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内海突破

内海 突破(うつみ とっぱ)は、漫才師の名跡。初代 内海突破(1915年2月25日 - 1968年6月8日)は、本名: 木村貞行(きむら まさゆき)。愛媛県南宇和郡内海村(現・愛南町)出身。夫人はテイチク専属歌手だった前島節子。御荘金吾の弟。浪華商業学校、関西大学卒。大阪市港湾局に奉職したが、芸人への思い断ち難く、高校で同級生だった西条凡児に弟子入り。凡児の相方(九条芸児、彼も高校の同級生)が1935年応集直後に戦死したため、翌1936年に西条凡々の名で凡児と組んでデビュー。その後、故郷の内海村から亭号を頂いて改名。後に吉本興業の専属となり上京。10人目の相方・並木一路とのコンビで、1940年頃からエンタツ・アチャコらと並び称される人気者になる。1941年に人気から東宝演芸部専属に引き抜きされ、復員後も一路・突破で活動、1947年からは映画にも進出するも、1949年にNHKラジオ『陽気な喫茶店』に松井翠声との掛け合いが人気となりコンビを解散。その後はピンのコメディアン、ボードビリアンとしてラジオ・映画に活躍の場を広げ、「ギョギョッ」というギャグが流行語になった。弟子に獅子てんや・瀬戸わんや、内海カッパ(今宮エビスの相方)、大阪はじめらがいる。他脇役などで多数出演。2代目 内海突破(1917年 - )は、本名:木村三郎。愛媛県出身。御荘金吾及び初代の弟。復員後兄に弟子入りし、1950年2月、浅草松竹演芸場で宇和島三郎・四郎の三郎でデビュー。後に内海サラブの名で中山アラブと組む。1954年には巽タンバの名で宮津タンゴ(後の夢乃タンゴ)。後に笹山タンバと改名。1956年に解消し漫談に転じる。その後娘の秋月ルンバや南喜代子(後の吉本新喜劇の女優)、再びタンゴとのコンビなどめまぐるしく変わり、1971年には花乃ルンバ(後サムライトリオを経て宮川珠季)、笹山ナンバ(後の夢すすむ)、1977年に2代目を襲名。二代目「内海突破」の襲名には少なからず反対があった。私生活では芸人たるものプライベートはあってないようなものという理念から普段でも派手な舞台で着るスーツを着用していた。メガネは伊達メガネでレンズが入っていなかった。舞台ではポケットから取り出したハンカチで結んでアピールして笑いを取っていた。弟子に船仁のるか・喜和そるか、相方であった鼻乃ルンバ、ナンバ、実子の秋月ルンバらがいる。近年は表舞台からは遠ざかっているものの、現在も存命中である。

出典:wikipedia

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