を聞いた諸隊幹部は全員一致して反対し、高杉を止めるため説得を試みた。しかし高杉はあくまで消極的な諸隊幹部の態度に激高し、自らと一緒に立ち上がるよう逆に演説を行った。高杉は、元が土百姓である赤禰武人に騙されていると言い、さらに自分を毛利三百年来の家臣であり、赤禰ごときと比べられては困ると叫ぶ。そして「願わくば従来の高誼に対して、予に一匹の馬を貸してくれ。予はそれに騎して萩の君公のもとへ行き直諌する。一里を行けば一里の忠を尽くし、二里を行けば二里の義を尽くす」と絶叫した。しかし身分の低い武士である山縣や農工商身分の諸隊幹部たちにとって、毛利家家臣を強調する演説では士気を鼓舞出来ず、決起の賛同者を得ることは出来なかった。説得が不調に終わった後、高杉は功山寺を離れ馬関に赴き、僅かな賛同者と決起の準備を進めた。奇兵隊日記には、高杉は『脱走』したと記された。同日、萩へ正義派復権のために出張していた長府藩家老や清末藩主毛利元純が長府へ帰還した。正義派復権の為に萩へ赴いた支藩藩主らは、藩政府の命により、諸隊へ萩藩政府への恭順と五卿の九州行きを説くようになる。またこの頃より、五卿も諸隊に対し内訌戦を回避するよう諭すようになる。頼みの綱として長府・清末両藩が陥落した為か、太田市之進と彼の率いる御楯隊が、直前になって決起から脱落した。これを聞いた高杉は大いに怒って太田を斬ると言い、太田も一時切腹を考えたが野村靖が仲介に入って和解した。このように決起直前、高杉と諸隊は激しく対立した。しかし彼らは不思議と友情を失わなかった。諸隊幹部は高杉らの無謀な挙兵を邪魔することはなく、高杉らは銃器弾薬の準備を整えることが出来た。また高杉から斬ると罵られた太田は剃髪して謝罪し、出陣に際しては酒樽と魚数尾を贈った。奇兵隊の山縣は高杉の肩印に以下の歌を書いて決起の餞とした。(歌の中にある谷と梅は、当時の高杉の偽名である谷梅之助から取られている) 谷つづき 梅咲きにけり 白妙の 雪の山路を 行く心地して12月15日深夜、高杉晋作らは功山寺にて挙兵した。高杉は吉田松陰より「生きている限り、大きな仕事が出来ると思うなら、いつまででも生きよ。死ぬほどの価値のある場面と思ったら、いつでも死ぬべし」と教えられていた。この教えが高杉に周囲の反対を押し切ってまで無謀な挙兵を決行させたと言われ、死を覚悟した高杉は白石正一郎の末弟である大庭伝七に遺書を託している。功山寺に集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊のわずか84人だけであった。挙兵決行日は当初12月14日に定められていたが、説得や準備に手間取り翌日にずれ込んでしまった。なおこの日の天候は吉良邸討入時と同じく、下関では珍しい大雪であったとされる。紺糸威の少具足を身に付け桃形の兜を首に下げた格好の高杉は、兵を引き連れ功山寺へ赴き五卿への面会を請うた。五卿を奉じる脱藩浪士がこれを取り次ぎ、寝所から三條実美が現れる。高杉は三條へ挙兵を告げ出陣の盃を欲した。三條実美は冷酒を注いでこれを与えた。高杉は注がれた盃を飲み干し、「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と挨拶をして立ち上がった。三條は高杉の決起を止めるつもりであったが、話しかけるタイミングを失いそのまま行かせてしまった。高杉の決起について、共に行動した当事者の伊藤俊輔は後にその詳細を以下の様に語っている。高杉の決起を事前に察知した長府藩は困惑していた。挙兵した高杉らが目指すのは長州本藩内の馬関出張所の一つである下関新地会所である。功山寺から馬関へは長府藩領を通行する事となる。長府藩の毛利元周らは概ね正義派に同情的であったが、正義派・俗論派の争いは長州本藩の騒動であり、またこの時期萩に赴いた長府・清末両支藩藩主は萩藩政府により、五卿の九州行きと諸隊恭順の為に働く事を命じられていた。そんな中、長州本藩に叛旗を翻す高杉らの領内通行を認めることは出来なかった。長府藩は高杉の元へ家老を送り、挙兵中止を要請し長府藩領は通行不可であると伝える。高杉は長州支藩である長府藩の立場を考慮し、新地会所へは船で向かうと家老に告げた。ただし実際には船は使われず、高杉と決起群は長府藩領を陸路で通過した。長府藩側はこれらの動きについて察知したが、妨害はしなかった。高杉らは五卿に決死の覚悟を伝え決起したが、この15日、萩より帰還した長府藩主毛利元周は、萩政府の命で五卿と諸隊へ九州行きを承認し、萩藩政府への恭順するよう言い諭した。ついに五卿は本日(15日)より十日の猶予をもって九州へ移動することを約束した書状を月形へ渡した。ただし五卿は、十日の猶予の間に一人二人が萩に赴き、藩主父子に別れの挨拶をすることを月形に伝えた。これまで親身に付き従ってくれた諸隊に報いるため、最後に藩主と面会し正義派の復権を求める為であったとされる。同日、福岡藩士喜多岡勇平は萩の天樹院を訪れ、野山獄に繋がれた正義派高官の前田楢崎の罪を赦し、重役へ登用するよう再び請願した。また同日、総督府巡見使の先発・尾張藩士長谷川敬が萩に到着した。12月16日、高杉らは馬関新地へ到着し会所を襲撃した。高杉らは会所襲撃は食料金銭を取れれば良く、人を殺すのは悪いと考え空砲を撃った。馬関総奉行の根来親祐(根来上総)らもすぐに降伏し、会所は遊撃隊が占拠した。遊撃隊隊士は根来に、俗論派と見做す役人を引き渡すよう強く求めた。根来が引き渡した際の処置を尋ねると、斬首して晒首にすると息巻く。根来は、海を隔てて征長軍と対峙している時に、内輪揉めをする場合ではないと叱責し、役人には萩へ帰還するよう言った。役人は萩への道中に暗殺されるかもしれず、会所に留まりたいと言った。根来は先ほどの遊撃隊隊士を呼び寄せ、役人は駕篭で萩まで送るため、暗殺しないよう言い聞かせ、隊士は決して暗殺はしないと約束した。流血沙汰は避けられたが、会所襲撃を察知した長府藩が事前に密告をした後であり、会所側は既に金穀を移動させていた。軍資金がない高杉らに同情した根来親祐は、幾ばくかの金銭を都合したが80人以上の人員の経費を賄うことは出来なかった。そのため伊藤俊輔が、高杉と親しい馬関の豪商入江和作らの元を走り回り二千両の大金を借りだした。他にも馬関周辺の住民は決起した高杉らに好意的で、120人ほどの志願兵が馬関会所に来た。その後も志願兵は増える一方であったという。次に高杉は18名(20名説もあり)からなる決死隊を組織し、三田尻の海軍局に向かい「丙辰丸」など軍艦3隻を奪取しようとした。決死隊は3班各6人に別れ、3隻の軍監に乗り付けた。高杉は決起を告げ、俗論派政府打倒のため立ち上がることを迫った。この後の経緯は不明な部分があるが、12月26日前後には説得が功を奏し、長州海軍の3隻はすべて正義派の隷下となった。(丙辰丸と庚申丸の奪取には至らなかったものの癸亥丸艦長福原清介の説得には成功したという異説もある)。このように高杉は功山寺で決起し、馬関の会所ならびに海軍局を襲撃したが、どちらもほぼ無抵抗で占領を許し死亡者を出さなかった。現場では正義・俗論の両派とも武力衝突による流血を回避した。同日、萩に滞在していた総督府巡見使である長谷川に、藩主父子は使者を送った。長谷川は諸隊鎮撫、五卿九州行の状況を質問し、使者は現状をありのまま述べた。その後、萩に滞在していた福岡藩士の喜多岡らも長谷川に面会した。喜多岡は、諸隊鎮静に手を焼いていることをありのまま長谷川に伝えた。萩藩政府と喜多岡の報告を聞いた長谷川は機嫌を損ね、形勢がそのようであれば総督府に報告し、巡見を中止すべきと発言した。長谷川は、長州藩が諸隊鎮撫出来ないのであれば、尾張藩兵を用いて諸隊を討つと言った。この強行な発言が総督の意向を含んだものかは不明である。しかし萩藩政府は巡見使の発言を総督府の意向と重く受け止め、それまでの説得による諸隊鎮撫を改め、武力行使による諸隊征討方針に転換する。12月17日、この日、月形らは五卿を守護する諸隊をから五卿渡海の承諾を得るに至った。奇兵隊総督たる赤禰武人、筑前正義派と呼び同胞扱いしていた福岡藩攘夷志士、半ば君主と仰ぎながら九州行きを決心した五卿、最後の頼みの綱とした長府・清末藩藩主らの説得の前に、諸隊はついに藩政府へ恭順したようである。恭順した諸隊は、決起した高杉との混同を避けるため、長府藩領を出て長州本藩領である伊佐に撤退した。奇兵隊軍監の山縣有朋は少し遅れて諸隊に続いた。遅れた理由は時勢を悲観して剃髪したためと言われ、これより後、山縣は素狂と名乗る。ただし伊佐に移った後も、山縣ら諸隊幹部は高杉や遊撃隊と連絡を取り合ったという。説得を受け入れず長府に残留したのは、馬関の高杉ら遊撃隊と、決起を直前に断念し一時は切腹を考えた太田市之進率いる御楯隊のみである。御楯隊は功山寺へ赴き五卿を守護するようになる。ただし公爵山縣有朋伝によると諸隊の伊佐行きは、三條実美・三條西季知が別れの挨拶のため萩へ行く際の護衛の為であり、諸隊が恭順したという記述はない。それどころかこの萩行は、三條を通じて野山獄の正義派高官の釈放・武備恭順を藩主へ直訴する事を目的としていたとされる。他にも公爵山縣有朋伝には、諸隊が伊佐へ移った理由は、高杉晋作挙兵に応え、萩へ進撃して藩政府軍と戦うためであるとする記述もある。さらに両派混同論を解く赤禰は萩行へ同行せず、馬関へ赴き高杉に従い残留していた遊撃隊の説得を続けたという。この点も史料によって矛盾があり、どちらが正しいか不明である。同日、萩藩政府は、先日の巡見使長谷川の強行発言を受けて、藩主父子の上書として、諸隊・脱藩浪士征討の旨をしたためた書状を吉川を通じて総督府に提出した。萩藩政府は諸隊追討部隊の編成のため、萩在住の藩士に召集をかけた。12月18日、萩藩政府は渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、山田亦介、大和国之助、前田孫右衛門、松島剛蔵、毛利登人の正義派重鎮7人を捕らえ、野山獄に送った。防長回天史によれば、七人の捕囚は巡見使長谷川の意を汲んだものと言われ、萩藩政府は長谷川の助言に従い7人を殺害する意図であった。萩に滞留していた喜多岡らは俗論派の強硬姿勢に驚き、長谷川や萩藩政府に7人の助命を嘆願したが聞き入られなかった。喜多岡は小倉にいた西郷へ危急を知らせる急使を送るとともに岩国にへ向かった。吉川を通じて7人の助命嘆願をするためであった。後に小倉にて急使から事情を聞いた西郷は即座に岩国に向かった。他にも小倉に在していた若井鍬吉、加藤司書らは状況確認の為に総督府広島本営へ向かった。12月19日、萩藩政府は、野山獄に捕らえていた渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、山田亦介、大和国之助、前田孫右衛門、松島剛蔵、毛利登人の正義派高官7名を切腹もしくは斬首した。(甲子殉難十一烈士)。公爵山縣有朋伝によるとこの処置は、諸隊の萩接近と高杉挙兵の報が萩に達し、俗論派は諸隊が萩へ到着すれば野山獄を破り正義派高官を奪還するものと考え殺害したとする。萩藩政府はニ卿に急使を送り、伊佐にて急使と面会した二卿は萩行きを断念し長府に引き返したが、諸隊は正義派の処刑を聞き激高し、伊佐に留まる事を決めたという。また俗論派は領民に対し、諸隊への支援を禁止する布告を出したが、領民は概ね正義派を支持しており、諸隊の宿泊する家屋や人夫、食料などの提供を積極的に行ったという。これも上述の通り、防長回天史等の史料において7人の殺害については巡見使長谷川の意向が強く働いたという記述があり、矛盾が生じている。どちらが正しいかは不明であるが、他史料には伊佐に7人殺害の風聞が届いたのは23日という記述もある。同日、幕府の巡見使、石川光晃、戸川安愛が山口城破却の状況を確認した。山口は城ではなく館であり、破却の仕方も屋根瓦十数枚を落としただけであったが、巡見使はこれを問題なしとして了承した。12月20日、防長回天史によると、7人の処刑を知らない喜多岡は、岩国の吉川の元を訪れ正義派の助命嘆願を行った。西郷も駆けつけてきて吉川に正義派の助命嘆願と、軍事衝突を起こさないように萩藩政府を説得するよう求めた。吉川は二人の言葉を入れて正義派の助命を約束したが、会議の途中、萩より急使が来て既に7人が処刑された事を告げた。西郷らは愕然とした風体で
出典:wikipedia
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