矢風(やかぜ)は、日本海軍 の標的艦。竣工時は峯風型駆逐艦の6番艦。戦後解体。艦名は矢が飛んでいるときに生じる風のこと。峯風型駆逐艦として1920年(大正9年)7月19日三菱長崎造船所で竣工。横須賀鎮守府籍。1931年(昭和6年)に所属の第2駆逐隊は第一航空戦隊(鳳翔、加賀)に編入され、翌年の第一次上海事変に参加する。1937年(昭和12年)以降は駆逐艦籍のまま兵装の一部を撤去し「摂津」の無線操縦艦として用いられた。太平洋戦争が始まり標的艦が「摂津」1艦では足らなくなった。また元戦艦の「摂津」は18ノットと低速で運動能力も低かったため「矢風」も爆撃標的艦に改装することとなった。改装内容は兵装を全廃して、上部構造物を金網で覆う等の対爆弾防御を施した。速力は24ノット発揮できたが、元が駆逐艦のため1kg演習弾に耐える程度の簡単な防御しか施せなかった。このときの改造では無線操縦装置はそのまま残されたが、これは1944年10月に撤去された。1942年(昭和17年)3月から5月にかけて改造し、7月20日に特務艦に編入され標的艦に類別される。改造を終えた本艦は8月下旬に南方へ進出する。マーシャル諸島方面にて基地航空隊の爆撃訓練に従事中、南雲忠一機動部隊司令長官よりトラック泊地での航空隊訓練に参加するよう要請された。9月27日ロイ=ナムル島(ルオット)を出発しミリ環礁(ミリ)へ向かっていた「矢風」は予定を変更、水上機母艦「神威」から補給を受けたのち、10月2日にトラック泊地へ到着。空母「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」の爆撃訓練に協力した。10月9日、機動部隊の爆撃訓練を終えてタロア島(マロエラップ環礁)へ回航され、14日から23日まで基地航空隊の訓練に参加する。また各地航空隊の訓練に協力するだけでなく、前線への輸送任務・護衛にも従事した。1943年(昭和18年)3月6日、船団護衛中カビエン南方で第34号哨戒艇と衝突して艦首を失ったため、4月12日から5月22日にかけて呉海軍工廠で修理を行った際に簡易型艦首とした。一方、第34号哨戒艇はこの事故で船体が分断され、前部が沈没、後部が大破し、曳船の曳航でトラックに入港した。修理中の6月1日、古賀峯一連合艦隊長官より第一基地航空部隊(第十一航空艦隊)編入と7月のマーシャル方面部隊訓練、8月ラバウル方面部隊訓練に従事するよう下令される。6月10日に呉を出発、途中まで「摩耶丸」「あきつ丸」「凌水丸」を護衛したのち、6月18日ルオットへ到着。以後、サイパンやギルバート方面で訓練に従事した。その後「矢風」は機動部隊に編入されていたが、10月30日附で連合艦隊附属となり、油槽船「寶洋丸」「玄洋丸」の護衛を下令された。11月6日、船団を護衛しての交戦中に玄洋丸と衝突して損傷しトラックで修理を行った。1944年2月7日、トラック発の船団を護衛して内地へ向かい、2月27日に呉に入港した。その後は北海道方面など内地で爆撃訓練に従事した。1945年(昭和20年)7月18日 横須賀港小海に係留中に敵艦載機の攻撃を受ける(横須賀空襲)。隣の艦が直撃弾を受けた際に爆風や破片により損傷し、すぐに修理されたがそのまま終戦を迎えた。9月15日除籍。戦後は長浦湾に係留されていたが浸水により着底。1948年(昭和23年)7月から9月にかけて解体された。
出典:wikipedia
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