論点先取(ろんてんせんしゅ、、)とは、証明すべき命題が暗黙または明示的に前提の1つとして使われるという誤謬の一種。論点先取の虚偽(ろんてんせんしゅのきょぎ)とも言われる。論点先取は、循環論法の誤謬と関連している。西洋での最初の定義としては、古代ギリシアの哲学者アリストテレスが紀元前350年ごろに行ったものが知られており、その著書『分析論前書』("Prior Analytics") にある。ラテン語の用語が16世紀に英語に導入された。ラテン語では "Petitio Principii" であり、「起点または原則を当然と見なすこと」を意味する。すなわち、前提(原則、起点)が問題となっている事柄の真偽に依存することを意味する。ラテン語の句はアリストテレスの "Prior Analytics II xvi" にあるギリシア語の "en archei aiteisthai" に由来する。論点を仮定することは、必要とされる命題を示すことに失敗することを意味する。しかし、他にもこれを発生させる方法がいくつか存在する。例えば、論証に三段論法が全く使われない場合 […]。しかし、もしBからCへの関係が同一の場合、または明らかに置換可能なものである場合、または一方を他方に適用できる場合、論点が先取されている。Fowler の "Deductive Logic"(1887年)では、ラテン語の語源を "Petitio Quæsiti" としている。「それは論点先取だ」と言えるのは、1つの三段論法の中で「循環論法」が使われている場合である。すなわち、推論過程に証明すべき事柄を前提とする命題を含んでいる場合である。本質的に、命題がそれ自身の証明に使われるような戦術はその基本的形式において説得力がない。例えば、ポールが本当のことを言っていると証明したいとする。この文章は論理的だが、話者の真実性を納得させることはできない。問題は、ポールの真実性を証明するためにポールが本当のことを言っていると仮定することを聴衆に頼んでいるため、これは実際には「ポールが嘘をついていないなら、ポールは真実を言っている」ということを証明しているに過ぎない。このような論証は論理的には妥当である。すなわち、結論は実際に前提から導き出されている。ただし、何らかの意味でその結論は前提と同一である。自己循環論法は全て、このような証明すべき命題が論証のある時点で仮定されるという性質を持つ。なお、統語的には、上記の例のように論点先取であることが明確にわかるような表現は滅多にない。関連して、この用語は「問題の回避」の意味で使われることがある。これは、論証の前提が欠けていることを指摘するもので、そのために論証の自己循環性を指摘することができない。辞書によっては「結論と同程度に証明を必要とする事柄をベースとして結論を導く誤謬」とされている("A Dictionary of Modern English Usage"、初版は1926年)。しかし、これはむしろ多重質問の誤謬に近い。論点先取は循環論法の誤謬と関連している。循環論法では、2つ(あるいはもっと多く)の結論が互いにもう一方を前提としている。すなわち、論旨を追っていくと、ある結論がそれ以前の前提とされていることがわかる。論点先取はもっと単純な1つの論証とその結論だけでも発生しうる。厳密には、論点先取は結論がその直前の前提の一部であることを意味する。しかし、「循環論法」とするべきときに「論点先取」という用語を使っても間違いとは言えない。論点先取は多重質問の誤謬とも関連している。多重質問の誤謬とは、結論を単に主張するのではなく、(結論を支持する)受け入れられにくい証拠群を提示することに起因する技法の誤謬である。それの特定の形式として、ある命題をより汎用的な命題の例に還元するというものがあり、後者の命題は前者の命題に比べて真偽がより明らかということはない場合がある。この論証の最初の前提を、ある道徳体系内の公理として受容した場合、この推論は健全な論証と言える。最初の前提は結論よりも汎用的であるため、これを公理として認めなければ、全体として単に「死刑は悪いことだ」という主張よりも弱い論証にしかならない。現代英語では、"to beg the question" が間違って「問題を提起する」とか「本当に答えるべき質問」という意味で使われることがある。例えば、次のような使い方である。「今年の財政赤字は5000億ドルである。ここで疑問が生じる(This begs the question)。我々はどうやって予算をつり合わせようとしているのか?」この混乱の元は、"beg" と "beget" が似ているためと考えられる。"beget" には「生じさせる」という意味がある。"beget" を "to beget the question" という形で使った例として1748年のデイヴィッド・ヒュームの著書 "An Enquiry Concerning Human Understanding" がある。このような話は、規範文法的な言語学的論争の例である。
出典:wikipedia
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